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八年間育てた「息子」は、夫と初恋の女の子どもだった

作者: 熾星
掲載日:2026/08/07


 結婚八周年の日、誠司は、私が何年も欲しいと言い続けていたホームプロジェクターを持ち帰ってきた。子供部屋から駆け出してきた悠斗は、私の腰に抱きつき、いつになく素直な笑顔を向けた。私たち三人が暮らしているのは、駅裏の古い木造アパートだ。広くもなく、冬になると窓枠の隙間から冷気が入り込んだが、それでも私は、いつか暮らしは楽になると信じていた。


「ママ、うちはまだお金に余裕がないけど、パパって本当にママのことが好きなんだね。ずっと欲しいって言ってたの、ちゃんと覚えてたんだ」


 私は悠斗の頭を撫で、台所へ戻って用意していた料理を食卓へ運んだ。結婚記念日のために、普段は手を出せない和牛を買い、誠司の好物である牛すじの味噌煮込みも作った。食事の前にスマートフォンをプロジェクターへ接続すると、壁に映ったのは動画アプリではなく、機器に残されていた古いタブレットの画面だった。ログアウトされていないLINEのトーク画面が、白い壁いっぱいに広がった。


「誠司、汐見タワーレジデンスで待ってる。あの古いプロジェクターは、あの人にでもあげて。もう飽きたから」


「気づくわけないよ。役所の手続きは半年前に終わってるのに、まだ自分が俺の妻だと思ってる。八年も一緒にいたのは、絵里奈が帰ってくるまでのつなぎにすぎない」


 送り主は、神谷絵里奈。誠司が「とっくに縁を切った」と言っていた初恋の相手だった。


 新しいメッセージが続けて表示された。


「まずい。古いタブレット、LINEからログアウトしてなかったかも」


「大丈夫。今ごろ、あいつは喜んで記念日の夕飯を作ってる。悠斗にログアウトさせるよ」


 悠斗?



1



 閉じられた子供部屋のドアへ目を向けた。私はトーク画面を撮影し、タブレットとプロジェクターを元の状態へ戻してから、何事もなかったように台所へ戻った。ほどなくして悠斗が部屋から出てきて、私の腕にしがみついた。八年間育ててきたその顔を見ても、まだ心のどこかで、同じ名前の別人であってほしいと願っていた。


「ママ、今日は宿題を少しだけ後にしてもいい? パパがくれたプロジェクター、先に使ってみたいんだ。絶対に壊さないから。パパにも聞いてみようか?」


 私が答える前に、悠斗はキッズスマホで誠司へ電話をかけた。誠司は形だけ宿題を優先しろと注意したあと、すぐに私へ話を振った。


「美月、少しくらい使わせてやってよ。子どもは悠斗一人なんだから、そんなに厳しくしなくてもいいだろ。こっちはまだ用事がある。帰るのは少し遅くなるよ」


 電話の向こうから、女が甘えるように「誠司」と呼ぶ声が聞こえた。すぐそばにいることが分かるほど近い声だった。胸の奥に残っていた最後の期待まで、音を立てて崩れた。


「部屋に持っていっていいよ。壊さないようにね」


 悠斗は歓声を上げ、振り返りもせずにプロジェクターを抱えていった。


 私は寝室へ入り、誠司が書類を保管している引き出しを開けた。そこには、八年前に婚姻届が受理された際の証明書と、半年前の日付が入った離婚届受理証明書があった。妻の署名欄には「久世美月」と書かれている。結婚してから八年間使ってきた私の名前だったが、筆跡はまるで違っていた。


 書類袋の下には、まだ提出されていない新しい婚姻届も入っていた。夫となる人の欄には久世誠司、妻となる人の欄には神谷絵里奈。成人二名の証人署名までそろっている。


 戸籍上、私は半年前から離婚したことになっていた。


 離婚届の受理通知が届けば、私にも知られるはずだった。だが毎日郵便受けを確認していたのは誠司だ。役所から届いた通知も、彼が先に抜き取ったのだろう。


 結婚したばかりのころ、誠司は重要な書類をすべて自分で管理すると言い張った。「これなら美月は俺から逃げられないな」と笑われ、当時の私は愛されているのだと勘違いしていた。今思い出すと、胃の奥がひどくむかついた。


 玄関の方から足音がした。私は書類を一枚ずつ撮影し、すべて元の位置へ戻した。帰宅した誠司は、最初に悠斗の部屋へ入った。二分もしないうちに寝室へ現れ、笑みを浮かべながら、探るように私を見つめた。


「悠斗が、プロジェクターを使わせてもらえなかったって言ってたけど。ところで、あれ、もう電源を入れた?」


 私はわざと不思議そうに首を傾げた。


「まだだけど。どうしたの? 私に見られたら困るものでも入ってる?」



2



 誠司は一瞬だけ固まったが、すぐに笑って私を抱こうとした。


「あるわけないだろ。中古だから設定が分かりにくいかもしれないし、美月が壊して落ち込むのが嫌なだけだよ。せっかくの記念日なんだから、そんなことで機嫌を悪くするなよ」


 私は体をずらして腕を避け、最後の皿を食卓へ置いた。料理からはまだ湯気が立っているのに、部屋には息苦しいほどの静けさが満ちていた。


「先に食べよう。今夜は一緒に過ごすって言ったでしょう」


 誠司はスマートフォンで時刻を確認し、わずかに視線をそらした。


「美月、会社から急な連絡があったんだ。取引先がかなり急いでる。最近は景気もよくないし、少しでも稼いだ方が家のためになるだろ。埋め合わせは必ずするから」


 思わず笑いそうになった。


 久世ホールディングスの創業家に生まれた男が、八年間、私の前ではしがない会社員を演じ続けた。私が借りた古いアパートに住み、私が買った安物のワイシャツを着て、今も家族を養うために働く夫のふりをしている。


 そのとき、誠司のスマートフォンが鳴った。


 彼はすぐに窓際へ移動して電話に出た。悠斗も子供部屋から顔を出し、父親をかばうように口を挟んだ。


「ママ、パパは本当に仕事が大変なんだよ。行かせてあげて。僕、ちゃんと宿題もするし、ママが一人で寂しくならないように一緒にご飯も食べるから」


 電話を切った誠司の顔から、わずかに残っていた辛抱強さが消えた。


「ほら、子どもの方がよっぽど分かってる。俺が必死に働いてるのは、この家のためだろ? 美月には定職もない。家賃も光熱費も悠斗にかかる金も、全部俺が払ってるんじゃないか」


 一瞬、自分の記憶の方が間違っているのかと思った。


 家賃も光熱費も、悠斗の生活費も、そのほとんどを負担してきたのは私だ。誠司は時折数万円を置くだけで、自分一人が家計を支えているような顔をしていた。


 何も言い返さず、私は食卓の料理を一皿ずつごみ袋へ捨てた。そのときスマートフォンが震え、絵里奈から一枚の写真が届いた。裸の背中を見せた彼女が、広い浴槽の縁に座っている。背後の大きな窓には、湾岸の夜景が広がっていた。


「誠司、二十八階のお風呂、八年前の部屋よりずっと広いよ。早く来て。もう待てない」


 誠司は光った画面をちらりと見たが、慌てる様子もなかった。ネクタイを外して椅子へ放り、急いで靴を履く途中、私が三時間かけて煮込んだスープの鍋を蹴り倒した。そのまま玄関のドアを強く閉めて出ていった。


 私は床にしゃがみ込み、割れた土鍋の破片を拾った。汁は古い床板の隙間へ染み込み、何度拭いてもきれいにならなかった。


 誠司と知り合ったのは、私がフードデリバリーの配達をしていたころだ。


 東明市へ来たばかりの冬の夜、高級マンションへ料理を届けた帰り、数人の若い男に囲まれている誠司を見かけた。彼らは誠司を笑いものにし、マフラーを水たまりへ投げ捨てた。見過ごせなかった私は間に入り、誠司を助けた。


 それから、別々の飲食店や交差点で、何度も偶然のように彼と出会った。誠司は「運命かもしれない」と笑い、私のように裏表のない人には初めて会ったと言った。やがて交際を申し込まれた。


 両親は、勤め先も家族のことも詳しく話さない男は信用できないと反対した。私は二人が貧しい誠司を見下しているのだと思い込み、実家との連絡まで断ってしまった。


 今なら分かる。あの夜の騒ぎは最初から仕組まれていた。私は彼らの賭け事を恋愛だと信じたのだ。


 その晩、私は一睡もしなかった。自分の身分証や大切なものを少しずつ別の場所へ移し、持ち出せない資料は撮影した。そして、長く連絡を絶っていた結衣へ連絡し、誠司について調べてほしいと頼んだ。


 それでも私は、悠斗にだけは最後の機会を与えようとしていた。八年間、自分の子だと信じて育ててきたのだから。


 けれど翌日、悠斗はその期待を自分の手で踏みにじった。



3



 午前中、悠斗の担任から、図工の授業で使う材料を家に忘れていると連絡があった。私は電動アシスト自転車で学校へ向かったが、校門の前で誠司と絵里奈を見つけた。


 絵里奈は悠斗のシャツの襟を直し、ランドセルの肩ひもを整えていた。悠斗は嬉しそうに顔を上げ、髪を撫でられるままになっている。誠司は隣で二人を穏やかに見つめていた。そこに他人行儀な空気はなく、ずっと前から一緒に暮らしてきた家族のようだった。


 三人が車で去るのを待ってから、私は材料を持って校舎へ入った。


 私を見た瞬間、悠斗の笑顔が消えた。


「どうしてあんたが持ってくるの? こんな安っぽい物、僕には似合わない。絵里奈ママが、僕はこれから私立に行って、広い家に住むんだって言ってた。ちゃんとした仕事もしてないくせに、パパの隣にいる資格なんてないよ」


 悠斗は材料の袋を床へ押し落とし、キッズスマホまで一緒に投げた。画面には大きなひびが入った。教室中の視線が集まる中、私は黙ってそれらを拾った。


 まだ幼い子どもが、偶然ここまで正確に人を傷つける言葉を選べるとは思えなかった。誰かが教えたのだ。


 学校を出ると、キッズスマホをデータ復旧業者へ持ち込んだ。数日かかると言われ、店を出た直後、誠司からメッセージが届いた。


「家に記念日の埋め合わせを用意した。昨日は嫌な思いをさせて悪かった。帰ったら見て。いつまでも拗ねないでくれよ」


 これまで誠司がくれたものは、値下げ品や景品ばかりだった。それでも以前の私は、何をもらっても何日も嬉しそうに眺めていた。


 ほどなくして、結衣から調査結果が届いた。


 久世誠司は、久世ホールディングスの創業家に生まれた一人息子で、次期社長候補として知られていた。ニュース映像の中では、代表取締役会長である父親の隣に立ち、株主総会へ出席している。私はそんな男を、仕事がうまくいかない平凡な会社員だと信じていた。


 誠司は、私たちの貧しさまで計算していた。私は昼間に配達をし、夜はコンビニや弁当工場で働き、家賃と生活費の大半を負担していた。彼は、私が疑わない程度の金だけを家へ入れていたのだ。


 考え事をしながら歩いていた私は、横断歩道の信号が赤に変わっていることに気づかなかった。


 耳をつんざくブレーキ音が響き、体が宙へ投げ出された。道路へ叩きつけられた直後、脚を貫いた痛みは、すぐに不気味な麻痺へ変わった。周囲から悲鳴が上がり、離れた場所ではスマートフォンを向ける人の姿も見えた。


 血のついた手で、私は誠司へ電話をかけた。


「誠司、車にはねられたの。悠斗の学校の近くの交差点。脚が動かない……」


 電話の向こうで一瞬の沈黙があったあと、苛立った声が返ってきた。


「久世美月、いつまで騒ぐつもりだ? 記念日に帰らなかったのは悪かった。プレゼントも用意したし、謝っただろ。まだ何が不満なんだよ」


「騒いでない。本当に事故に遭ったの。脚が……」


「もういい。こっちは忙しいんだ。そんな冗談を言う暇があるなら、自分で救急車を呼べ」


 電話は一方的に切れた。


 意識を失う直前、絵里奈が笑いながら、早くベッドへ戻ってきてと誠司を呼ぶ声が聞こえた。



4



 次に目を覚ましたとき、私は病院のベッドにいた。膝から下は器具で固定され、脚全体が自分のものではないように感覚が薄かった。カーテンの向こうでは、医師が誠司へ治療方針を説明していた。


「できるだけ早く二度目の骨再建術を行い、その後は長期的なリハビリが必要です。治療を続ければ、歩行機能が回復する可能性は十分にあります。高額療養費制度の申請についても、医療ソーシャルワーカーが支援できます」


「命は助かったんですよね。それなら、もう十分です。うちは裕福ではないので、その先の治療費までは出せません。もっと費用の安いリハビリ施設へ移せるなら、そうしてください」


「治療の時期を逃せば、重い歩行障害が残るおそれがあります。それに、最終的に手術を受けるかどうかを決めるのは患者さんご本人です。久世さんが代わりに治療を断ることはできません」


「子どもはまだ小学生で、家計を支えているのは俺一人です。現実も考えないといけないでしょう」


 平然と嘘を並べる声を聞きながら、体の芯まで冷えていった。いくつもの仕事を掛け持ちしていたのは私だ。誠司は時折数万円を置くだけで、家族を養う主人のように振る舞っていた。


 私が目を開けたことに気づくと、誠司はカーテンを開けてベッドのそばへ来た。顔には、見慣れた優しげな表情が戻っていた。


「美月、目が覚めてよかった。家の事情は分かってるだろ。もう一度手術をして、その後もリハビリを続けたら、かなり金がかかる。悠斗の進学のために残しておこう。もし以前のように歩けなくなっても、俺が面倒を見る。捨てたりしないよ」


 私は彼を見つめ、ゆっくり口を開いた。


「嫌よ。私が働いて貯めたお金は? これまでの貯金はどこ? 私は手術を受ける」


 誠司の顔から笑みが消えた。


「どうしてそんなに自分勝手なんだ。悠斗は俺たちのたった一人の子どもだろ。あの金には別の使い道がある。命は助かったんだから、脚に全部つぎ込む必要なんてない。歩けなくなっても俺が養うって言ってるんだ」


 私は枕元のコップをつかみ、ドアの方へ投げた。


「出ていって」


 誠司は冷たい目で私を見たあと、看護師に「妻は精神的に不安定になっている」と言い残して病室を出ていった。


 それから数日間、私は知人へ片端から連絡し、当面の入院費と、保険の対象外となるリハビリ費用や生活費を借りようとした。以前親しくしていた店長や客は、言葉を濁して断った。中には、私に金を貸さないよう誰かから圧力をかけられたと、こっそり教えてくれた人もいた。


 誰がしたのか、考えるまでもなかった。


 同じころ、絵里奈のSNSが更新された。ホテルの窓辺に立つ彼女の首には、五千万円で落札された翡翠のネックレスが輝いていた。


「私をいちばん分かってくれる人は、いつだって最高のものをくれる」


 私の治療費は惜しむのに、初恋の女へ贈る宝石には迷いもしない。


 悠斗は一度も見舞いに来なかった。担任によれば、毎日、父親と見知らぬ女性が迎えに来ているらしい。私はもう、自分が何を間違えたのか考えることをやめた。彼らにとって私は最初から、都合よく利用するための存在だった。


 入院して五日目の夕方、病室のドアが開いた。


 古い上着を着た両親が立っていた。母は色あせた帆布のバッグを背負い、父は実家から持ってきた野菜と梅干しの袋を下げている。長い道のりを急いできたのか、二人の靴にはまだ土ぼこりがついていた。


「お父さん……お母さん……」



5



 母は足早にベッドへ近づき、固定具をつけた私の脚をじっと見た。口調は昔と同じように厳しかったが、声には隠しきれない動揺がにじんでいた。


「こんな大事故に遭って、どうして家に連絡しなかったの。昔の喧嘩をまだ引きずってるの? こんなときまで意地を張って……もしあんたに何かあったら、私たちはどうすればいいのよ」


 私は両親の反対を押し切って東明市へ残り、誠司と暮らし始めた。二人が貧しい彼を見下しているのだと決めつけていたが、今になってようやく分かった。両親は、素性も仕事も明かそうとしない男を信用できなかっただけなのだ。


 母は帆布のバッグから通帳といくつかの封筒を取り出した。二人が老後のために貯めてきた金だった。


「これ、私とお父さんの貯金。畑は近所の人に見てもらうよう頼んできたから、しばらくはこっちにいられる。足りなかったら、使っていない畑を貸すなり、ほかの方法を考える。脚の治療だけは諦めちゃ駄目」


 父はベッドの端へ腰を下ろし、固定具にそっと手を触れた。


「まずは体を治せ。自分の足で立てさえすれば、暮らしはいくらでもやり直せる。金はまた稼げるんだ。俺たちのことは気にするな」


 その金は、絵里奈の首にあった宝石とは比べものにならない。それでも、私を本当に大切にしてくれる人が誰なのかを、何よりはっきり教えてくれた。


 両親の助けを借り、私は二度目の手術を受けた。その後は痛みに耐えながら、長いリハビリを続けた。退院を控えたある日、修理業者から復旧した悠斗のキッズスマホが戻ってきた。


 端末を開くと、悠斗と絵里奈のトーク履歴が残っていた。


「絵里奈ママ、パパはいつになったら、あの人を追い出すの?」


「もうすぐよ。悠斗がいい子にしていれば、私たち三人で暮らせるようになるから」


「でも、あの人は自分が僕のママだと思ってる。いちいちうるさいし」


「本当にあなたを産んだのが誰か、悠斗はちゃんと分かってるでしょう。全部終わったら、タワーマンションで一緒に暮らそうね。学校も、もっといいところに変えてあげる。それまではパパの言うことを聞いて、あの人に気づかれないようにして」


 結婚記念日の日にも、悠斗は絵里奈へメッセージを送っていた。


「ママ、僕が引き止めて、古いタブレットを開かせないようにする。パパとゆっくり過ごしてきて。LINEも僕がログアウトしておくね」


 端末を握る指先が冷たくなっていった。


 悠斗は、絵里奈が実の母親だと以前から知っていた。私を「ママ」と呼んでいたのも、八年間続けてきた芝居の一部だったのだ。


 そのとき、見覚えのない番号からメッセージが届いた。


「あなたが産んだ子が、どこへ行ったか知りたい? 八年前、あなたが産んだのは女の子よ。誠司と私の息子である悠斗を、久世家の事情で表に出せなかった。だから誠司は、あなたの子を消して、悠斗と入れ替えたの」


 すぐに二通目が表示された。


「悠斗の父親は誠司。私が海外へ行く間、あなたはただの乳母代わりだった。もう私が戻ってきたんだから、八年間も人の場所に居座った身代わりは消えて」


 画面を見つめたまま、耳鳴りが止まらなくなった。


 私が十か月間お腹の中で育てたのは、女の子だった。出産時に大量出血を起こし、次に目を覚ましたとき、誠司は悠斗を抱いて「元気な男の子だ」と告げた。私は生まれた直後の子どもの顔を、一度も自分の目で見ていない。


 誠司のもとへ駆け込み、問い詰めるだけでは足りなかった。病院の記録を探し、娘に何が起きたのかを確かめ、関わった人間全員に責任を取らせる。


 もう、謝罪や涙や「家族」という言葉に惑わされることはない。



6



 退院の日、珍しく誠司と悠斗が迎えに来た。私が松葉杖を使いながらも自分の足で歩けると知った瞬間、誠司の顔に浮かんだのは喜びではなく、驚きと苛立ちだった。私の脚より、治療にいくら使ったのかを計算しているように見えた。


「結局、手術を受けたのか。俺が一生面倒を見るって言っただろ。自分のために金を使って、悠斗が私立へ進学するときはどうするんだ? どうして美月は、いつも自分のことしか考えないんだよ」


 私は退院書類をバッグへしまい、冷たく彼を見た。


「誠司、私たち、戸籍上は半年前に離婚したことになってるのよね。あなたの引き出しに受理証明書があった。署名の『久世美月』は、私の字じゃない。役所から届いた通知も、あなたが隠したんでしょう」


 誠司の表情が一変した。


 悠斗がうつむいてキッズスマホを確認していると、別の車から絵里奈が降りてきた。こちらで何か起きたと聞き、慌てて来たのだろう。


 私は二人の前へ進み、絵里奈の頬を一度だけ平手で打った。続けて誠司の顔にも手を振り下ろした。乾いた音に、周囲の人々が振り返った。


「八年間、よくも演じ続けたわね。これからは、私の番よ」


 誠司は頬を押さえながら罵声を浴びせてきたが、世間に騒がれるのを恐れて警察を呼ぶことはなかった。私は松葉杖をつき、二人を残して駐車場を出た。


 病院から向かったのは、駅の北口にある二十四時間営業のネットカフェだった。受付にいた女性は私を見ると数秒間固まり、それから皮肉っぽく口元を上げた。


「もう私のことなんて忘れたと思ってた。久世家の奥様が、こんなところにいる昔の友達を思い出すなんてね」


 相沢結衣。東明市へ来たばかりのころ、最初に親しくなった友人だ。


 結衣は児童養護施設を出たあと、コンビニやファミリーレストランで働きながら生活し、やがて地方紙の取材補助を経て、フリーの調査報道記者になった。誠司は彼女の育った環境を嫌い、「悠斗へ近づけるな」と言った。私は結婚生活を守るため、結衣との連絡まで絶ってしまった。


 私は受付台へバッグを置いた。


「結衣、助けてほしい。久世家と誠司、それから八年前に私が出産した産婦人科を調べたい。取り戻せた金は半分渡す」


 結衣は紙コップの白湯を私の前へ押し出した。


「元夫の金なんていらない。何でも一人で抱え込んで、最後には男のために友達まで捨てるのをやめてくれれば、それでいい。まずは全部話して。どこから調べるかは、それを聞いてから決める」


「今度は、もう結衣を置いていかない」


 結衣が紹介してくれた弁護士は、まず家庭裁判所へ協議離婚無効確認の調停を申し立て、戸籍を訂正したうえで、改めて正式な離婚を求める必要があると説明した。手続きが終わるまでは法的に久世姓のままだったが、私は日常生活では旧姓の森川を使うことにした。


 その夜、私は撮影した書類とLINEの履歴、復旧したキッズスマホの内容をすべて結衣へ見せた。そして、自宅で小銭入れに使っていた金属製の箱に、隠し底があったことを思い出した。そこには送金記録と、久世ホールディングスの内部資料らしき帳簿の写しが隠されていた。


 誠司は、私には数字の意味など分からないと思っていたのだろう。だが今では、一枚一枚が彼らを追い詰める証拠になり得た。


 ネットカフェを出るころには雨が降り始めていた。道路の向こうにある商業施設の大型ビジョンでは、チャリティーガラの映像が流れていた。


 誠司と絵里奈が腕を組んで会場へ入り、彼女の首には五千万円のネックレスが輝いている。イベントのテーマは「障害を負った人の社会復帰支援」だった。


 私は画面を見上げながら、かえって冷静になっていった。


 誠司が何より守りたいのは、世間に見せている自分の顔だ。


 ならば、まずその化けの皮から剥がしてやる。



7



 三日後、結衣から調査資料が届いた。


 絵里奈は海外滞在中、複数のペーパーカンパニーを通じて資金洗浄に関わっていた。久世ホールディングスからも、関連会社を経由して彼女名義の不動産や口座へ資金が流れている。


 資料には、悠斗の出生記録、産婦人科に残っていた書類の控え、グループ内の不自然な資金移動も含まれていた。結衣は元病院職員や久世ホールディングスの元経理担当者、調査報道を専門にする記者へ接触し、ばらばらだった情報をつなぎ合わせたのだ。


 中でも最も吐き気がしたのは、誠司との出会いに関する証言だった。


 高級マンションの前で誠司を取り囲んでいた男たちは、全員彼の友人だった。あの騒ぎは、久世家の御曹司がフードデリバリーの配達員を何日で落とせるかを賭けた遊びだった。最初は三か月で別れる予定だったが、絵里奈が海外へ行ったため、誠司は私を彼女が帰国するまでの代用品として残した。


 私は息を整え、最後のファイルを開いた。


 そこには、病院の廊下を映した防犯カメラ映像の複製と、音声データが入っていた。画面の中で、誠司は新生児室の前に立ち、白衣を着た男と話していた。


「女の子の方は残さなくていい」


「久世さん、そんなことが発覚したら、私だけでは済みません。美月さんが目を覚ませば、必ず赤ちゃんを捜します」


「金は指定された口座へ振り込む。出生記録と識別バンドを処理して、絵里奈の子を渡せばいい。美月は緊急手術の直後だ。目が覚めたら、俺の話を信じるしかない」


 イヤホンが手から落ちた。


 娘は本当に生まれていた。そして誠司は、自分の口で、その子を消すよう指示した。


 私はすぐに結衣へメッセージを送った。


「当時の医師は生きてる? この映像や録音以外にも、証拠を残していないか調べられる?」


 いつまで待っても返信がなかった。


 結衣に何か起きたのではないかと不安になり、私はネットカフェを飛び出した。だが仮住まいの前にいたのは、誠司だった。車にもたれ、私を見ると、以前と同じ優しげな顔を作った。


「美月、やっぱり俺を忘れられないんだろ。絵里奈とのことは一時の気の迷いだった。帰ってきてくれ。金でも家でも、欲しいものは何でも用意する。悠斗だって美月を必要としてる」


「初恋の相手に捨てられたの?」


 誠司の顔が一瞬引きつったが、すぐに取り繕った。


「絵里奈は俺を理解していない。八年一緒に暮らして、俺のことを一番分かってるのは美月だ。戻ってくれるなら、これまでのことは水に流してもいい」


 私はバッグの中でスマートフォンの録音を開始し、防犯ブザーを握った。


「これ以上近づかないで。今の会話は全部録音してる。無理やり触ったら、すぐに警察を呼ぶ」


 誠司は立ち止まった。それでも突然地面へ膝をつき、私の脚へすがろうとした。私は松葉杖で距離を取り、防犯ブザーを鳴らした。大きな音に周囲の窓が開き、誠司はようやく手を引いた。


 その直後、結衣が車で到着した。スマートフォンの充電が切れ、連絡できなかっただけだった。私は彼女の車に乗り込み、誠司を雨の中に残してその場を離れた。


 同じ日の夜、一本の告発記事がSNSのトレンドへ上がった。


「久世ホールディングス次期社長候補、妻の署名を偽造して離婚届を提出か」


 記事では、誠司が私の署名を偽造したこと、莫大な資産を隠して貧しい夫を演じたこと、絵里奈が使っていたプロジェクターを記念日の贈り物にしたこと、さらに私へ絵里奈との実子を育てさせた疑いまで報じられた。


 翌日の午後、久世ホールディングスの取締役会は、誠司をすべての経営実務から外し、第三者委員会による社内調査を始めると発表した。


 私はニュースを見ても、少しも満足できなかった。


 これは、まだ始まりにすぎない。



8



 結衣は、久世家には危機管理広報を専門とするPR会社と、大手法律事務所がついていると警告した。婚姻をめぐる醜聞だけでは、一時的に評判を落とせても、久世家そのものを崩すことはできない。


「誠司に恥をかかせたいだけなら、もう十分。でも久世家全体に責任を取らせるなら、残りの証拠は弁護士と捜査機関へ渡す。何でもSNSへ流せばいいわけじゃない」


 私たちは協力を引き受けた弁護士へ資料を預けた。私は残っていた身分証と衣類を回収するため、以前暮らしていたアパートへ向かった。


 玄関前に、悠斗がうずくまっていた。


 服はしわだらけで、頬と腕に青あざがあった。私を見ると立ち上がり、抱きつこうと駆け寄ってきた。


「ママ、パパにずっと殴られてる。絵里奈ママも僕を引き取ってくれない。タブレットをちゃんと処理しなかったせいで、全部こうなったって……お願い、連れていって。僕、本当に悪かったと思ってる」


 私は半歩下がり、触れさせなかった。


 八年間を一緒に過ごした事実は消えない。けれど、悠斗が私を欺き、教室で傷つけたことも消えなかった。


「今から児童相談所に電話する。聞かれたことには、全部正直に答えて。もう誰かを守るために嘘をつかないで。『悪かった』と言えば、起きたことがなくなるわけじゃない」


 私はその場で児童相談所虐待対応ダイヤルの一八九へ電話し、父親から暴力を受けている小学生がいると伝えた。警察と児童相談所の職員が到着するまで、悠斗と同じ廊下に残った。自分の家へ連れて帰ることはしなかったが、誠司の関係者が現れても渡さなかった。


 悠斗は一時保護され、学校の教員や児童心理司から事情を聞かれることになった。数日後、二本目の告発記事がSNSで拡散された。


「久世ホールディングス創業家の御曹司、実子への虐待疑惑。小学生が学校へ助けを求める」


 記事には、悠斗の傷を記録した医師の診断書と、担任へ相談した際の記録が掲載された。誠司側の弁護士は、親権者として一時保護の解除を繰り返し求め、面会の場でも悠斗に証言を撤回するよう迫った。


 私は弁護士とともに児童相談所の面会室へ向かい、そこで再び悠斗を見た。以前より少しふっくらしていたが、目は怯えきっていた。私の姿を見た途端、椅子から立ち上がった。


「ママ、助けて。パパたちが、録音は全部嘘だって言えって……また連れていかれるのは嫌だ」


 職員が悠斗を落ち着かせていると、廊下の向こうから誠司が現れた。面会のために来ていたらしい。人目があるにもかかわらず、彼の顔にはもう、かつての穏やかさは残っていなかった。


「美月、いい加減にしろ。俺たちが一緒に会見して、誤解だったと説明すれば全部終わる。悠斗を八年育てたんだろ? これ以上騒げば、この子の将来まで壊すことになるぞ」


 誠司が私の腕をつかもうと手を伸ばしたため、私は身を引き、職員が間へ入った。私はバッグから、すでにライブ配信を開始していたスマートフォンを取り出した。


「さっきから全部配信されてる。続きを言えば? 実の息子に、どんな将来を用意するつもりなのか、みんなに聞かせて」


 画面上の視聴者数が一気に増えていった。過去に誠司が語った「理想の父親」というインタビュー記事も、次々と掘り返されている。


 誠司は顔色を変え、私のスマートフォンを奪おうとした。職員に止められると、声を荒らげた。


「悠斗が今後どうなるかは、俺次第なんだぞ! 美月だって、あの子が壊れるところなんか見たくないだろ!」


 その言葉が配信へ流れたのを確認し、私はライブを終了した。


 ほどなくして、久世家の代理人が私の弁護士へ連絡してきた。


「久世家の会長が、森川さんと直接話したいそうです」



9



 久世家の代表取締役会長からの電話は、私の弁護士事務所を通してつながれた。会長の声は低く落ち着いており、誠司のような分かりやすい動揺は少しも感じられなかった。


「森川さん、誠司が愚かなことをしたのは認めます。しかし、今日の配信もずいぶん周到でしたね。面会室の外で、わざと保管庫の暗証番号が映るようにした。誰かに、あなたと悠斗のDNA鑑定書を持ち出させるつもりだったのでしょう」


 私は否定しなかった。


 鑑定書には、私と悠斗の間に血縁関係がないことが記されている。一方、別に行った鑑定では、誠司と絵里奈が悠斗の実父母である可能性が極めて高いと示されていた。


 私がすぐに公表しなかったのは、世間にまず、誠司が自分の実子をどう利用し、傷つけてきたかを見てもらうためだった。そのあとで私との血縁がないと分かれば、久世家が口にしてきた「家族」という言葉の空虚さが、よりはっきり伝わる。


 会長は、事務的な口調で条件を提示した。


「五億円の解決金。これまでと今後の治療費、リハビリ費用は全額久世側が負担します。さらに、ローンのない分譲マンションを一戸用意しましょう。あなたは配信内容に誤解を招く部分があったと発表し、刑事告訴と民事請求を取り下げる。それで手を打ちませんか」


 私は弁護士の会議室でスピーカーから流れる声を聞きながら、何も答えなかった。


 会長の口調がわずかに冷たくなった。


「あなたを手伝っている相沢という記者は、当時の産科医を調べているそうですね。医師本人はすでに亡くなっていますが、娘さんはつい最近出産したばかりだとか。生後一か月の赤ん坊は、とても繊細です。人間は、いつまでも一度も油断せずに暮らせるものではありませんよ」


 背中を冷たいものが走った。


 久世家は結衣だけでなく、医師の遺族にまでたどり着いていた。だが、私たちも何の備えもせずに電話を受けていたわけではない。


「会長、この通話は弁護士事務所で録音しています。調査報道を担当する複数の記者も、オンライン会議で同席しています。今の発言は、証人の家族と乳児に対する脅迫として、追加資料と一緒に警察へ提出します」


 電話の向こうが沈黙した。


「久世ホールディングスの帳簿や送金記録は、すでに弁護士、東京国税局、検察、社外取締役へ提出しました。原本と複製は別々に保管しています。私や結衣に何かあっても、指定された時刻に資料が公開されるよう手配済みです」


 同席していた誠司が、画面越しに顔色を変えた。


「お前、正気か? 久世グループが潰れたら、何人が職を失うと思ってる!」


 私は初めて誠司の方を見た。


「従業員の生活を壊したのは私じゃない。会社を自分たちの財布として使った、あなたたちよ」


 それから、会長へ向き直った。


「犯罪によって得た利益を調査し、被害者救済基金を設けてください。会社を存続させるか、創業家の株式をどう扱うかは、裁判所と株主と取引銀行が決めることです。私が欲しいのは久世家の会社ではありません。娘の命と、奪われた八年に対する責任です」


 長い沈黙のあと、会長は低い声で言った。


「その選択を、必ず後悔しますよ」


 通話は切れた。


 この電話だけで、捜査機関がその日のうちに一斉捜索へ入ったわけではない。弁護士と内部告発者は、すでに数か月分の資料を提出していた。会長の脅迫音声が最後の補強材料となり、数日後、裁判所が発付した令状に基づいて、警察と検察が関係先を捜索した。国税局査察部も、別の手続きで久世ホールディングスと関連会社への査察に着手した。


 調査が公になった途端、久世家は世論を抑えられなくなった。取引銀行は新規融資を凍結し、株価は下落を続けた。第三者委員会は、創業家による会社資金の私物化と、複数の不適切な取引を発表した。


 数日後、誠司は自宅からライブ配信を始めた。片脚を固定され、車椅子に座ったまま、すべての責任を絵里奈へ押しつけた。


「全部、こいつが俺をそそのかしたんだ! 絵里奈がいなければ、俺はあんなことをしなかった。久世家の金を使いながら、海外では別の男とも関係を持っていた。捕まるべきなのはこいつだ。俺は、好きすぎて判断を誤っただけなんだ!」


 隣にいた絵里奈は、誠司へつかみかかった。二人はカメラの前で罵り合い、互いの不正や裏切りを次々に暴露した。かつて運命の相手を装っていた二人が、今では自分だけ助かろうと噛みつき合っている。


 私はその配信を見ても、少しも痛快には感じなかった。長い間張り詰めていたものが切れ、ただ疲れだけが残った。


 そのころ、悠斗は児童相談所での聞き取りに応じ、誠司の書斎に隠されていた納骨堂の保管証と鍵について話した。警察はその供述と医師の記録をもとに、久世家と関係のある寺院の納骨堂を捜索した。


 数週間後、警察から連絡があった。


 保管番号しか書かれていなかった小さな骨壺が見つかり、病院の記録、火葬許可に関する偽造書類、医師の遺書を照合した結果、私の娘の遺骨である可能性が高いと確認されたという。証拠保全の手続きが終わったあと、遺骨は私のもとへ返された。


 受け取った箱は、驚くほど軽かった。けれど腕に抱いた瞬間、立っていられないほど重く感じた。


 悠斗からは、児童相談所を通じて一通の手紙が届いた。


「みんなが罰を受けたら、いつか僕を許してくれますか。僕は絵里奈ママとパパが正しくて、美月が邪魔をしているんだと思っていました」


 私は返事を書かなかった。



10



 誠司が逮捕される直前までいたタワーマンションは、捜索を受けてひどく荒れていた。引き出しは開け放たれ、書類が床に散らばり、高価な家具や美術品には差押えの表示がつけられていた。


 彼の手元には、私が何年も前に残した小さなメモがあった。


「朝ごはんを忘れないで。胃薬は左の棚の二段目。空腹のまま飲まないこと」


 壊れかけたスマートフォンから、絵里奈の新しい音声メッセージが再生された。


「役所の手続きすらまともに隠せないほど馬鹿じゃなかったら、私はとっくに日本を出てた。いいことを教えてあげる。本当は明日、別の人と婚約を発表する予定だったの。あなたは帰国してから利用していただけ。私が愛した唯一の男だなんて、本気で思ってたの?」


 誠司はそのとき初めて、自分が愛し続けてきたと思っていた女からも、同じように利用されていたことを知った。


 彼は絵里奈とのLINE履歴、送金記録、秘密の合意書を検察へ提出し、一部を報道機関にも渡した。自分の処分を少しでも軽くするためだったが、その資料によって絵里奈も逃げ道を失った。


 絵里奈は海外の富豪と出国しようとしたところを空港で逮捕された。申告していない多額の現金や、ペーパーカンパニーの実質的支配者を示す資料が、荷物から見つかった。


 悠斗は一時保護を受け、心理検査と事情聴取を続けていた。一度だけ施設を抜け出し、駅北口のネットカフェへ逃げ込んだことがあった。結衣は彼を追い払わず、飲み物を渡して落ち着かせたあと、担当職員へ連絡した。


 その日、ネットカフェの大型モニターには、絵里奈が逮捕されたというニュースが流れていた。


 悠斗は、八歳の誕生日を思い出したという。私は真夏の暑さの中、十軒以上の店を回って、欲しがっていた限定スニーカーを探した。一方、絵里奈からもらったブランド物の靴は、底が裂け、内側から粗悪な模造素材がのぞいていた。


 悠斗は画面の前で、声を抑えられなくなるほど泣いた。


 その夜、私は新しく借りた部屋で結衣と鍋を囲んでいた。久世家側は民事訴訟で不利になるのを避けるため、当初提示していた五億円を、口止め条件のない先行賠償金として支払った。弁護士は、これは刑事責任とは無関係であり、追加の損害賠償請求も続けられると説明した。


 インターホンが鳴った。


 児童相談所の職員に付き添われた悠斗が、玄関の外に立っていた。外は激しい雨で、肩が濡れている。彼は胸に、灰色の毛糸を抱えていた。


 以前、私は三人分のマフラーを編もうとしていた。二本半まで出来上がったところで、私たちの家族は壊れた。


「もうママって呼ぶ資格がないのは分かってる。絵里奈ママなら、もっといい暮らしをさせてくれると思ってた。美月が僕に優しくするのも、当たり前だと思ってた。本当にごめんなさい。家に戻してくれなくていい。だけど、僕のことを全部忘れないで」


 私は毛糸を受け取り、結衣が玄関脇へ置いていた金属製の灰受けへ入れた。火をつけると、細い毛糸は縮れながら黒くなり、やがて形を失った。火が消えたあと、私は灰受けへ水を注いだ。


 悠斗はその場に立ち尽くし、声を殺して泣いた。


 私は彼を抱きしめなかった。


 燃えてしまったものは、元には戻らない。


 やがて、娘の殺害と戸籍・医療記録の偽造に関する事件は、裁判員裁判へ進んだ。久世ホールディングスをめぐる特別背任、横領、脱税、資金洗浄については、別事件として起訴された。


 初公判の日、私は赤いワンピースを着て、被害者参加人として法廷に入った。検察は、偽造された離婚届、娘の出生記録、新生児の識別バンド、医師が残した録音、絵里奈から医師への送金記録を示した。


 絵里奈は、娘を消して悠斗と入れ替える計画を事前に知り、資金を提供していた。彼女も殺人の共謀者として裁かれることになった。



11



 判決は、私が予想していた以上に重かった。


 久世誠司は、殺人、私文書偽造・同行使、公正証書原本不実記載、証拠隠滅などにより、無期懲役となった。会社資金の横領や特別背任についても、別件で有罪判決が言い渡された。


 神谷絵里奈は、殺人の共謀、資金洗浄、証拠隠滅、海外への不正送金などにより、懲役二十二年を言い渡された。


 久世会長も、巨額脱税、捜査妨害、証人への脅迫、会社資金の不正流用について別件で実刑判決を受けた。久世ホールディングスは裁判所と取引金融機関の監督下で事業再建手続きに入り、創業家の株式は処分された。資産の一部は納税、債務返済、被害者への賠償へ充てられた。


 判決が報じられると、多くの人が久世家は相応の罰を受けたと言った。


 けれど、奪われた八年間も、傷ついた脚も、生きることを許されなかった娘も、判決によって戻ってくるわけではない。


 一年後、私は刑務所の面会室で誠司と向き合った。


 厚いアクリル板の向こうにいる彼は、見間違えるほど痩せていた。目は落ちくぼみ、かつて手入れの行き届いていた手も荒れている。私は、医師の遺品から見つかった娘の足形カードの複製を、透明な仕切りへ当てた。


「医師が残した最後の供述に書いてあった。あの子は生まれた直後、あなたの指を握ったんですって。そのとき、少し笑ったそうよ。何人もの人生を壊して、夜中に目が覚めたとき、一度も怖いと思わなかった?」


 誠司の目から焦点が失われ、体が震え始めた。


「俺じゃない。手を下したのは医者だ。絵里奈に言われたんだ。あの子を殺したのは俺じゃない。俺は、ただ一言言っただけで……来ないでくれ。もう俺のところへ来させないでくれ。悪かった、本当に悪かったから」


 彼は突然、何かを見たように後ずさり、椅子を倒した。職員がすぐに面会室へ入り、取り乱した誠司を連れていった。廊下へ消えるまで、自分は殺していないと繰り返していた。


 私は追わなかった。


 刑務所を出ると、高瀬杏奈が待っていた。当時の産科医の娘だ。


 父親の死後、杏奈は遺品の中から、防犯カメラ映像の複製、音声データ、娘の足形カード、そして遺書を見つけた。医師は金を受け取って出生記録を改ざんしたことを認めていたが、久世家に監視され、死ぬまで公表できなかったと書き残していた。


「これで終わりましたね。父がしたことは、何をしても消えません。それでも、真実まで埋められたままにならなくてよかった。森川さんも、これから少しずつ、自分の人生を取り戻してください」


 私は黙ってうなずいた。


 この裁判は、私一人の復讐ではなかった。久世家に騙され、脅され、人生を傷つけられた人たちが、それぞれ隠してきた真実を口にした結果だった。


 さらに二年が過ぎ、再建後の事業を引き継いだ企業が旧本社を売却した。老朽化した建物は建て替えのため取り壊されることになった。


 大型重機が、かつて高くそびえていた久世ホールディングス旧本社を一階ずつ崩していった。私は工事現場の囲いの外で、もう保管する必要のない古い書類を、許可を得た処分業者の回収箱へ入れた。


 結衣がコートのポケットへ両手を入れ、隣で笑った。


「前に、久世家の半分を私にくれるって言わなかった?」


「会社は再編されて、創業家のものじゃなくなったから無理。でも、私が配達をしながら作った取引先と事業なら半分渡せる。自分の配送会社を始めるの。私を止められる共同経営者がちょうど必要だから」


「やっぱり面倒事を押しつける気じゃない」


 そう言いながら、結衣の目元は柔らかく笑っていた。



12



 それからさらに一年後の大晦日、新幹線の駅には何度も案内放送が流れていた。改札の外で待っていると、両親が人波に混じってゆっくり歩いてきた。母はあの古い帆布バッグを背負い、父は両手に荷物を提げている。エスカレーターを降りるなり、父は不満そうに眉を寄せた。


「どうしてあれは、あんなに速く動くんだ。足を取られるかと思ったぞ。美月も歩きながらスマホを見るなよ。駅は人が多いんだから、また転んだらどうする」


 私は笑いながら駆け寄り、二人を強く抱きしめた。


 そのころ、私は日当たりのいい二LDKのマンションで暮らしていた。高級タワーマンションではないが、台所は広く、リビングには朝から光が入る。立ち上げた配送会社の事務所にも近かった。


 会社には百人を超える正社員が働き、登録している配達員は千人を超えていた。急に大きくしたのではなく、事故から四年かけ、地域の飲食店や配送員と一つずつ契約を結んで育てた会社だった。


 母は部屋へ入るなり台所を確認し、父はテレビの前で立ち止まった。ローカルニュースが、地域密着型の即時配送サービスとして私の会社を紹介していた。


「お前は子どものころ、人がいるところで膝を擦りむいても、声を上げて泣けなかった。それが今じゃ、こんなに大勢の働く場所を作ったんだな。これからは何でも一人で背負うな。家族はここにいる」


 私は顔をそらした。何か答えれば、声が震えそうだった。


 そのとき、インターホンが鳴った。


 結衣が日本酒と餅を持って立っていた。珍しく居心地が悪そうにして、玄関へ入るのをためらっている。


 母は返事を待たず、結衣の腕を引いて中へ招き入れた。


「美月から全部聞いてる。この子がここまで来られたのは、結衣さんのおかげでしょう。これからは自分の家だと思って、いつでも来なさい。正月もお盆も、一人で食べなくていいから」


 結衣はしばらく目を瞬かせ、耳まで赤くした。


「ありがとうございます。おじさん、おばさん、これからもよろしくお願いします」


 母は嬉しそうに食器を一組増やし、父は大切に取っておいた酒の封を開けた。


 年が明けてから、四人で家族写真を撮りに行った。


 スタジオの照明は明るく、母は父の立ち方が硬いと文句を言いながら、何度も襟元を直していた。結衣は私の隣に立ち、カメラマンが機材を調整している隙に、私の頭の上で指を二本立てた。


 私も同じように、結衣の頭へうさぎの耳を作った。


 シャッターが切られる直前、スタジオの外の通路に、一人の少年がいることに気づいた。


 悠斗だった。


 以前より背が伸び、細くなっていた。里親支援の担当者らしい女性が隣に立っていた。別の家族写真の撮影に来ていたのかもしれない。


 私たちの視線が一瞬だけ重なった。悠斗は小さく頭を下げ、一歩後ろへ下がった。


 私は近づかなかった。


 悠斗も声をかけなかった。


 それでよかった。


 カメラの前では、母が写真を細く修整しすぎないでと注文し、父が困った顔をしている。結衣は笑いをこらえきれず、肩を震わせていた。母は突然、私と結衣を両腕で抱き寄せた。


 シャッターの音が響いた瞬間、私はようやく理解した。


 家族は、婚姻届や戸籍に書かれた名前だけでつながるものではない。


 八年間で負った傷は消えない。娘が戻ってくることもない。


 それでもこれからは、あの子が残した小さな足形を胸に、私を本当に大切にしてくれる人たちと一緒に、生きていける。







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― 新着の感想 ―
息子()が主人公を呼び捨てにするたびに「こいつ何様?」となりました。反省しないところが実父と実母そっくり。 さんを付けろや。もっと言うなら馴れ馴れしく名前を呼ぶな。
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