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R17/プールデビュー

掲載日:2026/04/16

本作には性的な表現が含まれます

 オムツのとれた娘は今日がプールデビュー。奈美はプールサイドにすわらせた娘を、よいしょと抱きあげ、水面に浮かぶ浮き輪の中へそっとおろした。

 泣きだすかと思ったら、娘は意外と冷静。ひじを張って体をささえ、手はしっかりと浮き輪のロープをつかんでいる。

 この市営プールの水深は浅いところでも110センチある。なのでしっかりとした中型の浮き輪を選んだのだが、すこし大きかったようだ。

「だいじょうぶ?」

 娘がこわばった顔でうなずく。

「気持ちいいね」

 天気予報は今日も猛暑日。肌を灼く強い陽射しも、水の中なら心地よい。奈美は大きく息を吸って水に潜り、五つ数えて浮かびあがった。

「ばあー」

 不安げな娘の顔が笑顔にかわる。

「よし、いくぞ」

 浮き輪をつかんで第3レーンにむかう。コースロープを張った第1、第2レーンは泳ぎに来た人のための遊泳コースで、第3レーンは水中ウォーキングをする人が多い。

 水中ウォーキングはダイエットやシェイプアップに効果があるという。特に後ろ向きはお尻に効くらしい。奈美は後ろ向きで浮き輪のロープをつかみ、ゆっくりと歩きだした。

 動きだすと、娘は大はしゃぎ。まだバタ足はできないけど、アヒルのように両足で水を掻いている。

 ──その調子、その調子

 奈美はまたひとつ娘の成長を感じて胸が熱くなった。

 まん中まできたとき、第2レーンを泳ぐ男の人とすれ違った。きれいなクロールのフォームで、ぐんぐん進んでいく。

 夏休みの平日の午後、市営プールにいるのは小学生のグループと家族連れ、そして孫をつれたおじいちゃん。そんななかに、ときおり水泳部の学生がいる。第2レーンの彼も、その一人。彼がプールサイドで準備運動をはじめたとき、奈美の目は釘付けになった。長身の体は、みごとな逆三角形で、ひざ上まであるパンツの太ももは、奈美のウェストよりも太いように見える。

「すごいね」 

 奈美が見惚れる間に、黒い水泳帽は25メートルを息継ぎなしで泳ぎきり、ターンを切って折り返しに入っていた。

「そうだ、となりのおにいさんと競争しよう」

 娘に言うと、笑顔でうなずく。

「よーい、ドン!」

 両手でロープを持ち、のけぞるように踏ん張って足をはこぶ。娘も手をバシャバシャさせて応援。けど、後ろ向きではスピードがでない。となりの彼はどんどん迫ってくる。

 体勢を前向きに切りかえ、右手でロープをつかみ、左手で水を掻く。浮き輪をぐいっと引っ張り、抵抗が弱まったすきに歩数をかせぐ。これは速い。左手で水を掻き、浮き輪を引っ張る。あれ? 抵抗がない!

 ふりかえった奈美の血の気が一瞬で引いた。浮き輪のなかに娘がいない。悲鳴をあげそうになったそのとき、となりの彼が娘を抱いて浮かびあがってきた。

 娘はきょとんとした顔で彼にしがみついていたが、奈美の顔を見ると、火がついたように泣きだした。

 奈美は彼の腕から娘を抱きとり、抱きしめた。

「ごめんね、ママがわるかった。ごめんね……」

 あやすように抱いていると、娘はじきに泣きやんだが、そのときにはもう、彼の姿はなかった。


 監視員の笛が鳴り、休憩に入ったのを機に、奈美はプールをでた。プチパニックがおさまった娘はもっと遊びたがったが、このまま大きすぎる浮き輪を使わせるわけにはいかない。奈美は娘の手を引いて駐輪場にむかった。

 娘をうしろのチャイルドシートに乗せ、通りにでようと自転車を押しはじめてすぐ、奈美は異変に気づいた。やけに重い。まさかと思い、うしろのタイヤを見ると、案の定、へこんでいる。

「うそでしょう」

「ママ、どうしたの」

「つかまって」

 娘を乗せたまま、スタンドを下してタイヤをつかむと、完全に空気が抜けている。へたり込みそうになるのをぐっとこらえ、タイヤを回してパンクの箇所を探す。ところが、そんな箇所はどこにもない。クギも刺さっていなければ、目に見える穴もない。

 ──なんで

 奈美はこんどこそ、その場にへたり込んでしまった。

「どうかしましたか」 

 掛けられた声にふりかえると、逆光の中に彼が立っていた。

「虫ゴムですね」

 しゃがみこんでタイヤを調べていた彼が、やおら立ちあがり言った。

「ムシゴム?」

 オウム返しにくりかえすと、彼は「これです」と言って、バルブから引き抜いた小さな部品を見せた。

「ここに付いてるゴム管が虫ゴムで、これが劣化して破れると空気が抜けちゃうんです。特に今日みたいな暑い日は──」

「あのー」

 奈美は遠慮ぎみにさえぎると、彼を上目づかいに見て言った。

「さっきは娘を助けてくれて、ありがとうございました。わたし、ちゃんと、お礼も言わないで、ほんとに……」

「いいんです。それより、お近く、ですよね」

「えっ、はい」

「送ります」

「いいえ、そんな、ご迷惑ですから」

「ひと雨きますよ」

 彼の目線を追って西の空を見ると、真っ黒な雲が群がっている。

 背筋に悪寒が奔った。なにが嫌いといって、雷より嫌いなものは、この世にない。

「自転車は僕が押しますから」

 奈美は彼を見た。考えるまでもないことだ。自宅までパンクした電動自転車に娘を乗せて押していったら三十分はかかる。でも、彼に自転車をまかせ、わたしが娘を抱いていけば、それより早く帰れることは確実だった。

 ただ問題は、彼も自転車で来ているということ。それを言うと、

「送ったあと、取りに戻れば問題ありません」

「でも、帰りは?」

「走って帰ります。僕、トライアスロンをやってるんです」

「あの、走って、泳いで、漕ぐやつね」

「いいえ、泳いで、漕いで、走るんです」

 彼のはにかむような笑顔に奈美の胸はあつくなった。が、それもつかの間、ひんやりとした風がポニーテールのうなじを撫でた。

「ママ、寒いよ」

「いそぎましょう」

「ええ」

 奈美は「自転車、お願いします」と頭をさげ、ちぢこまった娘をチャイルドシートから抱きあげた。


    *


〈もしもし、聞いてる?〉

〈ゴメン、いま、ペディキュア塗ってるの〉

〈もう〉

 珠姫(たまき)は高校のときからそう、興味がないと、人の話をまったく聞かない。

 奈美はスマホを持ちかえ、ワインをひと口飲んでつづけた。

〈それでね、家まであとすこしってところで、雷は鳴るわ、どしゃ降りになるわ、ゲリラ豪雨っていうの、あたしなんか、パンツまで、びしょびしょ〉

〈それで〉

〈とにかく、あがってもらって──〉

〈うそっ!〉珠姫の声が裏返る。〈男を家に入れたの〉

〈仕方ないでしょう、あのままじゃ、カゼひいちゃう〉

〈それで、男を入れて、どうだった〉

〈ねえ、その〝男〟って言い方、やめて〉

〈なら、名前はなんていうの?〉

 奈美はグラスをおろして、目線をあげた。

 彼は近くにある大学の二回生で、水戸の実家をでて今は寮暮らし。でも郊外にあるそのキャンパスに通うのは二年間だけで、三年目からは都心のキャンパスに移るのだという。

「だからこのプールにこれるのも今年までなんです」

「そう」

 奈美は眠ってしまった娘を抱きなおして、となりで自転車を押す彼から顔をそむけた。

 ──なんで、どうして、さみしく感じるの

〈もしもし、起きてる?〉

〈名前、聞きそびれた〉

〈ああ、もう、奈美って、むかしからそうだよね〉

〈なにがよ?〉

〈奥手というか、肝心なところで、一歩が踏みだせない〉

 いわれなくてもわかってる。けど、人に言われると腹が立つ。奈美はワインを一気に飲み干して、大きく息をついた。

〈ダンナと別れて一年?〉

〈と、五か月〉

〈娘さんのこともあるし、すぐに再婚とはいかないだろうけど、あたしたち、まだ三十なんだよ〉

 そういう珠姫は、恋愛にこりた独身主義。でも、彼女こそ恋愛から逃げてると思う。もう二度と、傷つきたくないから。でもあたしは違う。奈美はグラスになみなみとワインを注ぐと、鼻に掛かった声で言った。

〈だから、彼にあがってもらったの〉


    *


「すこし待ってて、この子、着替えさせるから」

 彼をリビングに残して、奈美は娘をつれてバスルームに入った。すぐに服を脱がせて洗濯機にいれ、シャワーをかけて体をふく。そのままタオルにくるんでリビングへ。

「もう、すこし」

 彼に声をかけ、二階の寝室にあがり、服を着せて、娘のベッドにすわらせる。

「お腹、すいた」

「ううん」

「なにか飲む」

「ううん」

「お昼寝する」

 さすがに疲れたのだろう、ベッドに寝かせてタオルケットをかけると、娘はことんと眠りに落ちた。

 着替え用の部屋着を持ってリビングへ。

「えへ」

 肩をすくめて、水着の入ったバッグをつかみ、バスルームにひきかえす。部屋着を棚に置き、水着やタオルを洗濯機にいれる。

「ふぅ」と、息を吐いてリビングにもどると、彼は所在無げに立っていた。

「あの──」

「先に──」

 声が重なる。

「なに?」

「カヤック、やるんですか」

「えっ」

「駐車場にありました」

「ああ、あれは、前のダンナのなの」

 彼は、やっちまったというように目をふせた。

 夫との出会いは、経済紙主催の経営者セミナーでの懇親会だった。夫はIT企業を経営する、いわゆる青年実業家で、あたしは(いろど)りで派遣されたコンパニオン。出会いからウエディングまで、わずか半年のスピード婚だった。

 この家は自称アウトドア派の夫が、渓流カヤックをやるために買ったのだが、すぐに通勤に不便だからと夫は都心にマンションを借りての二拠点生活。結果は予想どおりで、マンションは浮気相手との愛の巣になり、あたしは生活費をふくめた養育費の支払いと、この家をもらって離婚した。

「いいの、気にしないで、よくある話しよ、いまは、絶賛、お相手、募集中」

 彼が、ますます下をむく。そのとき短めに切りそろえた彼の前髪から、汗のまざったしずくが、こぼれ落ちた。

「先にシャワー使って。そのあいだに洗濯しておくから」

「いえ、だいじょうぶですから」

「ダメ、カゼひいちゃう」

 ちゅうちょする彼を、年上のずうずうしさで急き立て、バスルームに案内する。

「洗いものはカゴにいれて、タオルは棚にあるのを使ってね」

「はい」と、短い返事。

「ごゆっくり」

 普段は閉めないバスルームのドアを閉めて、しばし耳をすますとシャワーの音が聞こえ、奈美はしずかにドアをあけて脱衣所に入った。

 浴室のドアは見ないようにして、カゴをのぞく。言いつけどおり、脱いだ服が投げ込まれている。Tシャツとハーフパンツとトランクス型のパンツ。

 ──ちゃんと洗濯してるのかしら

 ぜんぶまとめてカゴから取りだし、片手にかかえて洗濯機のドアをあける。念のためポケットをしらべると案の定、ハンカチが入っていた。

 ひとりニヤけて、ハンカチを取りだしたとき、うずくような感覚が下腹に奔った。奈美はまとめた服に、恐る恐る顔を近づけた。汗と雨と男の匂いがした。

 彼の服を洗濯機にいれ、洗面台の鏡にむかう。上気した顔は息があがり、赤くなっている。奈美は鏡の自分から目を逸らさずにラッシュガードとショートパンツ、そして下着を脱いで洗濯機にいれた。裸になってみると、薄紅色の日焼けの跡が、水着に隠れた敏感な肌を生白く見せている。

 奈美は日焼けの跡を肩から胸、そして下へとなぞり、手をとめた。洗濯機のドアを閉め、スタートボタンを押す。水がそそがれる音を聞きながら、髪をうしろに束ね、マウスウォッシュで口をゆすぎ、浴室のドアの前に立つ。すりガラスを透して彼が見える。奈美は大きく息を吸って、レバーハンドルに手を伸ばした。そのときシャワーの音がやんだ。


    *


〈それで〉

 興味がわいたときの早口で珠姫が言った。

〈彼、あたしが入っていっても、驚かなかった〉

〈あっ、あー〉

〈なあに、いまの声は〉

〈気にしないで、それで、彼、どうだった〉

〈それがよ〉

 奈美はワインをがぶ飲みして言った。

〈どうもこうも、ありゃしないの〉

〈なにがあった〉

〈舌よ!〉

〈はあ?〉

〈ふつうファーストキスで舌はいれないでしょう〉

 だが彼は違った。唇がふれあうなり舌を押しこみ、吸いつくような勢いでからめてくる。あたしは腰の上を抱きしめられて、つま先立ち状態──。

〈窒息するかと、思ったわよ〉

〈ハッハッハッ、ハタチのころは、そんなもんよ〉

〈そうね、あのころは、お互い無我夢中でセックスしてた〉

〈あたし、おしっこ飲ませたことがある〉

〈うっそ!〉

〈みんな、やるでしょう〉

〈やらないわよ。でもあのころは、あれのときでも、タオルを敷いてやってた〉

〈いまじゃ、考えられない〉

〈もう、二度とできない〉

〈ちょっと待ってて、あたしもビール持ってくる〉

 ペディキュアも乾いたのだろう、スマホを置いて、キッチンに走る足音が聞こえた。奈美はグラスに注いだワインを見つめた。いままでの人生で、あたしをいちばん愛してくれたのは、汚れたタンポンを抜いてくれた、彼かもしれない。

〈お待たせ、では、カンパイ〉

〈美しくも、儚い、青春に〉

 奈美は目の高さにグラスをあげ、ハタチの自分に乾杯した。

〈それで〉

〈なにが〉

〈それで、終わりじゃないでしょう〉

〈まあね〉

 ──彼はあたしの前にひざまづくと、膝裏(ひかがみ)をつかんで片足を持ちあげ、内ももをひらいた。そのとき一瞬、間があった。見てる、と感じた。あたしは彼の肩に足を乗せ、後ろ髪をつかんで引きよせた。やわらかな舌が股間を舐めまわす。あたしは目をとじ、彼のうなじをさすりつづけた。

〈あたし、それが一番好きかも〉

 感慨深げに珠姫が言う。

〈愛されてるって、感じるの〉

〈わかる〉と奈美。

〈みんな最初はやるのよ、でもそのうちおざなりになって、最後はスカートをまくりあげておしまい。オナホールじゃないってえの〉

〈あたしに怒らないでよ〉

〈待ってて、おかわり取ってくる〉

 ふたたびキッチンにむかう足音、奈美は残りすくなくなったボトルを見つめた。

 まさに夫がそうだった。人の話を聞かず、やるだけやって寝てしまう。何度、寝つきのいい夫の寝顔に殺意を覚えたことか。

「くたばっちまえ」

 奈美はラッパ飲みでワインを飲み干した。

〈おまらせ〉

〈なんか食べてる?〉

〈チョコピー、腹が立ったら腹がすいた〉

〈太るわよ〉

〈ほっといて、それで、そのあと、どうなった〉

 ──彼はあたしを抱きあげると、お尻をつかんで受けとめた。あたしは脚を巻きつけ、彼のくびに腕をまわす。

「シャワーをだして」

 彼がむきをかえ、レバーをひねる。37度のお湯が頭に、背中に、胸を伝ってお腹にかかる。

「キャッ」

 肌がすべり、お尻がずり落ちる。でもそれはシャワーのせいではない。彼が手をずらして、あたしを誘導しているのだ。

「ゆっくり、ゆっくり……」

 彼の動きにあわせ、あたしも腰をずらしていく。

「あっ、あー」

 脚をしめ、彼にしがみつき、突きあげる波を受けとめる。漏れでる声をシャワーの音が、かき消す。それはまるで嵐のなかにいるようだった。

〈映画みたい〉

 ため息まじりに珠姫が言った。


   *


 翌朝、目覚めると奈美は想定外の二日酔いにみまわれた。

「ああ、さいあく」

 夏掛けをはいで起きあがり、娘のベッドをのぞくと、まだ眠っている。カーテンをあけ、サッシ戸をあけると、セミの大合唱。目を細めて、お陽様を見あげると、くしゃみがでた。

 一階におりて、バスルームにいく。顔を洗って、鏡を見る。二日酔いが、まんま顔にでてる。昨日のことが、頭をよぎる。髪をうしろに束ね、マウスウォッシュで口をすすぎ、パジャマを脱いで、レバーハンドルに手を伸ばす。そのときシャワーの音がやんだ。奈美は部屋着をつかんでバスルームを飛びだした。

 ──どうして昨日、ドアをあけなかったの

 奈美は浴室に入ってシャワーのレバーをひねった。

 ──肝心なところで、一歩が踏みだせない

 37度のお湯が日焼けにしみる。

 ──夕べ、電話で話したような、映画みたいな恋がしたいんでしょう。できるわよ、裸になって、彼の胸に飛び込めばいいの

 奈美はシャワーをとめて、耳をすませた。

 ピン・ポーン♪

 いそいでタオルを巻き、バスルームを飛びだし、TVドアホンの通話ボタンを押す。

〈虫ゴム、持ってきました〉

 束ねたゴム管を見せて彼が笑う。

〈ありがとう。いまあけるね〉

 奈美は玄関に走った。ほどけたタオルが廊下に落ちるのもかまわず……。

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