優しさの輪郭
「黒木さん、ちょっと手伝ってもらえますか?」
柔らかな声に振り返ると、白絹透が書類の束を抱えて立っていた。
グレーのシャツにスーツのジャケット。髪は整えられ、眼鏡の奥の瞳はいつものように優しげだった。
「はい、すぐにお伺いします」
会議室へ向かう短い廊下を歩きながら、いばらは内心、少し緊張していた。
白絹と二人きりになると、空気が変わる。
それは決して不快なものではない。むしろ、居心地が良いとすら感じるほどに、彼は丁寧で、穏やかだった。
「最近、どうですか? 眠れていますか?」
突然、そう問われてドキリとする。
「……どうして、そんなことを?」
「なんとなく。少し疲れて見えたから。僕は、部下の様子を気にかけるのが仕事ですからね」
白絹は笑いながらそう言ったが、いばらはその“気づき”が少し、深すぎるように思った。
(私のこと、どこまで見えてるんだろう)
会議室では資料整理の手伝いをしながら、静かに時間が過ぎていった。
会話は必要最低限で、けれど心地よい沈黙が流れていた。
白絹は、机の上のファイルを並べながらふと、こんなことを口にした。
「記憶って、不思議ですよね。知らないはずなのに“懐かしい”と感じることがある。
まるで、前にも同じ場所にいたような気がする――そんな感覚、ありませんか?」
一瞬、手が止まった。
「……あります。最近、よく……」
「やっぱり」
白絹の声には、どこか安堵が混じっていた。
「そういう感覚は、大事にした方がいい。記憶は、君の内側で何かを訴えようとしているかもしれない」
まるで、私の“奥”にあるものを知っているかのように。
(……この人は、どうして私にそこまで言うの?)
笑顔の奥に、何かがある気がした。
けれど、何が“違和感”なのか、はっきりとはつかめない。
ただ――
彼が“優しすぎる”ことに、どこか無意識で身構えてしまう自分がいた。
その夜、木漏れ日荘の通路で、椎葉楓とすれ違った。
「……あ、こんばんは」
「……こんばんは」
ほんの短い挨拶。
けれど、いばらの顔を見た楓の目が、一瞬わずかに細められた。
「……何かあった?」
「え?」
「……疲れてる、ように見えたから」
言葉数は少ないのに、核心だけを突いてくるような声だった。
「……ちょっと、会社で、考えごとをしていて」
楓はそれ以上何も聞かず、ただ一度だけ「そうですか」と頷いた。
でもその目は、白絹に向けたのとはまるで違う、安心を与えてくれるまなざしだった。
(なぜだろう……)
椎葉さんの前では、張っていた糸がふっと緩む。
何かあった時、言葉よりも先に、空気で気づいてくれる――
そういう人なのだ。
その夜、夢は見なかった。
けれど、胸の奥に残っていたのは、白絹が言った言葉の余韻。
――「記憶は、君の内側で何かを訴えようとしている」
それは、呼びかけなのか。
それとも、目覚めへの合図なのか。
答えはまだ、静かに眠っている。




