いばらの名
「黒木さん、植木鉢、倒れてましたよ」
夕暮れの廊下で声をかけてきたのは、椎葉楓だった。
小さな鉢植え――ベランダの片隅に置いてあった、いばらの植物だった。
風で倒れたのか、陶器の縁に小さなひびが入っていた。
「……ありがとうございます。私、気づかなかった」
椎葉はひと言も責めることなく、小さく首を振ると手を差し出した。
「直せると思います。預かってもいいですか」
「……はい」
鉢植えを抱えた椎葉の後ろ姿を、いばらはしばらく見つめていた。
彼の歩き方は静かで、まるで風の流れのようにゆっくりと周囲を整えている。
(あの人は、いつも何かを“整えて”いる)
壊れた場所を、乱れたものを、気づかれないようにそっと直している。
それは、まるで――
私の記憶の“ほころび”まで、黙って修復してくれているようで。
その夜、ふと、母の声のようなものを夢の中で聞いた。
『いばら』
その名を呼ぶ声は、やさしくて、痛いほど遠かった。
『おまえの名前には、“護る”意味がある。痛みも、傷も、誰かの代わりに引き受けて――』
目が覚めたとき、胸の奥に焼きついていたのは、その言葉の一部だけだった。
(“誰かの代わりに”って、どういう意味?)
自分の名前にそんな意味があったなんて、考えたこともなかった。
でも、“いばら”という響きに、どこか切なさを感じていたのは確かだった。
数日後、鉢植えは修復されて戻ってきた。
ひびがあった部分は、透明な樹脂で補強されている。
「……すごく、丁寧に」
「欠けたままじゃ、水が染み込んでしまうから」
椎葉は淡々とそう言った。
「人間も同じ。内側が壊れてても、見えなければ誰も気づかない。だから……水が染み込む前に、補強が必要なんです」
その言葉は、まるで彼自身がいばらの中に見ている何かを語っているようだった。
(この人……何を知ってるの?)
聞きたい。でも、聞いたら壊れてしまいそうで――聞けなかった。
いばらは、ベランダに鉢を戻す。
まだ花は咲いていないが、しっかりと根付いているように見えた。
名も知らないその植物に、水を与えながら、いばらはぽつりとつぶやいた。
「咲くの、楽しみにしてるね」
風が吹き、ベランダのレースカーテンがふわりと揺れた。
完璧な日常。
優しい住人たち。気にかけてくれる人たち。
けれどそのすべてが、まるで何かを隠すための静けさのようにも感じられる。
“私の名前”。
それは、これからすべてを思い出していくための最初の鍵だった。




