風にまぎれた記憶
午後のオフィスは、静けさに包まれていた。
コピー機の音。タイピングの音。どれも生活音のように日常を形作っている。
(あたりまえの日々、ってきっとこういうのだよね)
いばらは自分のデスクで、定時までの時間を淡々と埋めていた。
隣の席の沙耶が、「この資料、手伝おうか?」と声をかけてくれる。
その笑顔は変わらず優しく、飾らない日常の一部になっている。
けれど、ふと――後ろを通り過ぎた誰かの香水の匂いが、いばらの記憶をざわつかせた。
甘く、どこか古い香り。
(……この匂い、知ってる)
瞬間、胸が締めつけられるような感覚に襲われた。
なぜか涙が出そうになって、いばらは立ち上がった。
「すみません、少し席を外します……」
会議室の奥の非常階段までくると、ようやく深く息をつくことができた。
(こんなこと、最近よくある……)
夢の断片が現実に混じり込む。
知らないはずのものに“懐かしさ”を感じる。
頭では理解できないのに、心が先に反応する。
それが怖い――けれど、どこか、惹かれてしまう。
その夜、アパートの談話室では、住人たちが持ち寄ったお茶とお菓子で小さな集まりが開かれていた。
「黒木さん、こちらへどうぞ。ハーブティーがちょうど入りました」
橘しのぶの声に、いばらは小さく微笑んで座る。
香り高いカモミールがカップに注がれ、ことりが手渡してくれたクッキーを一緒に口にした。
「学校はどう? 最近、楽しい?」
いばらが尋ねると、ことりはこくりと頷いた。
「……でも、黒木さんのほうが心配」
「え?」
「夢のなかで泣いてる。お母さんのこと、忘れないでって」
小さな声。
それはあまりに唐突で、そして核心を突いていた。
(お母さん? 私の?)
その言葉に、いばらの指がぴくりと震える。
「ことり……それ、どうして……?」
「夢で見た。黒木さん、誰かに手を引かれてたの。すっごく泣いてて、でもね、その人、すごくあったかかった」
しのぶが微笑を湛えながら言う。
「ことりはね、ときどき……未来の片鱗を感じ取るの。きっと、あなたの心がそれを呼んでるんでしょうね」
心が呼んでいる――
その言葉に、また胸が軋む。
夜。部屋の窓を開けて、いばらは風に髪をなびかせた。
遠くで、また風鈴が鳴っている。
そして、ふと耳を澄ませると――
『いばら』
風にまぎれて、その声が聞こえた気がした。
名前を呼ぶ声。夢の中と同じ、どこか哀しげで、強い声。
見上げた夜空に、月が静かに浮かんでいた。
(あの声は……私を知ってる)
そう思った瞬間、いばらは怖くなかった。
むしろ、ようやく何かに近づけた気がしていた。




