誰かの声がする
「黒木さん、これ、使ってもらえたら嬉しいんだけど」
休日の午後、郵便受けを確認していると、榛名あかねが駆け寄ってきた。
手に持っていたのは、小さな布袋。
中には、手作りのラベンダーサシェが入っていた。
「香り、少しきつくないといいんだけど……。眠りやすくなるって聞いたのよ」
「ありがとうございます。……最近、少し夢見がちで」
「うん、そうなんじゃないかなって思ってたの」
あかねは、まるで何かを“知っている”ように微笑んだ。
「大丈夫よ。ちゃんと、見守ってるから」
その言葉が、妙に胸に残った。
部屋に戻り、ラベンダーの香りが漂う枕元に横になる。
ゆるやかに意識が沈み込むなかで、いばらはまた夢を見る。
ざわめく声。壇上。祈りの輪。
そして、彼女の前に現れる、白い衣を纏った影。
『いばら』
その名を呼ぶ声。
どこかで聞いたことのある、深く甘い声。
ゆっくりと顔を上げると、その影は微笑んでいた。
やさしい――けれど、その微笑みは“こちら側”ではなかった。
(……あなたは、誰?)
何度問いかけても、夢はそこで終わる。
目が覚めたとき、胸の奥がしんと冷えていた。
けれど、その冷たさよりも、もっと気になるものがあった。
“呼ばれた”感覚。
それは、夢ではなく、どこか現実の手前にあるもののようで――
(私……あの声、知ってる)
確信に近い感覚だけが、形を成さずに残っていた。
その日の夕方、いばらはなんとなくアパートの裏手へ足を向けた。
人気のない中庭で、椎葉楓が草を抜いていた。
「……何か、探してるんですか?」
「いや。ここ、たまに草が伸びてくるから」
「きれいに整ってるから、いつも助かってます」
椎葉は少しだけ視線を上げた。
そのまま、手にしていた木の枝をいばらに見せる。
「これ、なんの木か分かりますか?」
「……えっと、桜?」
「正解。春になると、ここの枝、ひと晩で咲くんです」
いばらは、思わず枝先を見つめた。
今はただの灰色の木肌。でもその中に、花を咲かせる記憶が眠っている。
(まるで、私の中みたい)
眠ったままの、何か。
咲いてしまえば壊れてしまうような、記憶の花。
「……私も、咲けるかな」
何気なく呟いた言葉に、椎葉は目を細めた。
「きっと、咲きますよ。必要なときに」
その言葉が、どこか深く刺さった。
帰り道、いばらはふと思う。
このアパートの人たちは、まるで自分のことを前から知っていたみたいだ。
あかねさんも、ことりちゃんも、しのぶさんも。
そして――椎葉さんも。
(……でも、どうして?)
その疑問の答えは、まだ“思い出せない”。
でも、きっと近づいている。
誰かの声が、確かに――彼女を呼んでいる。




