静けさの内側で
木漏れ日荘の通路を、ゆっくりと風が通り抜ける。
洗濯物がさわりと揺れ、風鈴の音がひとつ、軽やかに鳴った。
土曜の昼下がり。
いばらは洗濯物を干しながら、ふと隣のベランダに目をやる。
隣室――浪人生の楪は、今日も部屋から出てきていなかった。
昨日の“夢の話”が、まだ胸のどこかに引っかかっていた。
(似た夢……って、どういう意味だったんだろう)
聞けばよかった。でも、聞いたら“何か”が崩れてしまうような気がして、結局そのままにしてしまった。
その夜、アパートの裏手にある階段の踊り場で、管理人の椎葉楓が空を見上げていた。
月がちょうど屋根の隙間から顔を出し、淡い光を辺りに落としている。
「……月、きれいですね」
いばらが声をかけると、椎葉は振り向いて、小さく頷いた。
「……あまり見ないですか?」
「月は……昔はよく見てた。でも、最近は……」
それ以上は言わなかった。
けれど、彼の目には、何かをずっと思い続けてきた人の静かな強さがあった。
(この人、きっと私の知らない何かをたくさん見てきたんだ)
沈黙の中で、椎葉はふと、懐から紙袋を差し出した。
「これ、食べますか」
中には、手作りのクッキーがいくつか。
「えっ、作ったんですか……?」
「……知り合いに教わって。余ったので」
どこか不器用な差し出し方だったが、袋は丁寧に折り目がついていて、形もそろっていた。
「いただきます。……うん、おいしい」
口に含むと、やさしい甘さが広がった。
派手さはないけれど、どこか懐かしい味だった。
「こういう味、好きかもしれません」
椎葉は、静かに目を細めた。
しばらくして、いばらはお礼を言って部屋へ戻った。
扉を閉めたあと、胸の中に残っていたのは、夢や記憶とはまったく違う、現実の“温度”だった。
不安も、過去も、すべてを包み込んでくれるような静かな安心感。
椎葉楓という人は、言葉少なくして、彼女に“日常”を手渡してくれている。
(この人がいてくれて、よかった)
そう思ったのは、これが初めてだった。
だが、その夜。
夢の中では、またあの壇上にいた。
今度の夢は、なぜか“音”があった。
ざわざわとした祈りの声。
耳の奥をくすぐるような、聞き取れない言葉。
そして――誰かが、彼女の名前を呼んでいた。
『……いばら……』
男の声。低く、囁くようで、懐かしくて――怖い。
(……誰?)
目が覚めたとき、頬に涙が伝っていた。
部屋の中は変わらず静かで、外からは風鈴の音が聞こえていた。
完璧な日常の、その内側で。
何かが確かに、目を覚まそうとしていた。




