記憶に触れる匂い
その日もまた、朝は静かに始まった。
窓の外から聞こえる鳥のさえずり。台所に立つと、かすかに漂うコーヒーの香り。
(……おかしいな)
コーヒーなんて淹れていない。
けれど、どこかで確かに嗅いだことのある香りが、鼻の奥をくすぐっている。
記憶の奥に沈んだ、誰かの温もり。
手を引いてくれた感触。何かを守ってくれた、あの背中。
けれど、それが誰だったのかは思い出せない。
(また、夢の影響……?)
毎晩のように繰り返される夢。
白い壇上、無表情な人々、そして――喉元に触れる冷たい刃。
その場面はいつも決まっていて、まるで舞台の一幕のようだった。
起きた後の体はどこも傷ついていないのに、夢の中の痛みだけが、妙にリアルだった。
出勤すると、白絹透が笑顔で迎えてくれた。
「おはようございます、黒木さん。今日は気分どうですか?」
「……はい、元気です。ありがとうございます」
「よかった。顔色が少し良くなりましたね」
彼は、こちらの変化にすぐ気づく。
その優しさは時に、胸の奥をほぐしてくれる。
けれど、ふとした瞬間に――
彼の瞳の奥に、冷たい光が宿っている気がして、いばらは言葉に詰まる。
(……気のせいだよね)
上司としても人間としても完璧な人。
職場での空気は心地よく、同僚の沙耶とも穏やかな関係が築かれている。
「ねえ、いばらちゃん。白絹さんって、本当に素敵だよね。理想の上司っていうかさ」
昼休み、沙耶が嬉しそうに話す。
「……うん、そうだね」
そう返しながらも、心のどこかで小さな違和感が膨らんでいた。
白絹に向けられる視線の数。誰もが彼を疑わず、ただ慕っている。
それが逆に、不自然に思える瞬間がある。
夕方、木漏れ日荘に戻ると、通路に座り込んでいる男の子がいた。
一人暮らしの浪人生、槇原楪だ。
「……何か、探してるの?」
声をかけると、彼はちらりと視線をよこし、小さく呟いた。
「落とし物。ペン……だと思う。たぶん」
「たぶん、って……」
「俺、記憶するの苦手でさ。自分の記憶もあんまり信用してないんだ」
どこか、他人事のような言い方だった。
それがいばらには不思議と気になった。
「でも君、よく夢見てるよね。……声、聞こえてるよ」
その言葉に、いばらの胸がきゅっと縮んだ。
「――夢のこと、どうして?」
「聞こえるだけ。部屋、隣だからさ。……なんか、叫んでた」
「……ごめんなさい」
「謝らなくていい。俺も、似たような夢見てるから」
その夜。
眠りに落ちる直前、いばらは思った。
この日常は、確かに心地よい。
優しい住人たち。安心できる職場。静かに見守ってくれる椎葉さん。
けれど、そのすべてが“壊れてはいけない”前提で成り立っているような、そんな緊張感があった。
一歩踏み出せば、全てが瓦解してしまうような。
――そんな考えが、夢の淵から忍び寄ってくる。




