まるで台本のような
「黒木さん、こっちこっちー!」
玄関前で呼び止めたのは、榛名あかねだった。
鮮やかな朱色のエプロン姿に、肩にのった洗濯物かご。
朝から元気に動き回るその姿は、まるでこのアパートの太陽のようだった。
「おはようございます、榛名さん」
「おはよう!今日はね、あの子が黒木さんに渡したいものがあるんだって」
あの子――ことり。
榛名家の娘で、小学校低学年くらいの小柄な女の子。
いばらを見ると、ことりは恥ずかしそうに両手で何かを差し出した。
「……これ、どうぞ」
「折り鶴?」
「“まもり”の鶴だよ」
ことりは小さく微笑んだ。
その表情が、一瞬だけ――誰かに重なった気がした。
誰だった? なぜ“懐かしい”と感じたのか。
何も思い出せないはずなのに、胸の奥が、わずかに痛む。
「ありがとう、ことりちゃん。大切にするね」
ことりはこくんと頷いて、母の後ろに隠れるように走り去った。
アパートの通路を歩くと、他の住人たちも顔を出す。
「おはようございます、黒木さん」
穏やかな声であいさつしてくるのは、橘しのぶさん。
いつも静かで上品な雰囲気の女性で、ハーブティーを淹れるのが趣味だという。
「おはよう。今日はいいお天気ですね」
「ええ。こんな日は、洗濯物も気持ちよく乾きますよ」
しのぶは微笑んでから、ふといばらを見つめて言った。
「最近、よく眠れていますか?」
「……え?」
「なんとなく、そんな気がして」
「……はい、大丈夫です」
――と、答えるしかなかった。
本当は、あの夢を見ている。毎晩、同じ場所で、同じように死んでいる。
けれど、そのことを口にしたら、何かが壊れてしまうような気がして。
会社に着けば、そこでもまた“いつもの日常”が待っていた。
白絹透は今日も穏やかに、いばらに声をかける。
「昨日、頑張ってくれましたね。助かりました」
「いえ……そんな、大したことは……」
「あなたはもっと自信を持っていい。僕は、君を信頼してるよ」
言葉のひとつひとつが、やさしく胸に染みる。
“そう言ってもらいたかった”気持ちが、心の奥にあった。
(なぜ、そんなふうに思ったんだろう)
いばらは、自分でも気づかないうちに、
「そうあってほしい日常」に、どこかすがっている。
夕暮れ。アパートの帰り道。
木漏れ日荘の階段に座っていた管理人・椎葉楓が、いばらに気づいて立ち上がる。
無言でドアを開けてくれるその仕草に、言葉より多くの安心があった。
「今日も、ありがとうございます」
楓は黙って頷き、手にしていた小さな袋を渡してきた。
中には電球と、手書きのメモ。
《202号室 キッチン上 そろそろ切れそうです》
(……見てくれてたんだ)
彼は、さりげない優しさで見守ってくれている。
その沈黙が、ときに誰よりも深く寄り添ってくれる。
静かで、優しくて、完璧に整った毎日。
少しずつこの日々に馴染んでいく自分がいる。
けれど、どこかで――
“この日常は、誰かの手で、台本通りに並べられているのではないか”
そんな疑念が、背中をかすめるようになっていた。




