知らない私
夜の夢――
そこは、まるで深い水の底だった。
音がない。空気もない。ただ、意識だけが沈み続けている。
そのなかで、誰かが立っていた。
白い衣、長い髪、そして背を向けたまま動かない女。
近づこうと足を踏み出すたび、重力のようなものが全身を引き戻してくる。
けれどそれでも、いばらは歩いた。
(――あれは、私?)
直感的にそう思った。
でも、すぐには信じられなかった。
その“私”は、静かに手を伸ばしていた。
何かを守ろうとするように。
何かを拒むように。
その手が、ふとこちらを向いた。
――目が覚めた。
静かな部屋。カーテン越しに朝の光が射している。
胸が、少しだけ痛む。
夢はただの夢のはずなのに、あの手の動きが妙にリアルだった。
(あれは、本当に……私?)
夢の中の彼女は、“誰かを守っていた”。
それは、ことりが言っていた言葉とも重なっていた。
「まもりの鶴」
「結界」
「黒木さんを守るために」
あれは、子どもの空想なんかじゃない。
その確信が、じわじわと心を侵食してくる。
職場では、白絹透が何もなかったかのように声をかけてくる。
「黒木さん、今日も顔色いいですね。夢は、どうですか?」
一瞬、言葉が詰まる。
白絹が「夢」を知っているということを、あまりにも自然に口にするから。
「……どうして、私が夢を見るって……」
「前にも話しましたよ。記憶と夢は深く結びついている。
夢を見る人は、それだけ“記憶が反応している”ということです」
彼の笑顔はやさしい。
けれど、その語り口にはどこか“決めつけ”のような、乾いた響きがある。
「黒木さんの中には、まだ眠っている記憶がある。……それが、目覚めたがっている」
「……私の記憶に、あなたは関係してるんですか?」
その言葉が、咄嗟に口から出た。
白絹は、微笑んだまま、ほんの一瞬だけ目を細めた。
「もし僕がそうだったとしたら――君は、どうしますか?」
答えられなかった。
否定すべきだったのに、
そう聞かれても、言葉が出なかった。
まるで、“それは当然だ”と言われたような気さえしたから。
帰り道、木漏れ日荘の通路を歩いていると、階段に座る椎葉楓の姿があった。
手には本。表紙は擦り切れていて、古びた詩集のようだった。
「……こんばんは」
「こんばんは」
短いやり取り。けれど、それだけで心が落ち着く。
「椎葉さんは……夢、見ますか?」
「……見ますよ。ときどき」
「私は、夢を見るたびに、自分が“誰か別の人”だった気がして……怖いです」
椎葉はしばらく黙ったあと、本を閉じて言った。
「怖がらなくていい。君は、君のままです。
ただ――“思い出すだけ”なんです。君が、何を護ってきたのかを」
“護ってきた”――その言葉がまた、心に引っかかった。
誰を?
何を?
私は、何から誰かを護ってきたのか?
それを知ることが、
私の日常を、壊すことになるとしても。
それでも、もう戻れない。
名も知らない“私自身”が、夢の奥でじっとこちらを見つめている。




