第8話 裏工作
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熱田神宮に滞在している信行は那古野城に先触れを送り、駿河で井伊次郎法師を保護した事と織田家の賓客として那古屋城へ案内する事を伝えた。
「勘十郎がやってくれたぞ」
「何をです?」
「今川と因縁がある者を抱え込んだ」
信長は詳細は中身を読めば分かると帰蝶に手紙を渡した。
「今川義元が犯した失態を知る者を保護したとなれば、勘十郎は今川と一戦交える気なのでしょう」
「その次郎法師という坊主を神輿に据えるつもりだな」
「…」
帰蝶が黙り込んで信長をひと睨みした。
「どうした?」
「旦那様が手紙に目を通していないから呆れているのじゃ」
「はぁ?」
帰蝶は手紙を信長に突きつけると或る部分を指でなぞった。
「次郎法師は尼僧と書かれている。坊主ではない」
「何だと?!」
信長がもう一度目を通すと井伊次郎法師を説明している一文に『井伊直盛の長女で〜身分を隠す為に出家して尼僧になった』と書かれていた。
「…」
「済まん」
「本人がこの場に居ない事が幸いした。居れば旦那様は大恥を書いた上に勘十郎から叱責されていたのではないか?」
「帰蝶の言う通りだ。散々嫌味を言われて凹んでいただろうな」
帰蝶の説教は短時間で済むが淡々とされるので怒りの度合いが分からず対応に困る。信行の説教は短時間だが嫌味が多いので馬鹿にされた気分になる。土田御前の説教は長時間かつ感情論になるので信長からすれば地獄でしかない。
「これも読んでいないのでは?」
最後の一文に『次郎法師殿は独身なので婿探しの必要あり。兄上と義姉上で探してもらいたい』と書かれていた。
「許婚が他領に逃げたまま戻っていないとあるのでその辺りをどうするか…」
「次郎法師の意向次第になるが、姿を消して数年になるのだぞ?そんなもの無効に決まってるだろう」
井伊次郎法師には井伊直親という遠縁の許嫁が居た。しかし今川義元による粛清を逃れる為に井伊谷を脱出したものの行方知れずになっていた。
「旦那様がそう思うなら婿探しを進めましょう」
「その許婚とやらが出て来たら追い返してやるわ」
信長は帰蝶に対して威勢良く啖呵を切った。この発言は数年後に間接的だが現実のものとなる。
*****
信長と帰蝶は数刻の間、家臣の名前が記された巻物を見ながら候補者を選別していたが適任者が見つからず頭を抱えていた。
「直ぐに決めなくても良い気がするぞ」
「勘十郎に説教されても良いなら決めなくても良いがのぉ」
「それは嫌だ」
もう一度巻物に目を通したが適任者は見つからなかった。帰蝶はしばらく物思いに耽っていたが、仕方ないという表情になった。
「旦那様が側室として向かえるのはどうじゃ?」
「俺の側室だと?無理に決まっているだろうが」
「理由は?」
「帰蝶一人に難儀しているんだぞ。この状況でもう一人抱えたら精神的に参ってしまうわ」
信長は帰蝶を迎えてから他の女性に見向きせず側室の話が出ても退けていた。二人の間に子供が居ないのが理由である。やはり正室との間に男子を設けてから側室を迎えないと庶兄信広のような難しい立場の者が現れて争いの元になりかねないからである。
「精神的に参るとはどういう意味なのじゃ?」
「それはだな…」
「妾が旦那様に圧力を掛けているとでも?」
「そんな事はない」
「今はあれこれ詮索している場合ではないので誰にするか決めなければならぬ」
帰蝶の目付きが変わったので信長は警戒したが、誰にするか決めなければならないのが幸いして難を逃れた。
「信広兄者も駄目だな」
「あの御仁は信用出来ない」
「利用された挙句に捨てられるだけだ」
庶兄の信広には正室がいるので次郎法師が嫁いでも側室扱いになる。加えて家督継承の件で信長や信行との関係がギクシャクしており反旗を翻す噂もチラホラ流れてきているので嫁がせたら信広自身の権力掌握に利用される恐れがあった。
「勘十郎しか居ないのでは?」
「そういう事になる。現時点では特定の相手が居ると聞いていないからな」
「ならば正室として嫁がせる事が出来る。今は織田の姓を名乗っておいて駿河を取った後で井伊の姓に改名すれば良いのじゃ」
「男子が生まれたら井伊の姓を名乗らせて正統な後継者だと宣言すれば反論出来ないぞ」
「勘十郎に嫁がせれば万事上手く行く」
「流石は我が嫁だな」
帰蝶は信長に褒められたので上機嫌になった。信長は二人が到着した後の事を直ぐに話をするつもりだったが、機嫌取りの為にしばらく煽てていた。
****
信行一行が那古屋城に到着すると信長の側近である丹羽長秀の出迎えを受けた。
「御屋形様と御方様が首を長くしてお待ちです」
「遅くなったつもりは無いんだけど」
「とにかくご案内致します」
丹羽長秀に急かされるようにして一行は城内に入り、信長と帰蝶が首を長くして待っている広間に通された。
「勘十郎、大儀であった」
「ありがとうございます」
「詳しい話は後程聞かせてもらう」
「承知致しました」
信長は顔を伏せている井伊次郎法師に視線を向けた。
「客人殿、顔を上げられよ」
「はい」
「織田尾張守信長である。そこに居る勘十郎の兄でもある」
「井伊次郎法師と申します」
「大まかな事は既に知らされている。込み入った話は改めてさせてもらう」
信長は信行から送られた手紙を見せて事情は承知している事を井伊次郎法師に伝えた。
「はい。宜しくお願い致します」
「帰蝶、井伊次郎法師殿を任せる」
「お任せを」
「勘十郎、聞きたい事があるから付いて来い」
信長は挨拶を済ませると信行たちを連れて広間から出て行った。残された帰蝶は井伊治郎法師を自ら案内して私室に連れて行った。
*****
帰蝶は井伊治郎法師を客間ではなく私室に招き入れた。一族以外は滅多に出入り出来ない部屋なので帰蝶は井伊治郎法師を織田家に加える事に反対しない意思表示をした事になる。
「勘十郎からある程度事情は聞いているが、意志を確認せねばならぬ」
「治部少丞様は今川を潰した後で遠江を井伊家に譲り渡すと言われましたが…」
「井伊家には統治する者が居ない?」
「今川義元に悉く粛清されましたので」
「ならばどうすれば良いと思う?」
「図々しい話になりますが、婿を迎えて当主とするしか手立てがないと思っております」
「その上で婿となる者との間に子を成せば井伊家を継がせる事が出来るからか?」
「その通りです」
「もう一押し欲しいところじゃ」
「?」
「勘十郎が井伊家に遠江を譲ると言っても後ろ盾が無ければ納得しない者が出て来る」
「潰されるという事でしょうか?」
「旦那様か勘十郎が強引に事を進めればどうにかなるが、火種を残す事に繋がりかねない」
「では?」
「端的に言えばそなたが織田家に嫁げば良い。織田家が井伊家の縁戚となり後ろ盾となれば誰も文句は言えない」
「誰でしょうか?」
「難儀な事に一人しか残っておらんのじゃ」
「…」
「分からぬか?自分を売り込んでおらぬとは情けない男じゃ」
「じ、治部少丞様でしょうか?」
「御名答じゃ。一族の成人で独り身は勘十郎しか居らぬ」
井伊治郎法師は駿河であった一件を帰蝶に話した。信行が自身を売り込んだかどうかは分からないが、何からの意思表示に思えたと。
「旦那様には少し負けるが良い男じゃ。ひ弱そうに見える芯が強い。即断即決で一度決めた事は貫き通す意地っ張りでもある」
「宜しくお願い致します」
「即断即決とは勘十郎に似ておるな。そなたなら上手くやれるであろう」




