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『狂犬公爵』の専属保育士になりました。孤独な少年を甘やかして育てたら、10年後に大人の男になって迎えに来たのですが!?「もう子供扱いするな」と迫られても、私の膝の上で寝ていた記憶が邪魔をするんです

作者: 文月ナオ
掲載日:2026/01/07

 

「君に任せたいのは、ある貴族の子息の世話だ。……ただし、命の保証はしない」


 冒険者ギルドの裏手にある斡旋所で、髭面の男は重々しくそう言った。


 提示された報酬額は、相場の十倍。

 あまりの高額さに、私は思わず眉をひそめた。


「……そのお子さん、そんなにワガママなんですか?」


「ワガママ? そんな可愛いもんじゃねぇよ。あいつは『悪魔』だ」


 男は声を潜め、忌々しそうに吐き捨てた。


「これまで派遣した侍女や家庭教師は、全員三日も持たずに逃げ出した。中には大怪我をして、一生消えない傷を負った奴もいる。……『狂犬公爵』。それが、そのガキのあだ名だ」


 狂犬。悪魔。


 そんな言葉を聞かされて、普通の令嬢なら尻尾を巻いて逃げ出すでしょうね。


 でも、私は違った。


 私の名前はヒナ。


 前世は日本で、ブラック保育園の主任保育士として働いていた。


 モンスターペアレントの理不尽なクレーム、人手不足によるワンオペ育児、そして何より、個性豊かな(時に怪獣のような)子供たちの相手を続けてきた。


 噛みつき、ひっかき、癇癪、脱走。


 そんなものは日常茶飯事。


 私の腕には、歴戦の古傷(子供たちの噛み跡)が勲章のように刻まれている。


(狂犬、ねぇ……)


 私は、前世の記憶と、今世の貧乏生活を天秤にかけた。


 実家の借金。弟たちの学費。明日のパン代。


 背に腹は代えられない。それに――。


「子供が暴れるのには、必ず理由がありますから」


 私はニッコリと微笑んで、契約書にサインをした。


「その依頼、お受けします。……猛獣使いの腕の見せ所ですね」




 ◇◆◇




 馬車に揺られて到着したのは、王都の外れにある広大な森の奥。


 鬱蒼と茂る木々の向こうに、古びた洋館がそびえ立っている。


 外壁には蔦が絡まり、窓は分厚いカーテンで閉ざされ、まるで幽霊屋敷。


 ここが、フェンリル公爵家の別邸。


 そして、私の新しい職場。


「……ヒナ様ですね。お待ちしておりました」


 出迎えてくれたのは、顔色の悪い家令の男性だった。


 彼は私の顔を見るなり、「またこんな若娘が……どうせすぐに逃げ出すだろう」という諦めの色を浮かべた。


「旦那様――シリル様は、二階の奥の部屋にいらっしゃいます。食事の時間ですが、今朝から何も口にされておりません。……気をつけてください。機嫌が悪いと、食器が飛んできますので」


「アドバイスありがとうございます。盾を持ってくればよかったかしら」


 冗談めかして言ったが、家令は笑わなかった。


 重苦しい空気の中、私は案内されて二階へと上がった。


 廊下は薄暗く、埃っぽい匂いがする。

 子供が住む家特有の、あの甘いミルクや陽だまりの匂いは一切しない。


 あるのは、冷たく乾いた、孤独の匂いだけ。


「……ここです。私はこれで」


 家令はそそくさと逃げるように去っていった。


 残された私は、重厚な扉の前に立つ。


 深呼吸を一つ。


 よし、スイッチオン。


 私は「保育士のヒナ先生」の仮面を被り、ノックをした。


「シリル様、失礼いたします。新しいお世話係のヒナと申します」


 返事はない。

 想定内だ。

 私はそっと扉を開け、中へと足を踏み入れた。


 部屋の中は、昼間だというのに薄暗かった。


 遮光カーテンが閉め切られ、部屋の隅々まで闇が支配している。


 広い部屋には、高級そうな調度品が置かれているが、その多くが壊れていた。


 引き裂かれたタペストリー。割れた花瓶。傷だらけの壁。


 そして、部屋の中央。

 天蓋付きの大きなベッドの上に、小さな影があった。


「……出てけ」


 地を這うような、低い声。

 それは8歳の子供とは思えないほど、ドス黒い殺意に満ちていた。


「初めまして、シリル様。今日からここでお世話を……」


「聞こえないのか!! 出てけと言ってるんだ!!」


 ヒュンッ!


 風切り音と共に、何かが飛んできた。


 重厚なガラスの灰皿だ。


 私は反射的に身体を捻り、それを紙一重で回避した。

 背後の壁に灰皿が激突し、ガシャンと派手な音を立てて砕け散る。


(……わぁお。いいコントロール)


 普通の令嬢なら、ここで悲鳴を上げて腰を抜かすだろう。


 でも、私は内心で感心していた。


 この暗闇の中で、正確に私の頭を狙ってきた。動体視力と身体能力が半端ない。


「危ないですねぇ。人に物を投げちゃダメですよ、メッ!」


 私は平然とした顔で、砕けた灰皿の破片をまたいだ。

 そして、ベッドの方へと歩み寄る。


「な……っ」


 攻撃を避けられたこと、そして怯えもせずに近づいてきたことに、影の主が息を呑む気配がした。


 私は、彼の顔が見える距離まで近づいて、立ち止まった。

 目が慣れてくると、その姿がはっきりと見えてきた。


 シリル・アル・フェンリル。

 8歳。

 この国の筆頭公爵家の、唯一の生き残り。


 その容姿は、息を呑むほど美しかった。


 月光を紡いだような銀色の髪。


 血のように鮮烈な、紅玉ルビーの瞳。


 (いわゆる、美少年ってやつか)


 真っ白い肌は、しかし病的に痩せ細り、目の下には濃い隈が刻まれている。


 彼は膝を抱えて座り込み、ボロボロの毛布にくるまっていた。


 まるで、傷ついた野良猫だ。

 威嚇するように牙を剥き、全身の毛を逆立てているけれど、その瞳の奥は震えている。


(……ああ。これは、重症だわ)


 保育士の勘が告げている。

 この子は、ただのワガママじゃない。

 愛されることを諦め、世界を呪い、そして何より……自分自身を一番傷つけている。


 彼の両親は、一年前に馬車の事故で亡くなったと聞いている。

 その後、親戚中をたらい回しにされ、莫大な遺産目当ての大人たちに虐げられ、最終的にこの別邸に「隔離」されたのだとか。


 酷い話。


 大人なんて敵だ。

 誰も信じない。

 近づく奴は全員、僕を傷つけるか、僕を利用しようとする奴らだ。……そう、思ってるんだろうなぁ。


 彼の赤い瞳が、そう語っているのが分かった。そうなるのも無理はないし。


「……あんた、金のために来たのか? それとも、僕をいじめに来たのか?」


 シリルが、乾いた唇で嘲笑う。


「残念だったな。ここには金目のものなんてないよ。呪われたガキ()一人いるだけだ」


「いいえ。私が欲しいのは、あなたのお金ではなく、正規のルートでいただけるお給料だけです。それと……」


 私はワゴンに乗せてきた銀のトレイを、サイドテーブルに置いた。


「シリル様と一緒に、ご飯を食べたいなと思って」


「……はぁ?」


「今日のメニューは、パンプキンスープと、ふわふわのパンです。美味しそうでしょう?」


 私はニッコリと笑った。

 シリルは、汚いものを見るような目でスープを睨みつけた。


「……毒入りか」


「まさか。私が毒見しましたけど、とっても美味しかったですよ」


「嘘だ! 前の家庭教師もそう言った! ……あいつらは、僕の食事に腐った肉を混ぜて笑っていたんだ!」


 叫び声と共に、彼は枕を投げつけてきた。

 ポスッ、と私の顔に当たる。


 痛くはない。


 でも、胸が痛い。


 腐った肉。

 たった8歳の子供に、大人がそんなことをしたのか。


 人間不信になるのも当たり前だ。彼にとって、「食事」は楽しみではなく、恐怖と屈辱の時間になってしまっている。


 この子はきっと、そんな酷いことをする人ばかりと接してきたんだろうな。


 私は枕をキャッチして、それを抱きしめたまま、彼のベッドの縁に腰掛けた。


「おい! 気安く座るな! 不敬だぞ!」


「シリル様。お腹、空いてますよね?」


「……うるさい」


「グゥって音が聞こえましたよ」


「聞こえてない! 殺すぞ!」


「はいはい、殺す前に一口だけ。……あーん。熱いですから、火傷しないようにフーフーしてから飲んでくださいね〜」


 私はスプーンにスープをすくい、彼の口元に差し出した。


 あーんなんて、8歳の子供にする事じゃないかもしれないけど、私には彼がそれを望んでいるような気がしたから。


 愛に飢えている瞳を。


 でも、彼は目を見開き、そして激昂した。


「ふざけるなッ!!」


 バシッ!


 彼の手が、私の手を払いのけた。


 スプーンが飛び、スープが私の手の甲にかかる。

 銀の食器が床に落ちて、甲高い音を立てた。


「……っ」


 シリルが、ハッとして私の手を見た。

 一瞬、彼の中に「しまった」という後悔の色が浮かぶ。


 でも、すぐにそれを塗り潰すように、彼は私を睨みつけた。


「ざまあみろ! 熱いか! ならさっさと出て行け! 二度と僕の前に顔を見せるな!」


 彼は叫び、肩で息をして、私を威嚇し続ける。


 ここで怒ったり、泣いて逃げ出したりするのが「普通」の反応だ。


 彼はそれを期待している。


 私が彼を嫌いになり、彼を見捨てることを、彼自身が望んでいるのだ。


 だから、私は。


「……あーあ。もったいないことしちゃいましたね」


 私はハンカチを取り出し、自分の手の火傷のことなど気にも留めず、床にこぼれたスープを拭き始めた。

 淡々と。静かに。


「……な、なにを……」


「床が汚れちゃいました。これじゃあ、アリさんが来ちゃいますね」


 拭き終わると、私は何事もなかったかのように立ち上がり、新しいスプーンを取り出した(保育士は予備を常備しているものだ)。


「さて、気を取り直して。……もう一回、あーん」


「……は?」


 シリルが、口をポカンと開けて固まった。

 理解できない、という顔だ。


「お前……痛くないのか? 僕がやったんだぞ? 熱かっただろ?」


「熱いですよ。ちょっとヒリヒリします」


「なら、なんで……! 怒らないんだ! 僕を殴ればいいだろ! いつもみたいに、『この悪魔!』って罵ればいいだろッ!!」


 彼は悲痛な声で叫び、私に掴みかかってきた。

 その小さな手が、私の腕を掴む。


 爪が食い込む。


 彼は泣きそうな顔で、でも涙だけは絶対に流すまいと堪えながら、私を傷つけようとしていた。


 痛い。

 物理的にも、心理的にも。


 でも、この痛みは、彼が今まで受けてきた痛みに比べれば、蚊に刺されたようなものだ。


 私は、抵抗しなかった。

 彼の爪が私の腕を引き裂くに任せて、そっと、彼を抱きしめた。


「……っ!?」


 彼の身体が、ビクリと硬直する。

 華奢な身体。

 骨と皮ばかりに痩せて、小刻みに震えている小さな身体。


「痛いの、痛いの、とんでいけ〜!」


 私は、彼の背中を優しくトントンと叩いた。

 保育園で、泣き叫ぶ子供たちをあやす時と同じリズムで。


「シリル様は、悪魔じゃありませんよ」


「……離せ! 嘘をつくな!」


「嘘じゃありません。だって、さっき私が火傷したとき、すごく悲しそうな顔をしたじゃないですか」


「し、してない!」


「してました。……貴方は、本当は誰も傷つけたくない。ただ、自分が傷つくのが怖くて、必死に守っているだけですよね」


 彼の暴れる力が、少しずつ弱まっていく。

 私の胸元で、彼の呼吸が荒くなっているのがわかる。


「大丈夫です。怖くありません。私は貴方を殴りません。罵りません。……貴方がご飯を食べて、大きくなってくれることだけが、私の望みです」


「……なんで」


 くぐもった声が漏れる。


「なんで、そんなこと言うんだ。……大人はみんな、嘘つきなのに」


「私は保育士せんせいですから」


 私は彼の頭を、そっと撫でた。

 サラサラの銀髪。

 手入れされていないけれど、本来はとても綺麗な髪だ。


「子供を守るのが、私の仕事です。……だから、安心して私に甘えてください」


 シリルは、しばらくの間、硬直していた。

 やがて、私の服をギュッと握りしめる感触がした。

 小さな肩が、震え始める。


「……う、うぅ……っ」


 堰を切ったように、嗚咽が漏れた。

 彼は私の胸に顔を埋めたまま、声を殺して泣き出した。

 ずっと溜め込んでいた毒を、すべて吐き出すように。


 私は彼が泣き止むまで、ずっと背中を撫で続けた。

 火傷がズキズキと痛むけれど、そんなことはどうでもよかった。

 ようやく、彼が「子供」に戻れた気がしたから。




 ◇◆◇




 その日を境に、シリルの態度は劇的に変わった……わけではなかった。

 さすがに長年の人間不信は、そう簡単には治らない。


 でも、「狂犬」から「警戒心の強い野良猫」くらいにはランクダウンした。


「……おい」


「はい、シリル様。なんでしょう?」


「……腹が減った。パンを持ってこい」


「はい喜んで! 今日はジャムもつけましょうね〜」


 彼は相変わらず仏頂面だし、言葉遣いも悪い。

 でも、私が運んだ食事は、毒見をしなくても食べるようになった。


 私が部屋に入っても、物を投げなくなった。


 そして何より、私の姿が見えなくなると、そわそわと私を探すようになったのだ。


 ある雷雨の夜のこと。

 激しい雷鳴に目が覚めて、私はシリルの部屋へ向かった。

 案の定、彼はベッドの隅で小さく震えていた。


「シリル様、大丈夫ですか?」


「……く、来るな! 別に、怖くなんか……ッ!」


 ドォォォォン!!


 近くに雷が落ちた瞬間、彼は「ひっ!」と悲鳴を上げて、反射的に私に抱きついた。


「……行くな」


 震える声で、彼は言った。

 私の寝間着の裾を、小さな手でギュッと掴んでいる。


「ここにいろ。……命令だ」


 命令というにはあまりにも弱々しい、懇願のような声。

 私は苦笑して、彼の隣に潜り込んだ。


「はいはい。朝まで一緒ですよ」


 私が彼の手を握ると、彼は安心したように息を吐き、私の体温を貪るようにすり寄ってきた。


 私の腕を枕にして、私の匂いを嗅ぎながら、彼はすぐに寝息を立て始めた。


 その寝顔は、天使のように無防備で、可愛らしかった。


 ああ、本当に。


 この子はただの、寂しがり屋な甘えん坊なのだ。


(……ふふ。こうしてると、ただの子供だな)


 こうして、奇妙な同居生活は続いた。

 私たちは一緒に絵本を読み、庭で花冠を作り(彼はいやいや付き合ってくれた)、一緒のベッドで眠った。


 彼は私を「ヒナ」と呼び捨てにするけれど、その響きには信頼と、独占欲が混じるようになっていた。


 この穏やかな日々が、ずっと続けばいいと思っていた。

 彼が立派な大人になって、素敵なレディを見つけて、幸せになるその日まで、見守っていたかった。




 ◇◆◇




 季節が巡り、彼が10歳になったある日。

 屋敷に、本家からの使いがやってきた。


「……契約終了?」


 家令の言葉に、私は耳を疑った。


「はい。シリル様も落ち着かれましたし、これ以上の専属世話係は不要との判断です。それに……」


 家令は言いにくそうに続けた。


「シリル様が貴女に依存しすぎていると、親族会議で問題になりまして。……次期公爵として、甘えは許されないと」


 ああ。


 そういうこと?


 私が彼を「子供」として甘やかしすぎたせいで、彼の自立を妨げていると判断されたのだ。


 それは、否定できない事実だったかもしれない。


 最近の彼は、私がいなければ着替えもしようとしないし、私の姿が見えないとすぐに癇癪を起こすようになっていたから。


「……わかりました。お暇をいただきます」


 私は覚悟を決めた。


 いつかは来る別れだ。それが少し早まっただけ。保育士って仕事に別れはつきものだ。いつかはみんな、巣立っていくから。


 それに、実家からも「母が倒れたから戻ってきてほしい」という手紙が届いていたところだった。


 潮時なのだろう。


 問題は、彼になんと伝えるかだ。


 その夜。

 私はいつものようにベッドで本を読み聞かせた後、切り出した。


「シリル様。……お話があります」


「なんだ? 新しいおやつのリクエストなら、明日まで待て。今考え中だ」


 彼は私の膝に頭を乗せ、機嫌良さそうに目を閉じている。

 この無防備な姿を見るのも、これで最後かと思うと、胸が張り裂けそうだった。


「私、明日でお屋敷を出て行きます」


 時が、止まった。


 シリルが目を開け、ゆっくりと起き上がる。

 その赤い瞳が、信じられないものを見るように揺れている。


「……は? 何言ってんの?」


「契約が終わったんです。それに、実家の母も病気で……」


「嘘だ!!」


 彼は叫んだ。

 私の肩を掴み、激しく揺さぶる。


「嫌だ! 許さない! 命令だ、ずっとここにいろ! 僕のそばにいろ!」


「シリル様……」


「金なら払う! いくらでも払う! だから……っ、僕を捨てるなよぉ! ヒナまで……僕を捨てるのか!」


 彼の目から、大粒の涙が溢れ出した。彼は泣きじゃくり、私にしがみついた。


「ヒナがいなきゃ嫌だ……! 暗いのも、寒いのも、一人は嫌だぁ……ッ!」


 胸が痛い。締め付けられそうになる。


 今すぐ「行かないよ」と言って優しく抱きしめてあげたい。


 でも、それは彼のためにならない。


 彼は公爵だ。いつまでも保育士に守られているわけにはいかない。


 子供のままではいられない。


 私は心を鬼にして、彼の涙を指で拭った。


「シリル様。……約束してください」


「嫌だ! 約束なんてしない!」


「立派な大人になってください」


 私は彼を真っ直ぐに見つめた。


「誰もが恐れる『狂犬』じゃなくて、誰もが敬う『立派な公爵様』になってください。……そうしたら、また必ず会えます」


「……本当か?」


 彼はしゃくりあげながら、私を見上げた。


「立派になったら、また僕のそばにいてくれるか? ……ずっと、一緒にてくれるか?」


「ええ、約束します」


 私は小指を差し出した。


 指切りげんまん。


 子供だましの契約。


 ごめんね。でも、今のあなたには、これが唯一の救いになると知っていたから。


「……わかった」


 彼は私の小指に、自分の小指を絡めた。

 痛いくらい強く。


「僕は、早く大人になる。誰よりも強くて、立派な公爵になる」


 その瞳に、炎が灯る。

 それは、かつての拒絶の炎ではなく、執着と決意の炎だった。


「だから、絶対に迎えに行く。……逃がさないからな、ヒナ」


 その言葉の重みに、私は気づかないふりをして微笑んだ。


「はいはい。楽しみに待っていますね、坊ちゃん」


「坊ちゃんじゃない! こ、子供扱いするな!」


「ふふ。はいはい。そうですね」





 ◇◆◇





 翌朝、私は彼が眠っている間に屋敷を後にした。


 振り返らなかった。


 私がいなくても、彼は立派な大人の男になれる気がするから。


 さようなら、シリル。


 貴方との毎日は、大変だったけれど、成長して行くあなたを見るのが、とても楽しくて幸せでした。


 どうか、幸せになってください。





 ◇◆◇





 ――それから、10年の月日が流れた。


 私は実家の借金を完済し、田舎町で小さな保育園を開いていた。


 もう28歳。アラサーだ。


 結婚もせず、仕事に生きる毎日。


 あの屋敷での記憶は、遠い夢の彼方になりつつあった。


 ドンドンドンッ!!


 激しいノックの音と共に、保育園のドアが開け放たれた。

 立っていたのは、豪奢な騎士服に身を包んだ、見上げるような長身の美青年。


 銀色の髪。


 血のように赤い瞳。


「……みつけた」


 彼は私を見るなり、獲物を見つけた猛獣のように口角を上げた。


 カツカツと近づいてくる。

 その威圧感に、私は後ずさった。


「あ、あの……どちら様でしょう……?」


 私の問いかけに、彼は不機嫌そうに眉を寄せ、そして――。


 ドンッ!


 壁に追い詰められ、逃げ場を塞がれた。


 いわゆる、壁ドンだ。


 至近距離で見下ろされる赤い瞳。


「忘れたとは言わせないぞ、ヒナ」


 低く、甘く、鼓膜を震わせるバリトンボイス。


「約束通り、立派な大人になって迎えに来てやった。……さあ、責任を取って結婚してもらおうか。ヒナ!」


「……はぇ?」


 私の間抜けな声が響く。


 彼と私の顔が接近する。そして、その吸い込まれそうなほど美しい、赤い瞳の中の揺らぎには覚えがあった。


「シリル、様……?」


「覚えててくれたんだな。ヒナ」


 え、ええっ!?


 目の前の美青年が、あのシリル!?


 こんなに大きくなって!?


 ていうか、結婚!?


「逃がさないと言っただろう? ……もう、子供扱いはさせない」


 彼は私の腰を抱き寄せると、もはや「保護者への甘え」ではない、明らかな「男の顔」で私を見下ろした。


 シリルの顔が近づく。


 整った鼻筋が触れ合いそうな距離。


 彼の熱い吐息が唇にかかり、私は思考がショート寸前だった。


 保育園の壁に縫い付けられたまま、私はパクパクと口を開閉する。


 状況が飲み込めない。


 いや、状況は理解しているけれど、脳がそれを「現実」として処理するのを拒否してる。


 だって、彼だ。


 あの、怖がってばかりで、誰彼構わず威嚇してたあのシリルだよ!?


 それが、どうしてこんな……フェロモン全開の捕食者になっているの!?


 その時だった。


 私たちの周囲から、クスクスという忍び笑いと、遠慮のない野次が飛んできたのは。


「あーっ! 先生、顔まっかー!」


「ねえねえ、あのお兄ちゃん、先生の恋人?」


「ちがうよ、押し倒してるんだよ! パパとママがやってた!」


「チューするの!? チューするの!?」


「チュー見たいからやって!!」


 遊具の陰や窓の隙間から、園児たちが目をキラキラさせてこちらを覗き見てる!


 興味津々。ニヤニヤ顔。


 子供たちは、ませてるし、容赦がない。


「わー! 先生が食べられちゃうー!」


「お兄ちゃんがんばれー!」


「ひぃぃぃ! み、みんな見ちゃダメ! 向こうに行ってなさい!」


 私は羞恥心で顔から火が出そうになり、必死に子供たちを手で追い払おうとした。


 教育上よろしくない! 刺激が強すぎる!


 シリルは、水を差されたことに不機嫌そうに眉を寄せ、子供たちをギロリと睨んだ。


「……全く、子供というやつは!」


「シ、シリル様! 睨まないでください、子供たちが泣いちゃいます!」


「泣くか? むしろ楽しんでいるように見えるが」


 シリルはフンと鼻を鳴らすと、私の腰を抱いたまま、強引に騎士たちの元へ歩き出した。


「場所を変えるぞ。……ここでは落ち着いて話もできない」


「えっ!? 仕事中なんですけど!?」


「馬車を出せ! 直ちに王都へ戻る!」


 私の抗議も虚しく、私は米俵のように小脇に抱えられ、豪華な馬車へと押し込まれてしまった。


 私は窓から身を乗り出し、ポカーンと呆気にとられていた同僚の保育士に声を掛けたた。


「すみませーん! しばらく戻れないかもー! 子供たちのこと、お願いしまーす!」


「あ、は……はーい……? お、お幸せに……?」


 困惑する同僚の背後で子供たちが「先生バイバーイ!」「あとでチュー見せてねー!」と手を振っているのが見えて、私はもう、穴があったら入りたかった。




 ◇◆◇




 馬車の中は、外界から遮断された、狭い密室。


 向かいの席には、獲物を前にした肉食獣のような目をしたシリルが座っている。


 逃げ場はない……か。


「……さて」


 シリルが、長い足を組んだ。


 それだけの動作が、絵画のように美しい。


「これで邪魔者はいない。……続きを話そうか、ヒナ」


「つ、続き……?」


「約束の話だ。『立派な公爵になったら、ずっと一緒にいてくれる』……そう言ったな?」


 彼は私の左手を取り、薬指に口づけを落とした。


 チュッ、という湿った音が、静かな車内に響く。


「ちょっ!?」


「俺は死ぬ気で努力した。領地を立て直し、社交界を制し、誰からも文句を言われない地位を築いた。……すべては、今日この日のためだ」


 彼の言葉に、胸が締め付けられる。


 10年。


 私がのんびりと田舎で子供たちと歌を歌っている間、彼はどれほどの重圧と戦ってきたのだろう。


 ただ、私との「子供だましの約束」を果たすためだけに。


(……ああ、凄いなぁ)


 その一途すぎる執念に、私は観念して、ふぅと息を吐いた。


 どうやら、ここで「人違いです」とか「既婚者です(嘘)」とか言って逃げられる相手ではなさそうだ。


 それに、そんなのは失礼だ。10年も私を想い続けてくれた彼に対して。


 私は姿勢を正し、彼を見つめ返した。


「……わかりました。とりあえず、王都まではご一緒します。でも、結婚なんて急に言われても……私、もうすぐ30ですよ? シリル様はまだ20歳で、未来があるのに……」


「年齢など関係ない。家柄も、過去も、どうでもいい」


 彼は私の言葉を遮り、身を乗り出して私の頬に触れた。


「俺が欲しいのはヒナだけだ。……あの暗闇の中で、俺を見つけてくれた、あなただけなんだ」


 その瞳にあるのは、かつての「駄々っ子」の我儘ではない。


 私は悟った。


 この子はもう、「私が守ってあげるべき子供」ではないのだと。




 ◇◆◇




 公爵邸に到着したのは、日が暮れてからだった。


 目の前にそびえ立つ屋敷を見て、私は言葉を失った。


 かつて「幽霊屋敷」と呼ばれていた蔦まみれの廃墟は、見る影もなかった。


 外壁は白く塗り直され、庭園には色とりどりの薔薇が咲き誇り、窓という窓から温かな光が漏れている。


 まるで王宮のような輝き。


「……綺麗」


「直したんだ」


 隣でシリルが短く言った。


「どこにいても光が届くようにした。暗いのは……まだ怖いから。あなたが隣にいてくれなければ」


 私の胸が、ドキンと高鳴る。


 10年前。あの日のことを、彼はまだ覚えてるんだ。


 エントランスに入ると、ズラリと並んだ使用人たちが一斉に頭を下げた。


「お帰りなさいませ、旦那様。……そして、ヒナ様」


 その先頭にいたのは、かつて私を雇ってくれた家令だった。


 彼はだいぶ白髪が増えていたけれど、私を見るなり、泣きそうな顔で微笑んだ。


「よくぞ……よくぞ戻ってくださいました。旦那様は、この日を一日千秋の思いで待っておられたのです」


 家令だけではない。


 古参のメイドたちも、みんな温かい目で私を見ている。


「未来の奥様」を見る目で。


(……外堀が、完全に埋まっている……!)


 私は冷や汗をかきながら、シリルに手を引かれて階段を登った。


 通されたのは、客室ではなかった。


 主寝室の隣にある、どう見ても「公爵夫人」が使うための豪華な部屋だった。


「……シリル様。部屋、間違えてませんか?」


「間違えていない。俺の目の届く場所にいろ」


 彼は当然のように言い放つと、ソファに私を座らせ、自らも隣に腰を下ろした。


 近い。


 太ももが触れ合いそうで、落ち着かない。


 10年前は、私が無理やり彼のベッドに潜り込んでも、彼は「狭い!」と文句を言うだけだった。


 でも今は、彼の体から発せられる熱気と、男物の香水の匂いに当てられて、私のほうが逃げ出したくなっている。


「……ヒナ」


 名前を呼ばれるだけで、背筋がゾクリとする。


「あの、シリル様。……少し、離れていただけませんか? 狭いです」


「10年前は、そっちからくっついてきたくせに」


「そ、それはシリル様が子供だったからです! 今はもう……立派な大人なんですから……」


 私が頬を少し赤らめて抗議すると、シリルは面白そうに口元を歪めた。


「へえ。……俺を『大人』だと認めるのか?」


「み、認めますよ! 身長だって私より高いし、声も低いし……」


「なら」


 ドンッ。


 シリルが私の肩をぐいと押し、私はソファの背もたれに深く押し付けられた。


 銀色の髪が、私の頬をくすぐる。


「大人の男が、想い人を部屋に連れ込んで、何をするか……分かっているんだろうな?」


 彼の指先が、私の首筋をなぞる。


 熱い。


 火傷しそうなほど熱い指先。


 心臓が爆発しそうだった。


 怖い。


 でも、逃げられない。


 彼が立ち上がり、私の腕を引き、ソファから自分へと抱き寄せる。


 彼の腕の中に閉じ込められると、身体が熱くなって、力が入らない。


 本能が警鐘を鳴らしている。


 目の前にいるのは、かつての可愛い教え子じゃない。


 私を捕食しようとしている、飢えた猛獣だ!


「シ、シリル様……っ」


「……その顔だ」


 彼は満足げに目を細めた。


「俺を子供扱いして、余裕ぶった顔をするのはもう終わりにしてくれ。……これからは、俺に翻弄されて、顔を赤くして、俺の名前だけを呼んでいればいい」


 彼が顔を寄せ、唇が触れそうになる。


 私はギュッと目を閉じた。



 ――その時。



 コンコン。


「旦那様、急ぎの決済書類が届いております」


 空気を読まない(いや、読んでくれた!)家令の声が、部屋に響いた。


 シリルがチッ、と盛大に舌打ちをする。


「……間の悪い」


 彼は不機嫌そうに髪をかき上げ、私を離し、一瞥した。


「命拾いしたな。……だが、覚悟しておけ。逃げ場なんて、この屋敷のどこにもないぞ。あなたは……ここにずっと居ていいんだ」


 そう言い残し、彼は執務室へと向かっていった。


 バタン、と扉が閉まる。


 私はソファの上にへたり込み、両手で顔を覆った。


 熱い。顔が沸騰しそうだ。


 あの子が……あんな顔をするなんて。


 あんな、とろけるような甘い声で、私を脅すなんて。


「……どうしよう。私、ときめいちゃった……?」


 認めたくない。


 だって10歳差だ。元教え子だ。


 倫理的にアウトだ。


 でも、さっきの彼の熱い瞳が、私の網膜に焼き付いて離れない。


 私の「保護者」としての防壁は、音を立てて崩れ始めていた。




 ◇◆◇




 それからの日々は、まさに「攻防戦」だった。


 シリルは、宰相としての激務をこなしながら、その合間を縫って、猛烈なアプローチを仕掛けてきた。


 朝、私が起きると、枕元には山盛りの花束が置かれている。「庭師に切らせた」と言っていたが、朝露で濡れた彼の袖を見てしまった。


 昼、庭を散歩していると、いつの間にか後ろにいて、「疲れた」と言って私の肩に頭を乗せてくる。休憩という名目の充電らしい。


 夜、寝ようとすると、「眠れない」と言って私の部屋にやってくる。これはさすがに全力で追い返した。


 彼は粘り強く、そして楽しそうだった。


 私が困惑し、照れる反応を見るのが嬉しいようだった。


 世話ばかり焼かれて、昔とまるで立場が逆転しちゃってる。まるで私の方が、子供扱いされて甘やかされてるみたい。


 そんな彼のアプローチもあってか私も、少しずつ、彼への認識を変えざるを得なくなっていた。


 ある日の午後。


 私は執務室にお茶を運ぶついでに、彼が仕事をしている姿をこっそり観察していた。


 机の上には、山のような書類。


 彼はそれを驚くべき速さで読み込み、次々とサインをしていく。


 部下たちへの指示も的確だ。


 かつてのように感情的に怒鳴り散らすことはない。


 冷静で、理路整然とした言葉で、誰もが納得するような判断を下していく。


(……すごい)


 素直に、そう思った。


 10年前、「大人になる」と約束してくれた少年は、本当に、誰よりも立派な大人になっていた。


 私の知らない10年間で、彼は血の滲むような努力をして、ここまで上り詰めたんだと思う。


 ただ、私を迎えに来るために。私との約束を果たすために。


(……ずるいなぁ)


 そんな一途な想いを見せられて、心が動かないわけがない。


 私はお盆を持ったまま、立ち尽くしていた。


 すると、ふいにシリルが顔を上げ、目が合った。


 仕事モードの厳しい表情が、一瞬で和らぐ。


「……ヒナか。そこにつっ立ってないで、こっちへ来い」


「お仕事中でしょう? お茶を置いたら失礼します」


「休憩だ。今決めた」


 彼はペンを置き、手招きをした。


 私が近づくと、彼は私の腰に手を回し、自分の膝の上に座らせようとした。


「ちょっ、シリル様!?」


「じっとしてろ。……5分だけだ」


 彼は私の背中に額を押し付け、深いため息をついた。


「……疲れた」


 弱音?


 完璧な公爵様が、私にだけ見せる、無防備な素顔。


「貴族共の相手は疲れる。腹の探り合いばかりで、反吐が出る」


「……大変なんですね」


「ああ。……だが、あなたの匂いを嗅ぐと、浄化される」


 彼は私の髪に顔を埋め、深く息を吸い込んだ。


 その仕草は、10年前、雷に怯えて私にしがみついていた頃と変わらない。


 でも、背中に感じる彼の体温は、もう子供のそれではない。


 広く逞しい肩幅と、私を包み込む大きな腕。


 私は、拒絶できなかった。


 むしろ、自然と私の手は彼の髪に伸びていた。


「……よしよし。お疲れ様です、シリル様」


 サラサラの銀髪を撫でる。

 昔よりも少し硬くなった髪質。でも、触り心地は変わらない。


「……ん」


 彼が心地よさそうに喉を鳴らす。


 まるで、飼い主に甘える大型犬だ。


(……変わったようで、変わってないのね)


 強くて、キラキラとしてる公爵様。


 でも、その根底には、まだあの頃の「寂しがり屋のシリル」がいる。


 そして私は、そんな彼を……愛おしいと思ってしまっている。


 保護者としての「可愛い」ではない。


 私を必要としてくれる一人の男性としての、「愛おしい」という感情。


 私の理性は、もう風前の灯火だった。





 ◇◆◇





 シリルが主催する夜会の日。


「パートナーはあなたしかいない」と押し切られ、私は分不相応なドレスを着せられて会場にいた。


 着飾った紳士淑女たちの笑い声。


 シリルは挨拶回りで忙しく、私は一人、佇んでいた。彼は一緒に、と言ったが、私が断った。


 私みたいな年上女が、彼にエスコートされて歩くなんて、彼の評判が落ちると思ったから。


「あら、あの方が公爵様の……?」


「随分と年上に見えますわね」


「元使用人だとか……身の程知らずな」


「公爵様も物好きね。あんな地味な年増女を」


 扇子の陰から聞こえてくる、冷ややかな陰口。


   予想はしていた。


 若く美しい公爵様が、10歳も年上の、しかも平民の元使用人を連れて歩いているのだ。


 28歳。アラサーなんて言うけど、日本ではまだまだ色気たっぷりで、脂ののった良い年齢だ。私はそう思う。


 けど、この世界では、こういう場では、私はやはり年増なんだなぁ。


 好奇と侮蔑の目で見られるのは当然だ。


(……わかってたことじゃない)


 私はグラスを握りしめ、背筋を伸ばした。


 ここで俯いてしまったら、シリルの顔に泥を塗ることになる。


 私は「狂犬公爵」の元専属保育士だ。


 これくらいの悪意、どうってことない。



 その時、酒臭い息を吐く一人の男が、私の前に立ちはだかった。


「おい、そこの。お前が噂の『公爵の愛人』か?」


 恰幅の良い、中年の貴族だった。


 脂ぎった顔で、私を値踏みするようにジロジロと見ている。


「随分ととうが立っているな。フェンリル公爵も、こんなのが趣味とは落ちたものだ」


 はあ? 若い子に言われるのは仕方ないとしても、私より二回りは年上そうなあなたには言われたくないですけど!?


「……失礼ですが、道を空けていただけますか」


「はんっ、平民風情が生意気な。公爵がいない間くらい、俺の相手をしろよ。……金なら弾んでやるぞ?」


 男が私の腕を掴んだ。


 ヌメリとした嫌な感触。


 恐怖よりも先に、生理的な嫌悪感が走る。不快。ただただ気色悪い。


「離してください!」


「うるさい! 公爵の愛人風情が、貞淑ぶるな! どうせ夜の相手しか能がないんだろうが!」


 男が無理やり私を引き寄せようとした、その瞬間。


 ――ピリッ。


 会場内に、肌を刺すような鋭い殺気が満ちる。


 男の顔が引きつり、私の腕を掴んでいた手が小刻みに震えだす。


「おい」


 地獄の底から響くような、低く、絶対的な声。


「その人に、薄汚い手で触れるな」


 男が弾かれたように手を離し、振り返る。


 無表情。


 能面のように感情が削ぎ落とされた顔。


 けれど、その赤い瞳だけが、業火のように燃え盛っていた。


「ひっ、こ、公爵閣下……! ち、違います、私はただ、挨拶を……!」


「挨拶? この国の貴族は、淑女の腕を力任せに掴むのが挨拶なのか?」


 シリルが一歩踏み出す。


 それだけで、男は腰を抜かして床にへたり込んだ。


「き、聞こえませんでしたか? この女は、ただの元使用人ですよね……お遊びの相手なら少しくらい……」


「黙れ」


 シリルの声が、男の言い訳を両断した。


「元使用人ではない。『未来の公爵夫人』だ」


 会場がどよめいた。


 シリルは周囲の視線を一顧だにせず、床に這いつくばる男を見下ろした。


「この女性は、俺が世界で唯一、敬愛し、渇望し、10年かけてようやく手に入れた至宝だ。……彼女を侮辱することは、フェンリル公爵家への宣戦布告とみなす」


 公爵からの宣告。


 男は顔面蒼白になり、ガチガチと歯を鳴らして震えている。


「失せろ。……二度と俺と彼女の視界に入るな」


 男は悲鳴を上げることもできず、這うようにして逃げ出した。


 静まり返る会場。


 シリルは、ふぅと息を吐いて殺気を消すと、私の方へ向き直った。


 その瞬間、修羅のような顔が崩れ、泣き出しそうな子供の顔になった。


「ヒナ……! すまない、怪我はないか!?」


 彼は慌てて私の手を調べ、私の腕に赤い跡がついているのを見て、顔を歪めた。


「くそっ……! やはり、腕くらいへし折っておくべきだったか……! 今からでも……」


「シリル様、大丈夫です。痛くありません」


「大丈夫なわけがない! 俺が目を離したばかりに……! 怖かっただろう、すまない……!」


 彼は震える手で、私を強く抱きしめた。


 その体は、怒りと、それ以上に「私を失うかもしれない恐怖」で小刻みに震えていた。


 ――ああ。私って、もう、彼を守る存在から、守られる存在に変わってるんだ。


 その時、私の中で何かが弾けた。


 彼は変わった。強くなった。


 誰もが恐れる立派な公爵になった。


 でも、根っこの部分は変わっていない。


 彼はまだ、私の前では「私がいなければ泣いてしまう、寂しがり屋のシリル」なのだ。


 そして私は、そんな彼を……どうしようもなく愛おしいと思ってしまっている。


 この震える背中を支えてあげられるのは、世界で私しかいない。


 そして、私の平穏な人生をめちゃくちゃにして、こんなにもドキドキさせてくれるのも、世界で彼しかいない。


 もうやめた。


 彼の真っ直ぐな気持ちに、元教え子だから。なんて言い訳をして、目を逸らすのは。


 自分のときめいてしまったこの気持ちに、嘘を重ねて蓋をしたくない。


 彼はもう、立派な一人の男性だから。いつまでも彼を子供扱いしていたら……彼のこれまでの10年に失礼だ。


「……シリル様」


 私は、彼の背中に手を回した。


 公衆の面前なんてどうでもいい。年の差なんてどうでもいい。


 今はただ、この愛おしい人を安心させてあげたかった。


「ありがとう。……助けてくれて、嬉しかったです」


「ヒナ……」


「かっこよかったです。……あなたは、私の、最高のヒーローでした」


 私が素直に伝えると、彼は驚いたように目を見開き、それから耳まで真っ赤にして、私の肩に顔を埋めた。


「……反則だ。そんなこと言われたら、もっと好きになってしまう」


「え?」


「帰るぞ。……今すぐだ。二人きりになりたい」


 彼は私を横抱きに抱え上げた。


 会場中の令嬢たちが「キャーッ!」と黄色い悲鳴を上げる中、彼は大股で出口へと向かう。


 私は彼の首に腕を回し、その胸元に顔を埋めた。


 心臓の音が、トクトクと速いリズムを刻んでいる。


 それが、私への愛の音だと分かってしまう。


 私の負けだ。完敗だ。


 この狂犬公爵様に、私は「飼い慣らされて」しまったのだ。





 ◇◆◇





 屋敷に戻った私たちは、バルコニーに出た。

 夜風が心地よく、庭園の薔薇の香りを運んでくる。


「……本当に、いいのか?」


 月明かりの下、シリルが私を見つめる。

 その瞳は熱く潤んでいて、欲望と、それ以上の不安が混じっていた。


「嫌なら、拒んでくれ。……俺は、あなたを無理やり縛りつけたくはない」


「……」


 ここに来て、理性を総動員して紳士ぶる彼が、たまらなく愛おしい。


 10年前、私がいなくなるとソワソワしていた少年と重ねると、成長したなぁと感じる。


 私は微笑んで、彼の手を取り、自分の頬に寄せた。


「嫌じゃありません。……私、シリル様のことが好きです」


「……ッ」


「子供のシリル様も、大人のシリル様も。……全部、愛しています」


 私が告白した瞬間、彼が息を呑むのが分かった。

 そして、壊れ物を扱うように優しく、私を抱きしめた。


「……ありがとう。愛している、ヒナ。……一生、大事にする」


 降ってくるキスは、今までで一番甘く、深く、そして優しいものだった。


 もう、子供扱いはできない。

 彼は私を、一人の女性として愛し、求め、そして私もそれに応えた。


 私の「保育士」としての役割は終わった。

 これからは、「シリル・アル・フェンリルの妻」としての、新しい契約が始まるのだ。




 ◇◆◇




 数年後。

 公爵邸の庭園には、子供たちの笑い声が響いていた。


「コラ! シリル! また野菜を残して!」


「……ピーマンは嫌いだと言っただろう」


「ダメ! 子供たちが見てるんだから! パパがそんなことでどうするの!」


 芝生の上で、私は夫であるシリルを叱りつけていた。


 その周りでは、私たちによく似た銀髪の子供たちが、キャッキャと走り回っている。


「……まったく。いつまで経っても手がかかるんだから」


 私が呆れてため息をつくと、シリルが不意に私の手を握った。


「手がかかる方が、お前は好きだろう?」


「……なっ」


「俺は一生、お前の『手のかかる子供』でいてやる。だから……」


 彼は子供たちに見えない角度で、私の耳元にキスをした。


「……一生、俺だけを見ていろ。ヒナ」


 甘く、低い囁き。

 私は顔を真っ赤にして、彼の肩をぺちんと叩いた。


「……バカ」


 狂犬公爵は、今やすっかり「愛妻家」の猛獣に成り下がってて。


 あの頃の、怖がりだった小さな公爵様は、今は私よりもずっと大きくなって、優しい父であり、夫になった。


 嫉妬深くて色々と大変なこともあるけど、そういうとこも愛おしい。


 この先もきっと、大変なことが色々あるんだろうけど、彼となら乗り越えていける。


「ママー! 保育園のお仕事行かなくていいのー!?」


 シリルは、孤児たちを集め、孤児院を作った。


 自分のように、迷える子供が苦しまないため。


 自分を救ってくれた、優しい保育士に、多くの子供を救って欲しいという願いを込めて。そう言っていた。


 孤児院という名は使いたくないとシリルは言った。


 私も賛成した。


 だから、わんぱくワンちゃん保育園と名付けた。


 かつての狂犬公爵様を少しだけもじって。


「今から行くよー!」


 公爵夫人が、保育園で働いてるなんて前代未聞だろう。


 でも、良い。


 それを認めてくれるシリルだからこそ、私は一緒にいられる。私はそういう人を選んだ。そういう人に選ばれた。


 だから私は、今日もわんぱくな暴れん坊たちとの戦いに出向くのだ!


「さぁ…! 今日も元気に怪獣たちを保育しにいきますか!」


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【スカッとしたい方へ】

『その聖水、ただの麻薬ですよね?』

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『冷徹公爵様の心の声 (テロップ)がピンク色で大暴走している件について』

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『触れるもの全てを殺す『死神公爵』様、なぜか私だけ触れても平気なようです』

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他にも投稿済みの短編がございますので、作者マイページからお好みのものを見つけてご覧いただけると幸いです。

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