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婚約破棄って軽く仰いますけれど、私に何の非があると?

作者: きつね
掲載日:2025/10/04

頭を空っぽにして読める婚約破棄モノも好きですが、たまにはこういうものも読みたくて。

 数え切れないほどのシャンデリアがきらきらと輝き、軽やかなワルツが流れている。会が始まってしばらく経ち、王族や高位貴族などへの挨拶も一通り終わり、どの者もにこやかに、ダンスや歓談に精を出していた。

 今日の会は普段と異なるところが一つある。年若い者が多い点だ。

 今日の主役は王立学園の卒業生達であった。

 王立学園とは、王族も含めた王国中の全ての貴族子女と、望んで試験を受け合格した平民が通う学び舎である。これからの国や領地を担う人材を育てるために、様々なことを学ぶ場として作られていた。正式なお披露目前の社交の練習の場として用いられたり、他家やその子供の動向を探ったりと、大人の思惑は多々あるものの、子供達自身は勉学に青春に勤しむ三年間を送るのだ。

 本日学園を卒業した彼らは、これからの正式な社交のため、両親や寄り親、婚約者に付いて歩いて人脈を広げたり、逆に学園での縁を武器に、自身や親を売り込んだりと笑顔ながらも忙しない。

 今年は第一王子が卒業する年だということもあり、派閥の者と少しでも縁を深めようと例年よりも多くの者がこのパーティーに参加していた。

 そんな、表面上だけは穏やかな会場に、突然の怒声が響き渡った。


「エリザベッタ・ザンデグー、お前のサーラへの度重なる暴言、暴力は許し難い! お前との婚約を破棄させてもらう!」


 明らかに場に似つかわしくない大声と、婚約破棄という、その内容に、会場中が水を打ったように静まり返った。不快感と好奇心が綯い交ぜになった視線が声の主へ向かう。そして、その視線は驚き一色に染まることになった。


「殿下、今、何とおっしゃいました? 私との婚約を破棄する、と聞こえたのですが……私の聞き間違いでしょうか?」

「そんなわけないだろう! 自分より立場の弱い者を虐げるような輩を王族に連ねるなどできるものか! お前との婚約は破棄するぞ、エリーザ!!」


 ざわざわと観衆が騒ぐ中、義憤で顔を染めた青年は、怒りをあらわにがなりたてる。そのすぐそば、淡い金髪の少女が王子に腕を絡ませ身を寄せた。胸で腕を挟み込むようにした少女は、さらに半歩王子に寄り、相対する黒髪の少女から身を隠す。

 どこからか、ふわりと甘ったるい匂いが漂った。

 隠れる彼女には見向きもせず、少女は落ち着いた声で問いかける。しかし、扇を持つ華奢な手はきつく握りしめられ、動揺を表していた。


「陛下もご存知なのですか? 家同士の契約ですもの、私達だけで勝手に破棄することは……」

「お前の悪行を知れば、父上も反対するはずがない! サーラ、嫌なことを思い出させてすまないが、あいつがどんなに酷い女か、周りの皆に聞いてもらおう」


 義憤に酔い、熱に浮かされた王子には、冷静な正論は届かない。王子の周囲の青年、学園の頃からの取り巻き達も、王子と似たギラギラとした目で大きく頷いていた。

 王子の背後では、そっと年嵩の侍従が目配せを送り、王への報告に行かせたようだ。この会の主役が卒業生達であるためか、表立って動くことはないようだが、いつでも止められる位置に近衛達が動いたのがエリーザの目には見えた。

 音が消えた会場で、小柄な少女は蠱惑的な匂いを振りまき、バルトロに擦り寄る。


「バルトロ様ぁ、サーラ、怖ぁい。きゃっ、エリーザ様が、またサーラのこと、睨みますぅ」

「よしよし、サーラ、俺が守ってあげるからね」


 近い距離で親しすぎるやり取りを交わす二人に、エリーザと呼ばれた少女を始め、周囲の者は不快そうな面持ちだ。扇で口元を隠し、わずかに眉間に皺がよる。

 もしここが私的な場で、婚約者相手だとしてもありえない距離感である。貴族よりも男女の距離感を気にしない平民同士でさえ、まだ節度があるだろう。


「さ、どんなことをされたか教えてくれ」

「はぁい。まず、エリーザ様はサーラに意地悪を言うんです。サーラの話し方とか仕草とかが変だって」

「人の言動に対してとやかく言うなんて、マナーがなっていないな。サーラ、可哀想に」


 言われた少女は一つため息をついた。

 扇をおろし、一度、バルトロと視線を絡ませる。


「バルトロメオ殿下、恐れながら申し上げます。判断なさるなら双方の意見を聞いてからにしてくださいませ。スタラーチェ男爵令嬢、まず、私はあなたに愛称で呼ぶことを許した覚えはありません。百歩譲って学園内だけならまだしも、公的な場でそのようなことをすると良識を疑われましてよ」


 普段は愛称呼びを許されている親しい友人でさえ、大規模な舞踏会のような公の会では、身分に従い丁寧に話すものだ。友人同士の気軽なお茶会とは意味が違う。今日も王家主催の正式な会であり、身分に応じた行動が求められるのは言うまでもない。

 友人同士や婚約者同士で、わざと親しさを示すために愛称で呼び合うことはあるかもしれないが、公的な場では無作法とされる上、サーラはエリーザと親しくもない。さらに、王族に対しては不敬の一言である。


「上位の方に対しては身分を弁え行動なさい。殿下は馴れ馴れしく接していい方ではありません。あと、一人称や間延びした口調も気をつけた方がよろしくてよ。言葉遣いも一度きちんとした方に習い直した方がいいわ」


 正論が投げナイフのように飛んでいく。

 周囲も頷く者が多い。学園で共に学んだ者だけでなく、この僅かな時間しかサーラを見ていない大人達でさえ、眉をひそめるような言動が多いためだろう。

 今日の会は、学園を卒業し、大人の世界に足を踏み入れる若者達を言祝ぐものである。大人としての当たり前の振る舞いができていないサーラが、周囲から疎まれるのは当然のことだった。

 そして、そんなサーラを庇うバルトロに向けられる視線も当然優しいものではない。


「仕草の話はマナーの授業でご一緒したときのことかしら? 変とは言っていないけれど、誤解させたのなら謝るわ。ただ、何かを食べている際に大きくお口を開けて笑ったり、ティーセットで音を立てたり、歩くときに姿勢が崩れたりしていたから、もう少し練習なさった方がよろしくてよ」

「バルトロ様ぁ、エリーザ様はこうやっていっつもサーラをバカにするんです……。サーラ悲しい……」


 あまりに切れ味よく言われ、耐えきれなかったようで王子に泣きついた。指摘されたことを一切直していない様はいっそ見事なほどである。

 再び甘い香りが漂った。盛りを過ぎた花のような、熟れ過ぎた果実のようなそれに、周囲は僅かに距離をとる。嗜みとして香水を身につけている者は多いだろうに、なぜか少女から漂う匂いからは、べっとりと甘く絡みつくようなものを感じたからだ。しかし、匂いの中心近くにいるだろう王子達は全く気付いていないようだった。


「エリーザ、サーラはまだ学び始めてまだ一年しか経っていないんだ。細かく指摘をしても辛いだけだろう」

「まだ、ではなく、もう、一年も経つのです。学園に編入し、卒業した以上、いつまでも庶民の頃のままの感覚でいられては、殿下もお困りでしょう? ここはもう、間違いの許される学園ではないのですから。殿下が公に無礼を許してしまうと、王族をそのように扱っても良いと勘違いする者が出る恐れがございます」


 後ろで王子の侍従が微かに頷く。王族や妃教育の指導役をすることもある彼に同意を示されたことで、エリーザも内心安堵した。


「それに、何かできていないことがあると困るのは彼女自身ですわ。これから公務でお忙しくなる殿下が、常に庇って差し上げるわけにもいきませんもの。彼女を守れるのは彼女自身のみ。自分を守る鎧は、彼女自身が身につけるしかないと愚考しますわ」


 語られる正論に、バルトロもわずかに勢いを失った。確かに、エリーザの言うことも一理あるような、と頷きかけた瞬間、鼻先を甘い香りが通り抜ける。

 潤んだ瞳でバルトロを見上げるサーラを見て、再びエリーザへの怒りが湧き上がった。


「そうだとしても、言い方というものもあるだろう!」


 それまでは黙って控えていたが、バルトロの肩に静かに手を置き、後ろから大柄な青年が進み出た。


「ザンデグー侯爵令嬢、サーラ嬢は既に一生懸命に努力を重ねてきている。生まれの不利に腐ることなく重ねた努力こそ、認められるべきとは思わないか?」

「御機嫌よう、フェルギー公爵令息。先日お勧めいただいた歴史書、大変興味深く読ませていただきましたわ。ゆっくり解釈についてお話できる場なら嬉しかったのですが……」


 エリーザは軽く膝を曲げ、カーテシーと共に相手の立場に敬意を示す。しかし、小さく、零れてしまった溜息をつき、それから真っ直ぐにその目を見つめた。


「努力の過程を認めようという姿勢、素晴らしいものと存じます。特に勉学など、実を結ぶまで時間がかかるものもありますから」


 バルトロやサーラのときと異なり、頷き、相手の言に同意することはあれど、それでも厳しい顔は変わらない。


「ただ、礼儀作法に関しては異なると思いますわ。私達は本日より大人の一員、マナーとは、他者への敬意をもち、お互いが気持ちよく過ごすためのものですから。いくら努力しようと、不快に思う方がいるのでしたら、それは認められるべきではないのでは? それに、残念ながら醜聞というものは一度出回ると中々消えてなくならないものですわ」


 言葉の終わりと共に、エリーザはわずかに目を伏せた。

 醜聞は消えるまで酷く時間がかかる。内容が刺激的なものであれば尚更だ。自分に非のないものであろうと、婚約者である王族に公的な場で婚約破棄を言い渡されるなど、他の貴族達にとってはよい話のタネである。

 鮮やかな緑のドレスが褪せ、白と黒に幻視する。祈りと共に生きる道しか浮かばず、婚約破棄後の選択肢の狭さに、エリーザの心は沈んでいた。

 青年はバルトロ達より遥かに正しい言葉に嘆息し、古くからの知己である彼女に問いかける。


「もう、助力はいただけないのか、エリザベッタ嬢」

「生憎と私なぞでは届きませんもの、長年の友であるマヌエーレ様より、是非に」


 彼女には、届いていた。

 バルトロの従兄弟であり、幼き日からの友人であるマヌエーレ・フェルギーが、何度もバルトロを諌めていたこと。徐々にサーラにのめり込むバルトロに、エリーザのことを考えるように、と諭してくれたこと。サーラが流した悪い噂を否定してくれていたこと。

 今日のことに関してもそうだ。公的な会にも関わらず、婚約者ではない女性にドレスを送り、エスコートをすると言い放ったバルトロに対して、それはおかしいとはっきり伝えてくれていた。周囲の、バルトロ同様熱に浮かされた様子の学友と異なり、真に彼を思い、諫言していたのに、バルトロ本人には最後まで届くことはなかったのだ。

 マヌエーレはそっと首を振った。


「残念ながら、嵐の中心には、どのような言葉も届かないようだ」

「そうでしたか……。被害少なく、通り過ぎてくれるといいのですが」

「軽く、早く過ぎ去るといいのだが、な」

「……史書の解釈については、雲が去ったらお話いたしましょう」

「楽しみにしている。復興に煩わされないことを祈ろう」


 軽く礼をしたエリーザへ笑みを返し、マヌエーレはバルトロへ一度場を辞す旨を伝えて、人混みへ消えた。

 味方をしてもらえると思っていたのに当てが外れたのか、サーラは膨れ、再度バルトロに訴える。


「ね、バルトロ様、エリーザ様はいっつもこうなんです……。ねちねちねちねち意地悪を言って……バルトロ様は優しいからだぁい好きです」

「俺も君が愛おしいよ。いつでも守ってあげるからね」


 見つめ合う二人に、エリーザを始め、周囲の者は冷たい視線を向けるのみだ。ひそ、と隣の者に何事かを呟く者すら現れ始めている。

 遠巻きに見つめる中に、王妃とのお茶会で控えていた者や妃教育で会った者が目に付いた。両陛下から報告の任を受けた者達だろう。厳しい顔で二人を見つめる姿に、この後告げられる報告が優しいものではないことが見て取れた。

 サーラしか見えていないバルトロにも、バルトロしか見る気のないサーラにも、その声も視線も届かない。彼らでは、国をあまねく照らす太陽にも、夜闇に嘆く者を救う月にもなることはできないだろう。

 バルトロからの優しい言葉で、勇気を振り絞ったかのように、サーラは続ける。


「あとは、エリーザ様はお友達に命令して虐めてくるんです。放課後に何人もに囲まれて、男の人達とは話しちゃダメだって言われました。みんなサーラの大切なお友達なのに……」


 それはそうだろう。卒業生ともなれば婚約者が決まっていない者の方が珍しく、また、入学より前から定まっている者も多いのだ。耳にするサーラの『友人』達とて、どの者にも既に婚約者が定められている。適切な距離を保つのはマナーとして当然のことである。


「命じてなどいませんし、そも、あなたの態度が問題なのではなくて? 婚約関係にない殿方と二人きりで話したり触れ合ったりしていて、正直なところ、目を疑いましたわ」


 家同士の契約とはいえ、結婚し一生を共にするのは令嬢達自身である。婚約者のいないサーラが、自分の婚約者と親しげにしていて困らない令嬢はいない。

 複数の男性と親密な関係にあれば、それぞれの婚約者が困り、苦情を申し立てに行っても、何ら不思議ではない。。


「そんな! サーラ、何も変なことはしてないのに……。お友達とお話するのって、そんなにダメなことですか、バルトロ様ぁ……?」

「多くの者と親しくなれるのは、サーラの美点だと思うが。あぁ、泣くな、可愛い顔が台無しになってしまう。……よくこんなにも虐げられるな、哀れだろうに」


 ほろりと零れたサーラの涙を拭い、バルトロはエリーザを睨みつけた。エリーザは扇で口元を隠して首を傾げ、バルトロを見返す。先程までと異なり、逸らさずに合わせられた瞳は、内に秘めた訴えを表していた。

 サーラを庇うバルトロに、周囲の貴族達は近くの者同士、小さな声で言葉を交わす。殿下はお心が広いのだなぁ、然り然り、大輪の薔薇より野花を好まれるのかもしれぬ、我が家の花にも目を止めて下さると有難いのだが、などと言い合い、潜み笑いを漏らしている。バルトロの注意を引かぬよう、囁くような声ではあるが、内容としては笑えない。王家の侍従や侍女達が会場中に目を光らせていても、ざわめきが収まることはない。

 拭われても拭われても止まらないサーラの涙と嗚咽に、怒りを覚えたのは、バルトロだけではなかった。


「殿下の婚約者たるもの、他の女性の範となるように努めるべきではありませんか! ザンデグー嬢、あなたの発言は冷徹なものばかりですが、サーラ嬢の何を知っているというのです? 相手の立場を慮った発言を心がけるべきでは!?」


 先程のマヌエーレ同様にバルトロの側に控えていた青年が、目をギラギラ光らせ、怒声を上げた。会場中に響きそうな大声に、周囲には再び静寂が戻る。

 怒鳴られたエリーザは、鋭く扇を閉じ、一つ息を吸った。


「クローチェ伯爵令息、まずはご自身の立場をお考えになっては? 他者を理解しようと努めるのはご立派ですが、足元が疎かでは大切なことを掴み損ねましてよ。相手の立場を慮れと仰るなら、まずはご自身が範を示してくださる?」


 分を弁えぬ無礼者には厳しく返し、その上で続ける。


「もしあなたの仰るように、スタラーチェ男爵令嬢に何か事情があるとしても、貴族として当然のマナーを無視するほどのものかしら。実際、彼女と親しくされていた殿方から、婚約破棄を切り出されたご令嬢もいらっしゃいますのよ。それでも、あなたはスタラーチェ男爵令嬢の立場のみを慮れと仰いますの?」

「……泣くほど困っている相手を突き放すのが、正解とは思えませんが」


 絞り出すように告げられた言葉に、エリーザは溜息をついた。


「私は殿下の婚約者ですもの、どなたかだけに肩入れすることはできません。当然、双方の意見を聞き、きちんと第三者に確認をした上で助言なり仲裁なり、行動をしています。私と関わりのあったどなたに聞いてくださってもよろしくてよ。それでもまだ、相手の立場に慮れていないと?」


 エリーザへの怒りで震え、しかし、言葉はないらしく、真っ赤な顔をして睨みつけた。

 周囲ではこのやり取りに、ただただ顛末を眺める者や、冷静に成り行きを見つめる者だけではなく、先程まで話していたバルトロの派閥の貴族から距離をとる者、エリーザの今後を気にする者なども現れ始めた。エリーザの一貫した主張には、正当性しか見られない。公の場での騒動である故、エリーザの瑕疵にもなりうるが、それ以上にバルトロに対する疑問の目が向けられ始めていた。

 そんな会場の様子は見えないのだろう。エリーザの堪えていなさそうな様子に痺れを切らしたようで、サーラは指折り数え、エリーザにされたという『悪行』をさらに言い連ねる。


「でも、でも、エリーザ様には他にも意地悪をされました……。サーラのドレスを汚したり、ノートを取り上げたり、廊下で足をひっかけて転ばせたり、叩いてきたり、仲間はずれにしたりしてきたんです」

「……あなた、よくそんなことが言えますわね」


 怒りに震える少女が、エリーザの横から進み出た。


「お話の邪魔をする無作法、申し訳ありません。でも、黙ってはいられませんわ。あのとき、スタラーチェ男爵令嬢のドレスが汚れてしまったのは、あなたが前を見ずに歩いていてエリザベッタ様にぶつかったからでしょう。エリザベッタ様はすぐに謝罪もされていたし、弁償も申し出てらしたわよね」


 エリーザの級友である彼女は、サーラの言い様に我慢がきかなかったようだ。そして、一人が出たのを皮切りに、ぽつり、ぽつりと卒業生達が呟き始める。


「ノートに関しても、インクで汚してしまったから、と同じノートを数冊、お詫びで渡してらしたわよね」

「ええ、私も見ましたわ。学習していた範囲を確認して、わざわざご自身のノートから写してから渡して差し上げてましたもの」

「え? まさか、その、範囲の確認のためにノートをお借りしていたのを、取り上げたと仰っているのかしら」

「転ばせたというのも、言い掛かりでしてよ。ザンデグー様の横をスタラーチェ男爵令嬢が通った際に、わざと転んだフリをしていました。ザンデグー様は数歩離れてらしたのに、どのようにしたら転ばせることができたのか不思議でたまりませんわ」

「ドレスの件があったから、ザンデグー様、周囲にはよく気をつけてらしたもの。スタラーチェ男爵令嬢と、そんなに近付くはずないですわ」


 口々に呟く声は、近くの友人と話す体裁を取っていたが、声量的に、サーラ達にまで筒抜けだった。

 それまでは固い表情が多かったエリーザも、ほんのり唇を綻ばせる。

 ごく近くだけではなく、会場の至る所で二人の話が交わされているようで、先程までの静けさはどこへやら、あちらこちらで囁きとは呼べない声が上がっていた。その中で、サーラの挙げた『悪行』が耳に届き、エリーザはふと呟く。


「叩いた、というのは記憶にないのですが……」


 その言葉で思い出したように、最初に声を上げた少女が言う。


「まさかとは思いますが、虫を払っていただいたのを、叩いたと言っているのではないですよね? 教室に蜂が入ってきた際に、スタラーチェ男爵令嬢の背中に留まってしまって……。それを、エリザベッタ様が危険を顧みずに払ってくださったのに、まさか、あれのことではないですわね?」


 まさか、と言ってはいるが、疑いではなく確信的な声である。

 あまりの言いがかりに周囲もざわめきを増すが、サーラはふい、と視線を逸らし、バルトロの腕に抱きついた。立ち上る香水の匂いに、バルトロは意識を奪われ、ぼんやりとサーラを引き寄せる。彼にも届いたはずの級友の話は、全て抜け落ちてしまっていた。


「仲間はずれ、というのは何のことでしょうね」

「スタラーチェ男爵令嬢がエリザベッタ様と関わる機会なんて、授業や教室くらいしかないわよね」

「ええ、個人的なお茶会に呼ぶほど親しくはないでしょうし……」


 近くで零れた声に、バルトロが反応した。


「エリーザ、サーラのことをお茶会に誘っていなかっただろう? 参加したがっているから招待してやれとあれだけ伝えたのに、一人だけ呼ばないなど、不憫ではないか」

「私が、スタラーチェ男爵令嬢を……?」


 エリーザは唇に扇を軽く触れさせ、首を傾げる。

 殿下から頼まれた……? と声なく呟いたところで、は、と目を見張った。


「……恐れながら、薔薇の会のことを仰っておりますか? 殿下のお召でしたので侍従と様々な前例を確認したのですが……ご存知の通り、あの会は何代も前の国王陛下が学園生だった頃から、王族が伯爵家以上の子息子女を招いて行うと定められたお茶会でして……。侯爵令嬢の身である私では、慣例を曲げ、男爵家の方を招待することは叶いませんでした。力及ばず、申し訳ありません」


 頭を下げたエリーザに、ざわ、と喧騒が一層増す。

 どう考えても無理を通そうとしたのはバルトロである。


「ただ、参加者リストを確認していただいた通り、子爵家以下の者はみな、招待しておりません。恐らく、スタラーチェ男爵令嬢も、ご友人とゆっくり過ごせたかと」

「あ、あぁ、そうだった、か……?」

「会を中座されるほど、殿下もお忙しくされておりましたので……」


 バルトロは覚えていないようだが、中座したのも忙しくしていたのもただ一人のためである。本来は王族であるバルトロが指示を出すべき会の準備が、婚約者とはいえ、ただの侯爵令嬢であるエリーザに降りかかったのも同じ理由からであった。一人で対処することになっていたら、到底手が回っていなかっただろう。

 扇を握る手に思わず力が入ってしまうのも、仕方がないというものだ。

 納得してしまったように頷くバルトロを見て、サーラは腕を引いて主張する。


「バルトロ様、お話しましたよね!? エリーザ様はサーラのことを、真冬の噴水に突き落としたんです! そのせいでサーラは三日も寝込むことになって……とってもとっても辛かったんです」

「差し出口で申し訳ないですが……兄上、ザンデグー令嬢、少々よろしいですか?」

「会話中に無作法だな、レオナルド」

「レオナルド殿下、ご機嫌麗しゅう。先日のお茶会では、お忙しい中、ありがとうございました」


 挨拶もなく、冷たく言い放つバルトロの不調法を隠すよう、エリーザは深めにカーテシーをして丁寧に挨拶を告げる。ひらりと広がるドレスの裾が、鮮やかに床を彩った。

 レオナルドは軽く頷き、笑みを返す。バルトロより二つも歳下と思えないほど落ち着いた姿に、周囲のざわめきも僅かに引いた。

 しかし、無粋な者もいるものである。


「バルトロ様の弟のレオナルド様ですよね! 初めまして、サーラです。お会いできて嬉しいです」


 空気が凍りついた。針を落としても聞こえるような静寂である。

 サーラは言葉通り嬉しそうに笑いかけるが、周囲は一人の笑顔もない。王族に対して、自分から話しかけ、敬称を付けず、同格の者と話すような口調である。あまりの非礼に、誰一人、指摘することすらできず、レオナルドを見つめる。

 レオナルドは目線の一つも無礼者には送らず、エリーザへと向き直った。


「健勝そうでなによりです、ザンデグー令嬢。薔薇の会のことは気になさらず。私も王族として主催側に回るのは当然のことです。それにしても、本日のドレス、深い緑が瞳に映えてよくお似合いですね。花々の刺繍も非常に精緻でお美しい」

「ありがとう存じます。我が家が贔屓にする染色師がこの深い緑を出すのに苦労した、と申しておりました。染色師も針子もレオナルド殿下にお褒めいただき、望外の喜びでしょう」


 再び深く頭を下げ、礼を示す。


「刺繍の花々が、私の薬草園にあるものと似ていて気になっただけですよ。どれも効能確かな花だと思って見ていました」

「まぁ、それは存じておりませんでした。さすが、殿下は博識でいらっしゃいますのね」


 武に秀でたバルトロと異なり、体の強くないレオナルドは、陛下から賜った研究室で、趣味の薬学の研究に励んでいると聞く。今までの舞踏会も、年齢や研究を理由に、参加することは稀であった。

 二人の会話で、凍りついた空気がややほどけ、周囲の貴族達にも会話をする余裕が戻ってくる。

 公式の場に滅多に現れることのない第二王子の登場である。本日は珍しく研究もひと段落のご様子だな、だとか、噂には聞いていたが面差しが側妃殿下によく似ておられる、いやいや知的な眼差しが陛下と瓜二つだろう等、小声ながら興奮した様子で話していた。

 エリーザとの挨拶が一段落し、レオナルドはバルトロへ視線を戻す。


「邪魔だてしてしまい申し訳ありません、兄上。ですが、今お話されていることについて、私が見たことを黙っているわけにはいかないと思いましてね」


 周囲の好奇の視線は受け流し、兄であるバルトロと、その腕を抱きしめるサーラに目を向けた。


「その前にレオナルド、サーラへの挨拶はどうした。エリーザにばかり声をかけ、サーラを無視するなど、人として恥ずかしくないのか」


 和らいだ空気が再び凍る。息を呑む音が会場中からいくつも響いた。

 無礼に礼をもって返す者はいない。王族に対して、有り得ないサーラの挨拶は、無視されて然るべきものである。下手に何事かを返せば王族の権威に傷がつき、されど無視すれば兄に対して礼を失することになる。社交慣れしてないであろう第二王子には厳しいのでは、と貴族達の目が光る。

 バルトロの叱責に、レオナルドはわざとらしく軽く目を見張った。


「ご指摘ありがとうございます、兄上。礼節とは難しいものですね。兄上を教師に、努めてまいります」


 実に無害そうな年相応の笑顔である。

 教師、の語に『反面教師』という言葉が過ぎるが、同調され満足そうなバルトロは気づいていないようだった。

 エリーザは、そっと口元を隠し、視線を逸らす。棘を見て見ぬふりをしたのが伝わったのだろう、わずかに笑みを含んだ目線が絡み、離れた。

 周囲でもグラスや扇を口元に当てる様子があちらこちらで見られる。少なくない人数が、レオナルドの含ませた意味に思い至ったようだった。


「兄上、続けてもよろしいですか?」

「あぁ、いいだろう」


 バルトロの返答に一瞬、レオナルドの緊張が緩む。レオナルドがまだ子供とされる年齢であろうと、王族として失敗は許されない。いくらバルトロの要求が理不尽であっても、周囲の目がある以上、上手くやり過ごせねば自分の非になってしまうのだ。

 握った拳の中に冷たい汗を隠し、気を張り直したレオナルドは平気な顔で兄に言う。


「では、スタラーチェ令嬢の言う『噴水に突き落とされた』ときのことですが」


 エリーザに向けた柔らかな視線とは全く異なる、冷ややかな目がサーラに向かう。怯んだ様子のサーラを一切気にせず、レオナルドはそのときの状況を簡潔に語った。


「学園の噴水は、私の研究室から非常によく見えます。私の目には、スタラーチェ令嬢がザンデグー令嬢に何事かを告げて、自ら噴水に倒れ込んだように見えましたが……私の勘違いでしょうか?」

「う、嘘です! バルトロ様! エリーザ様がサーラのこと『あなたなんか、バルトロ様に相応しくないわ!』って突き飛ばしてきたんです! サーラ、自分で飛び込んだりしてません!」


 抱えていたバルトロの腕を揺すり、必死の表情でサーラは主張する。

 少女が動く度にクラクラするような甘い香りが立ちのぼり、バルトロも、近くを取り巻く貴族も夢見心地の顔である。

 しかし、少し離れた者にとって、その言葉は許せたものではなかった。


「この、無礼者! 何度不敬を重ねれば気が済むのです? レオナルド殿下が嘘を仰るわけがないでしょう! 今すぐ謝罪なさい」


 バシッ、と手に叩きつけた扇でエリーザはサーラを指し示す。力が篭もりぶるぶると震えた手は、強い怒りを表していた。

 これまでのエリーザ自身への非礼に対しては、苛立ちを抑え、貴族令嬢らしい態度で対応していたが、王族に対する二度目の不敬は見過ごせなかった。鮮烈な声が、その場にいた者の耳を打つ。呆けていた者達も、はっ、と目覚めたように目を瞬かせた。

 対するエリーザはさっと扇で口元を隠し、目線を落とした。うっすら染まった耳から、思わず感情的に大きな声を出してしまった自分を恥じているのが伝わってくる。しかし、内容は一切間違ったことを言っていないため、内心の思いを押し込め、顔を上げた。

 ばち、とレオナルドと目線が絡む。恥ずかしさから目を逸らす直前、小さく目礼を送られ、今度はあたたかな思いが胸に過ぎった。

 バルトロから最後に感謝されたのは、いつだっただろうか。婚約者から、否、下位の者からの王族に対する当然の献身と受け止められ、久しく言われた記憶はない。婚約者として、何年も懸命に努めてきたはずだったが、この会でのバルトロの姿に、エリーザは虚しいものを感じていた。

 そんな二人の静かなやり取りの横では、サーラが尚もバルトロに対して騒ぎ立てる。自分ではない、エリーザが行ったことである、と一点張りだ。

 どよ、と周囲が動揺を示した。再び、バルトロがサーラを抱きしめ、エリーザのことを指さしたのだ。


「エリーザ、何を言う! サーラが嘘などつくわけがないだろう。お前こそサーラに謝れ!」

「っ! ………………殿下は、スタラーチェ男爵令嬢の言葉を支持される、と仰るのですね?」


 お気は確か? 正気でいらっしゃいますの? といった、不敬過ぎる言葉を飲み込み、ようやく言葉を絞り出した。バルトロは理解していないようだが、サーラの言葉を認めるということは、即ち、レオナルドが嘘をついた、と言うのと同義である。

 やや離れたところからマヌエーレが焦った表情で早足で向かってくるのが見えた。最低限、周囲を避けつつも、大股で歩く姿は貴族男性として褒められたものではない。それでも、そこまで急いででも止めなければならない言葉があった。

 侍従や近衛も王子達の元へ歩を向けている。

 いくら第一王子であろうと、公の場で、王族の権威を貶めるような発言は許されない。第二王子が、王族が嘘をついたと認めるなど以ての外である。

 会場中がバルトロの答えに耳をそばだてた。

 まとわりつくような匂いの中、バルトロの瞳が真っ直ぐエリーザを射抜き、


「ああ、そうだ。サーラが言うことは全て正しいだろう? だからエリーザ、お前が間違っている。サーラに謝罪しろ」


 会場中の者が悲鳴を飲み込み、侍従が声をかける寸前、レオナルドが声を上げた。


「それならば、スタラーチェ令嬢も私に謝罪を。嘘つきと呼んだことを謝罪する必要があるならば、あなたは私が嘘をついたと言いましたね?」

「レオナルド様!? そんな、サーラはそんなつもりじゃ……! 聞いてください!」


 サーラはバルトロの腕を離し、レオナルドへと駆け寄った。上目遣いで、そっとその手を取ろうとする。

 ばし、と乾いた音が響いた。


「え? なんで、レオナルド様……?」


 払いのけられた手を、サーラは呆然と見た。数歩サーラから離れたレオナルドを見て、愕然としている。まるで、想定外のことが起きたような面持ちだ。

 はっ、とした顔で手首を口元に、否、鼻に近付ける。サーラの顔から血の気が引き、慌ててドレスの腰の小袋から何か、うっすらピンク色をした液体入りの小瓶を取り出した。

 よほど焦っていたのだろう、残りわずかだった液体全てが手首にドッと流れ、辺り一面に胸焼けするような甘い香りが漂った。慌てて腕をドレスにつけ、床に垂れそうになった雫を吸い込ませる。

 エリーザをはじめ、女性達は眉をひそめ扇を手にしていたが、周囲の男性の中にはふらりとサーラの方へ歩を進めそうになった者が複数いた。すぐさま隣の妻や娘、婚約者に腕を引かれ、我に返る。いやぁ踊り過ぎてしまったようで、だとか、お仕事は程々にと申し上げましたのに、だとか、明かりに目が眩んでしまったかな、など口々に言うが、皆、何が起きたかわからない、といった表情だ。

 止める者のいない、バルトロや取り巻き達はふらり、ふらりとサーラへ向かう。表情が抜け落ち、まるで操られているような足取りである。

 その様子を見て、バルトロの発言で固まっていたマヌエーレが力無く歩み寄った。殿下、足元にガラス片が、と軽く肘の辺りを引くと、バルトロも、は、と周囲を見回す。お前達、どうした、とバルトロが取り巻き達の肩を叩くと誰も彼も不思議そうな面持ちである。

 サーラ本人は周囲の様子をチラとも見ず、まっすぐレオナルドの元へ向かった。


「レオナルド様ぁ、お話、聞いてもらえます……?」


 胸元に手を寄せ、軽く身を屈めて上目遣いで小首を傾げる。甘えた口調に周囲の女性は軒並み不快な表情だ。

 レオナルドはサーラから大きく距離を取り、返答とした。

 その姿に、サーラはわなわなと拳を震わせる。


「……なんで? なんでレオナルド様にはこの香水が効かないの!? 誰でもイチコロだって魔法屋に聞いたから買ったのに!」


 苛立ちのままサーラは叫んだ。

 言葉が聞こえた者達は表情を変える。内容が大問題であった。

 魔法屋とは様々な薬草や素材、怪しげな呪文を用いて作成した、眉唾な品々を高値で売りつけていると囁かれる店である。目や耳を良くする薬、心の臓の病に効く石など、まともそうな物もないではないが、恋が叶う薬や石ころを金に変える鏡、死者に会える香炉など、この上なく怪しい物も数え切れないほど販売していた。。

 そのような不審な店で買った香水だというのだ。人々の心の中にも、まさか、という思いが過ぎる。

 バルトロは僅かに首を傾げていた。突然の言葉に、理解が追いついていないのかもしれない。


「香水が効かない理由ですか……。恐らく、兄上や王妃殿下から様々な教えを受けたからでしょう。私には少々刺激が強く、体調を崩してしまうこともありましたが……ええ、調薬のいい勉強になりましたよ」


 にこやかな顔だが、内容はよく聞くと物騒である。

 バルトロと二つしか歳が違わない上に、至る所で名前が囁かれるほど優秀な弟王子の周辺はやはり安全ではないらしい。今は亡き側室の子であり、正妃の子であるバルトロに血筋では遠く及ばないとはいえ、王室にたった二人の王子である。亡き者にできれば、という勢力もあるのだろう。同じ王族から狙われていればなおのこと、守りの届かぬところもある。

 レオナルドが研究室によく一人で籠っていることや、未だ婚約者が定められていないことは、研究一筋なのが理由だと公言しているが、恐らく別の理由もあるのだろう。側近候補の一人も連れ歩かないのも同様に。

 エリーザの弟はレオナルドと同級生だが、休憩時間はもちろん、授業中でさえ基本的に研究室に籠っており、会うことすら稀だと言っていた。さすがに試験の際には顔を出すらしいが、教師と共に来て、時間より早く終えて戻るという徹底ぷりで、話しかける余地など欠けらもない。それなのに、学年首席の座を他者に譲ったことがないのだから恐れ入る。


「知って買ったかはわかりませんが、その香り、判断力を低下させる毒草を主としているようですね。その香りの強さなら、濃度もかなり高いでしょうし、先程の効果も納得がいきます」


 さすが、薬草について日々研究しているだけある。す、と出てくる知識にエリーザも周囲も納得の顔だ。

 皮肉げな笑みがレオナルドの口元に浮かぶ。


「それにしても運がいい。万が一、兄上が一滴ですら口にしていたら、今頃スタラーチェ令嬢はこの城の奥の奥にある、石造りの部屋で寛いでいたでしょうに」


 言い方から考えると、恐らく、窓や出入口に格子のある部屋に違いない。

 どこからか、殿下に障りがなくて何より、と安堵の声や、殿下を謀ろうとするなど、と怒りの声が上がっている。小さくレオナルドの聡明さを褒める声も聞こえ、会場にはざわめきが戻った。

 その中、はっ、とエリーザが扇を閉じ尋ねる。


「……まさか、先の『イチコロ』というのはその意味で?」

「いえ、流石にその意図はないでしょう。上手く取り入ることが出来ているのに、失ってしまったら意味がない」


 冷たい言葉に、流石のバルトロにも危険性が伝わったらしい。目を見開いて、サーラを見つめている。

 しかし、顔色が変わったのはサーラも同じだ。信じられないように毒薬のついているらしい手首を見て、慌ててドレスに擦り付けた。


「ち、ち、違います、バルトロ様! サーラ、少しでもバルトロ様に好きになってほしくて……! 毒なんて知りません!!」


 縋ろうと手を伸ばしかけ、しかし、毒だというレオナルドの言葉を思い出したのか、震える手でドレスを握りしめた。演技の可能性もあるが、バルトロを害したくないという気持ちはあるらしい。

 弱々しい姿に思わずバルトロが近付こうとした瞬間、エリーザがその道を塞いだ。


「いいえ、毒と知っていたかは関係ありませんわ。そのようなものを持ち込んでいる、という事実が問題なのです」

「そ、そんな……」


 サーラは膝から崩れ落ち、顔を伏せた。

 知っていようといまいと、王族の元に毒物を持ち込むなど、暗殺未遂に他ならない。擁護の余地なく一族郎党極刑である。

 周囲は冷たい目で、遠巻きにしていた者でさえ更に距離をとった。

 しくしくと涙を零すサーラに、バルトロは一度腕を伸ばし、下ろす。何か言おうとして、止まる。慰めるのか、許すのか、はたまた詰るのか。

 しかし、葛藤に悠長に答えを出せるほど、状況は甘くない。危険人物の確保のため、数人の衛兵が近寄り、王子二人に軽く頭を下げる。バルトロが呆然としたまま見送ると、彼らはサーラに立つように言った。従わなければ制圧する、とも。

 思わず制止の声をあげようとしたバルトロの肩を、温かい手が押さえた。振り向いたバルトロは、静かに首を振るマヌエーレと目が合う。だが、と言い募ろうとし、そして、目を伏せた。

 サーラの濡れた瞳がバルトロを見るが、その視線が絡むことはない。


「バルトロ様……」


 何もかもを失い、最後は彼の愛に縋る。作られたものと知られてしまった今、どれほど残っているのかはわからないが。

 今、危険人物とされるサーラを庇えば、バルトロ自身も何らかの罪に問われる可能性がある。バルトロは、震える手を必死に抑え、しかし、彼女を見ることはなかった。

 サーラの瞳が絶望に染まる。

 衛兵の指示でふらりと立ち上がり、前後左右を固められた。前に立つ衛兵が扉へと誘導を開始する。

 歩き始める直前、サーラは暗い瞳でバルトロを見つめ、ぽつりと呟いた。


「バルトロ様も、サーラのこと、見捨てるんですね……。ずっと一緒って、言ったのに…………」

「っ、サーラ!」


 衛兵と去ろうとしているサーラへ、バルトロは駆け寄った。マヌエーレの手を振り切り、周囲の目を無視して走る。

 驚きで固まった衛兵を退け、サーラを一度抱き締めた。小声で何か告げたようで、サーラの紙のように白かった頬に、赤みがさしたのが見える。本当に、と呟いたサーラに頷きを返すと、バルトロは彼女から離れ、衛兵達を扉へ促した。

 再度、頭を下げて去る衛兵と、彼らに囲まれたサーラが見えなくなるまで、バルトロは見守り続けた。


「バルトロメオ殿下、」


 向き直ったバルトロに、エリーザは声をかける。


「正式には陛下と父のお話にはなりますが、殿下がそこまでスタラーチェ男爵令嬢を大切に思っていらっしゃるのならば、私は潔く、身を引かせていただきたく存じます。お二人の末永い幸せを微力ながら祈っておりますわ」


 美しいカーテシーとともに、深く頭を下げた。

 衛兵を押しのけてまでサーラに何かを伝えた、先程のバルトロの行動、初めは香水の影響だったのかもしれないが、それだけではない何かが彼の中に芽生えているのだろう。

 彼は、選んだ。それだけだ。

 令嬢にとっての結婚は、強制的に派閥を決めるものになってしまう。この会でのバルトロの発言と行動は、初めに大声で注目を集めてしまったために、参加者のほぼ全てが知ってしまっていた。

 泥船に乗ることはできない。恐らく父侯爵もエリーザの判断を褒めるだろう。


「あなたほどの令嬢を、王妃殿下と呼べないこと、非常に惜しく思いますよ、ザンデグー令嬢」

「こ、光栄に存じますわ」


 一瞬、声が裏返ったが、深めに頭を下げて失態を取り繕う。

 言葉通り受け取れば、正腹であり次期国王に最も近かったバルトロとの婚約破棄により、エリーザが次期王妃ではなくなったことを残念に思っているだけである。しかし、今日の言動で、恐らくバルトロは王座から大きく遠のいた。すると次に王座に近くなるのは、当然、第二王子であるレオナルドだ。

 つまり、王妃になれないエリーザを惜しむ、即ち彼女を王妃に望むということは、彼はエリーザを——

 近くの侍従に声を掛け、エリーザの父か弟を呼ぶように伝えてくれているレオナルドをチラリと見る。

 もしかしたら穿った捉え方をしてしまっているのかもしれない。でも、もし、その捉え方が合っているとしたら——

 両手で扇を握り、震える手を隠して問う。


「レオナルド殿下、私、本日は諸般の事情で一曲も踊れていませんの。次にお会いするときは素敵なワルツが流れていると思われますか?」


 答えが返るまでの、ほんの僅かな間ですら永遠に感じる。

 今日、踊れなかったのは本当だ。ファーストダンスに誘いに来るはずの者が、別の者の手を取っていたがために、誰も彼女にダンスの申し出をすることができなかった。

 次に舞踏会に参加するとき、エリーザはバルトロの婚約者ではないだろう。そのとき、エリーザはひとりなのだろうか、それとも——


「ええ、もし流れていたら嬉しく思います。その折には、長く響くことを願います」

「ええ、私もそう、願いますわ」


 柔らかく、笑み交わした。

 そこに、先ほどレオナルドが呼んだ、エリーザの弟が現れる。同級生であるレオナルドと軽く挨拶する姿を横目に、エリーザはバルトロに向き直った。


「本日は素晴らしき会に参加でき、誠に光栄でございました。第一王子殿下、御前、失礼いたします」


 正式な、深いカーテシーを行い視線も合わせず去る姿は余所余所しく、婚約関係にない『侯爵令嬢と王子』にしか見えない。本来なら、その手をエスコートするのは婚約者であるバルトロのはずだが、彼の心は既に甘い香りで染まっていた。

 次期侯爵である弟へ手を預け、エリーザはレオナルドへ振り返る。バルトロに向けたより、やや軽めのカーテシーを行い、視線を絡ませる。

 弟からレオナルドへ、挨拶と、家の植物園への誘いを述べた。顔を綻ばせ、時間を作るというレオナルドに姉弟も笑みを返し、広間の大扉へと歩を向ける。

 もう、婚約破棄による白と黒の不安は消え去った。

 ドレスの裾が微かに揺れ、鮮やかな緑に刺繍の花々が咲き誇った。

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