【345】カルディア
剣を握り締めたルースの胸元が光を発した一瞬の後、ルースの隣には時間の精霊が立っていた。
力を温存するため現には姿を現わす事を控えていた精霊が、今ここに出てきたのだった。
『我はここが最後となろう』
「はい」
ルースはこの精霊が残りの時間を使い現れてくれた事に感謝し、神妙に頷き返した。
『其方に再び力を与える。我らの仲間を頼む』
「はい」
それは会話としては短いもの。しかしその言葉には、この精霊の全てがかかっていた。
ルースは精霊を振り仰ぐ。
触れれば溶けてしまいそうな透けた体から伸びた両腕が、柔らかくルースを包み込んだ。ルースを抱きしめる精霊からサラリと長い髪が揺れて落ちる。
『今こそ真の想いを成就する時。好運を祈る、わが友よ』
「…はい」
その光景を、傍にいる皆が黙って見つめていた。
“これが時間の精霊か”と誰もが思った事だろう。グローリアの家で初めてその存在を認識した皆も、その姿をみるのはこれが初めてだった。
白くも青くも見えるその透けた姿は、精霊と呼ぶにふさわしく美しいもの。纏わせているものは向こうにいる者と同じ装いだとわかるが、あちらは闇を纏った姿であるのに対し、目の前の精霊は、これが女神であると言われても納得できる程の神秘を秘めた、清く儚い存在だった。
そして言わずもがな、ルミエールへと力と剣を授けた精霊王はまごう事なく彼だったのである。
ルースは精霊から流れる温かなものを身体の中に取り込み、己の力とする。
この精霊にも、そして前回と同様であればルースにも、残された時間はあと僅かしかない。ここでルースが失敗すれば、この負の連鎖は永遠に続く事になる。
そしてこれ以降、もう力を貸してくれる精霊はいなくなり、そして記憶を繋ぐ者がいなくなれば、ルミエールの想いも消えてしまう。ここでルースが消えれば、ルミエールの想いを知る者は永遠に潰える事にもなるのだから。
ルースから手を離し下がって行く精霊から視線を外し、ルースは黒い影に視線を向けた。
精霊から与えられる力は、この勇者の剣を操る為の力。
それを証明するかのように、ルースの手の中にある剣がフワリと光を発し始めたのだった。
「っ……」
ソフィーの手を借りて起き上がったフェルも、ルースの後姿に息をのんだ。
ルースがその剣から発する光に包まれていけば、ルースの輪郭が光となったかの如く曖昧になっていったのだった。
ルースは振り返らず、仲間達へ声を掛ける。
「これで最後にしましょう。援護をお願いします」
「おう」
「うん」
「ああ」
「ええ」
そしてルースが発していた光が収まれば、その後姿に皆は息をのんだ。
ルースは精霊の力を借りた事で本来の姿を取り戻し、風に揺れる髪は月明かりの中でも金糸を纏わせていると分かるものだったからである。
これが本来のルースの姿であるのかと、皆は驚きながらも納得する。
内に秘めた覚悟は、今のルースからひしひしと伝わってきている。闇の魔の者は“人ならざるもの”。それを相手にする人間にすぐに限界が来るのだと、皆は百も承知である。
ルースがここで決めるというのなら、ルースを喪わない為にもパーティが全力を出すしかないのだった。
皆はここで一気にポーションをあおると、気合を入れ直し万全の体勢を整えた。
そしてフェルが一早く走り出しながらも短い詠唱を始め、攻撃を開始する。
「“激雷”」
デュオも再びブリュオンにまたがり、聖魔力の乗った矢を連射していく。
― ヒュンッ ヒュンッ ヒュンッ ―
キースもソフィー達の前に進み出ると、ロッドを高らかに掲げ無詠唱で攻撃を開始していく。
(“氷槍” “乱岩嵐”)
フェルの魔法、デュオの光の矢が闇の魔の者に注がれるなか、最後にキースが放った魔法がその周辺に到達して爆風を巻き起こした。それらは芽吹いた草を巻き込み土埃を上げて黒い影を包んでいく。
その中に飛び込むルースは一陣の風の如く、金色の輝きだけが尾を引いて皆の視界から消えていった。
――― グサッ!! ―――
その立ち込めるものが視界から徐々に消えていけば、ルースの剣を胸に受けた黒い影がルースと向かい合うように立っていたのである。
「やったか!」
『いいや、あれでは消滅はしない…』
フェルの言葉を即座に否定したのは、黒きものシュバルツだった。
シュバルツは以前この状態のときに聖女が狙われた事で、この身に闇魔法を受け聖獣としての己を失ったのである。
『この先があるのなら…』
時間の精霊が落としたとても小さな囁きは、風に乗って消えていった。
闇の魔の者とルースを見守るようにその場に立ち尽くす仲間達。
ルースから合図があればいざ知らず、ルースが傍にいる事で攻撃を仕掛ける事も出来ず、ただ時間の流れだけが過ぎていくように感じ、焦燥感を募らせるも彼らは見守る事しかできなかった。
「フン。記憶を取り戻しているようであったが、また同じ事を繰り返すだと?」
ルースの目の前にある形の良い唇が、そう言って嘲笑うかのように弧を描く。
確かに、この状態は前回を繰り返しているのだ。そして闇の魔の者が心の蔵に勇者の剣を受けてなお、平然と話している事も同じであった。
ルースはその問いには答えず、彼の胸に刺さる剣を右手で握り締めながらその瞳を見つめた。
そして互いに見つめ合う事暫し、先にその眼光を強くしたのは黒い眼差しであった。
「再びこの機が訪れようと何も変えられぬ。それを理解できぬとは、人間はいつの時代も愚かで醜い」
そういって、闇の魔の者はルースが刺した剣に手を添えた。
「……カルディア……」
ルースはそこで、かつての友の名を呼んだ。
“ピクリ”
その言葉を聞いた黒い影の眉が動く。しかしそれだけだった。
「…カルディア…」
ルースがもう一度彼を見つめて名を呼べば、黒い口元が苦し気に歪んだ。しかしその眼差しの中には暗闇しかなく、虚無の色が広がっていた。
「遅くなってごめん。助けに来たよ…カルディア」
ルースの声で眇められた目は、訝し気にルースを見つめていた。
そしてルースが左手を2人の間の胸元へ持って行くと、その黒い目の中に僅かな驚きが生まれる。
「やっと今回見付けられたんだ、あの時君が渡してくれたもの。これで君をやっと助けられる…」
そのルースの左手には、透明な長細い石が握られていた。それは月明かりを受けて宝石の如く輝き、勇者の剣を照らしていたのだった。
これは以前シュバルツが森の中で拾ってきたもので、その時はこれがただの魔水晶であるとしか分からなかった。しかしルースがルミエールの夢の中に入る様になり、ルミエールがカルディアと別れてから時々眺めていたそれを見た時、ルースは現実でもその魔水晶を持っているのだと思い出し、これがカルディアを助ける為の鍵であると気付いたのだった。
「……あ゛……」
形の良い唇が紡いだ言葉は意味の成さぬものであったが、見開いた双方の目には今までとは違う色が宿っていると感じる。
「今助かるからね。これからは君を絶対に一人にしないから…」
ルースが左手の魔水晶を右手にある勇者の剣の穴にそっと嵌めれば、それはカチリと音がして一つの物になった。その魔水晶はこの中にカルディアを封印するための物であるが、勇者の剣を完成させる為のものでもあったのだ。
この魔水晶は、カルディアがまだ正気だった時に自分の力を抽出して作った物であり、唯一精霊を封じる事の出来る水晶だった。そして心の精霊であるカルディアが作った魔水晶であるがゆえに、それは持つ者の心にも反応してしまうもの。その為カルディアは透き通る心の持ち主であるルミエールにそれを託し、封じる為に己の心臓にこれを突き刺して欲しいと願っていたのである。
「帰ろう、カルディア。あの頃のように僕と共に過ごそう」
「…あ゛…あ………るみ…える…」
「そう。僕は君の友であるルミエールの記憶を継ぐ者。そして君を救う為に生まれてきた者」
ルースの言葉に、闇の魔の者であった存在は動きを止めた。
それは勇者の剣から発せられる光が、彼を包んで行ったからかもしれないが、そうして彼に纏わりついていた黒い何かが光に滲み、水晶の中へと少しずつ流れ始めて行った。
そして驚愕に見開かれていた彼の表情がみるみる穏やかになっていき、本来の薄桃色の姿に変化していった。
心の精霊の姿はその名前の通り、人の心に反映される。出逢った頃は美しく温かな色合いをしていたカルディアは、遠く離れた地にいる人間の心の闇までをも取り込み、そのせいで次第に濁った灰色になり、そして黒い闇へと変化していったのだった。
その闇を今一時的に魔水晶が吸収していった事で、この少しの間だけ、昔のカルディアが姿を見せてくれていたのだった。
「……覚えていてくれたん…だね、ルミエール」
「ごめん、凄く遅くなってしまったんだ…。もっと早く君を助けたかったのに」
ルミエールの記憶が占拠するルースの顔が、くしゃりと歪む。
「いいんだ。こうして君が思い出してくれたのなら、私は再生できるのだから」
そう言った者の顔は、先程までとは別人と呼べるほど穏やかな表情だった。時間の狭間に囚われ、ずっと永い間一人で辛い暗闇の中にいたはずなのに…。
ルースはその言葉の意味をしっかりと噛みしめ、深く頷いた。
だが、カルディアはすぐに再生される訳ではないはずだった。
今は一時的にカルディア本人の色には戻っているが、この後、勇者の剣となった魔水晶の中に彼を封印し、その中で彼が纏っていた闇と共にゆっくりと浄化していくのだ。
それは本来ルミエールの役目であったのだが、その彼は遥か昔に消えてしまった。それゆえにその遺志を継ぐルースがその役目を果たす為、今後カルディアが宿る剣と共に過ごしていく事になるだろう。
「カルディア…いつまでも僕の友達でいてね」
ルースの言葉に目を細めたカルディアは、その美しい顔に喜色を浮かべて頷く。
その表情は昔見たままの姿で、もう彼の禍々しさは消えている。
「約束を果たしてくれて…ありがとう、ルミエール」
そう言ったカルディアは、その姿を維持できなくなったかのように薄くなり、そうしてスゥッと剣の中に消えていった。
ルースは勇者の剣に視線を落とし、そこに嵌められた魔水晶が黒く染まっている事に胸が苦しくなる。
これは彼が受けとめた人間の闇だ。
確かに人間は皆が同じ考えを持つとは思わないが、人の持つ悪意は目に視えずとも、こうして誰かを傷つけた上にその思いはあるのだとルースは思う。
それはただ、自分の愛する者を守る為にとった行動であったとしても、その小さな思いが積み重なれば、こうして大きな闇となってこの世界に漂うのだ。
カルディアはそれを受け止めてしまったが為に壊れ、自我を喪い、永い時間の中で苦痛にさいなまれていた。
ルースはそんな思いをする者が二度と出ないように、心から皆が心穏やかに暮らして欲しいと、それだけを願い静かに目を閉じるのだった。