【307】手に残る温もり
ルースは膝の上に置いた手を組み、強く握りしめた。
目を開くとその視線を宰相へ向け、続けてセレンティア王女へと向けて動きを止め、そして徐に口を開いた。
「私は、この国の東にある小さな村で育ちました。その村は本当に小さな村で、村中の人達とは家族の様に親しく、寄り添いあって生活をしていました」
ルースは淡々と話し出す。
ルースが何を語り出したのかが分からずとも、それを2人は黙って聞いてくれていた。
「私は10年前、その村に近い森の中にいたそうです。私には何故そこにいたのか、その記憶はありませんでした。そして自分が誰でどこから来たのかも…。そんな何もない私をその村の薬師が見つけてくれ、ルースと名付け傷を癒し、ひとつひとつ丁寧に理を教えながら大切に育ててくれました」
ルースは視線を下げ、今も村にいるはずのその恩人を思い浮かべた。
いつも笑顔を振りまき時には腰に手を当ててルースを叱り、マイルスの隣で微笑んでいた姿を…。
そんなルースの言葉に、セレンティア王女と宰相が瞠目していた事はルースの視界には入っていなかった。
「…私は、そんな優しい人達の元を離れ、15の年に冒険者になりました。それは当時、自分自身を求める為のものだったと思います。ですが今考えれば、それは何も知らぬ私が、ただこの世界を見てみたかっただけかもしれません。そしてこれまでの間に見た事、聞いた事、そして経験してきた事に比べれば、私が求める自身の記憶など、取るに足らぬものだと気付きました。この国には大勢の人々が暮らし、笑い合い時には喧嘩をし、その日その日を大切に生きていました。しかしそんな中で、封印されしものが再び世に現れようとしています。その様な事実を知った今、いざ記憶が戻っても私は特に何かを求めようとは思いませんでした」
そう言ってルースは顔を上げる。
「私はそこで気付きました。私が喩え誰であろうとも、私の役目はこの国を護る事であると。その為出自や記憶などはもう何の意味もありません。私は私の役目を果たすため、今ここにいるのです」
ルースの告白は、ここまでの道のりを簡素に伝えたものだ。
だがこの2人には、それでだけで十分意味が分かったようだった。
ルースはその視線をセレンティアに向けた。
その目に映るセレンティアは、大きな目を潤ませ口元に両手を添えて、何かに耐えるように動きを止めていた。
「この髪色と目の色の事は、私にも理由はわかりません。私が拾われ目覚めた時には、既にこの姿になっていました」
ルースはそこで話を切った。
そして今度は宰相へと視線を向け、言葉を続ける。
「私がもしそうであったとしても、その証拠を何も持ち合わせておりません。確かに私がここにいた記憶も、今はあります。ですがその記憶以外に何も証明する事はできないのです。その為私はルシアス・モリソンとして、ここを出立するつもりです」
ルースがそう話し終われば、宰相が苦しそうに眉根を寄せて目を瞑った。
ルースが言った事は間違っていない。
もしルースがこの国の王子であると名乗り出ても、証明する事ができない為にただ国を混乱させるだけとなるのだ。
「そうでしたか……」
宰相は肩を落とし、視線をルースへと向けた。
「おっしゃりたい事は理解いたしました。確かに“そうだ”という事は、私にも証明できません…」
ルースが宰相の言に頷き返せば、宰相の隣のセレンティアから小さな声が零れ出す。
「ぅ…ぅぅ…」
一生懸命声を立てないように涙を流すその姿は、ルースが覚えているセレンティアが小さな頃に重なる。
「申し訳ありません。私はそのお探しの人物ではあり得ません…」
ルースがセレンティアに向けて謝れば、セレンティアは首を横に振る。
そうしてセレンティアはゆっくり立ち上がると、いきなりルースの所へと飛び込んで来たのだった。
――!!――
セレンティアは倒さんばかりの勢いでルースへ飛びつくと、その胸に顔を埋めてしがみ付く。
「兄さま……兄さま…ぅぅ……」
ルースは否定したものの、セレンティアの中ではもうルースはルシアスになってしまっていた。
ルースも困り果て宰相を見るも、宰相は何も言わず首を縦に振った。
“今だけ”
今見聞きした事は、ここだけの話だという事になっているのだ。
ルースはゆっくりとセレンティアの背中に腕を回し、お日様の匂いのする彼女を抱きしめた。
「ぅぅ…兄さま…」
柔らかなセレンティアの体を壊さぬよう、ルースは胸の中にいるセレンティアを優しく包み込み、その背を撫でてやる。
「名乗り出れず、申し訳ございません」
「兄さま…前みたいに話して…今だけは…」
セレンティアの言葉に困ったように眉を下げるも、ルースはセレンティアの耳元で声を掛けた。
「…ずっと見なかった間に、随分と綺麗になったね、ティア」
「ぅぅ…ルース兄さま…兄さま…」
「ティアはまだまだ、泣き虫だ」
「…違います…今はルース兄さまが私を泣かせているのです…兄さまがずっと、帰ってこないから…」
「すまなかったね。私は王都に着くまで、本当に何も思い出せてはいなかったんだ。ティアの事を思い出したのも、つい最近なんだよ」
「兄さまはずっと、大変な思いをなさっていたのね…でも本当にお元気で良かったわ。もうどこにもいないと思って、私…」
「心配ばかりさせてしまって、本当にすまなかった。…この国の事を、兄上の事をよろしく頼んだよ」
「うぅ…ルース兄さま…兄さま…」
こうして抱き合う2人を見つめていたディヴィッドは、セレンティアが落ち着くまでそれを見守っていた。
ここに来る前、セレンティアがデイヴィッドの元を訪れ人払いをした後、自分を勇者の下へ連れて行って欲しいと頼まれた。どうしても会って話がしたい、どうしても会って確かめたいのだと、セレンティアは宰相に縋るように言った。
デイヴィッドがその理由を尋ねれば、セレンティアはあの勇者がルシアス王子ではないかと思っている、と言ったのだ。
セレンティアにもそれがなぜかは分からないものの、いや、逆に分からないからこそ余計しっかりと確かめたいのだと、そうセレンティアは言った。
デイヴィッドは熟慮し、確かにあの勇者は自分も何かが引っ掛かっていたのだと思い至り、こうしてセレンティアと2人で勇者の元を訪ねたのである。
結果、ルースであった者はこの国の王子で間違いなかったものの、それはデイヴィッドとセレンティア、2人の胸の奥にしまいこまねばならなくなってしまった。
そうして対面したルシアスと話してみれば、この青年の名前が変わったのは以前の記憶を取り戻したからであるというステータスの謎は解けたものの、それでも髪の色と目の色の事はどうしても説明がつかず、本人の言う通りその人であるという証拠もない。
その為、この人物がルシアス・トーヤ・ウィルコックスであると認める事はできず、それは諦める他なかった。確かによく見ればその面差しには国王と王妃に似た所もあるが、しかしそれだけでは王族であると認める事はできないのだ。
今目の前に長年探し求めていた人物がいるのにもかかわらず、その人物であると公表する事ができぬ自分に、デイヴィッドは失望してもいた。
その本人も名乗り出る事はできないと十分に理解しており、そう考えられるほど聡明に育った王子が名乗り出られない事を、とても口惜しいとさえ思った程だ。
デイヴィッドは仲睦まじい2人を見ながら、一人そんな思考の中にいたのだった。
こうして後泣きはらしたセレンティアの目元を戻すため、ルースが持っていたポーションで癒した後、名残惜し気に振り返るセレンティアをなだめつつ、勇者の部屋を後にしたデイヴィッドなのであった。
一方それを見送ったルースの心中は複雑だった。
ルースがここで打ち明けた事は、ルースのほんの一部に過ぎない。これ以上の事を話す事はできないし、してもいけないのだとルースは感じていた。
“実はルシアスは既に封印されしものと対峙しており、その戦いに敗れ、もう一度それを今やり直しているのだ”とは、口が裂けても言えない。
それではまるで、この先にまた敗北が待っていると告げている様にも聞こえ、人々の希望と期待を根こそぎ奪う事にも繋がっているのだ。
ルースは全てを話せぬ事に心の中で謝罪し、先程まで感じていた温もりを逃がさぬよう、その手の平を強く握り締めたていたのだった。




