【306】金色の眼差し
コンッ コンッ
ルースは騎士団棟で今日の鍛錬を終え、部屋に戻りシャワーを浴びたところで、その部屋をノックする者がいた。
「はい、どうぞ」
まだ髪は乾いておらず少々湿っているが、失礼ではないだろうかとは思いつつも、そう答える以外にルースの選択肢はない。そうして腰かけていたソファーから立ち上がり、その脇に立つ。
カチャリと扉を開いたのは先日も訪れた宰相であったが、入室してきたのは彼一人だけではないと気付きルースは目を見開いた。その人物は扉の前に立つ近衛と話している。
「大丈夫です、貴方は外にいて下さい」
「ですが…」
「大丈夫と言ったはずです。コープランド公が一緒におります。貴方は私の言う通りにして下さい」
「……かしこまりました」
人を従わせることに慣れた口調。その人物はまだルースに背を向けていたが、ルースはその後姿でさえ思い当たる人がいた。
金色に輝く艶やかな髪を腰まで垂らし、左右の髪は後頭部で複雑に結い上げられている。
しかし彼女の立場からすれば身に付けている物は簡素な装いで、水色を基調としたドレスの裾はレースで縁取られてはいるものの、それ以外は装飾もなく何枚か重ねられた布が色を僅かに変えながら、それが動くたびに見え隠れするだけのシンプルなドレスを纏っている。
彼女が普段、居住区画で過ごす時に見る簡素な装いの姿のままでここへ来た事に、いいや、彼女がこの様な一般人の前に直々に姿を見せた事に、ルースは驚き動揺もしたが、それを悟られぬようゆっくりと頭を下げた。
「邪魔をするぞ。今日も騎士団の所へ行っていた様だな。本日の鍛錬は終わったのか?」
部屋の扉が閉まれば、宰相のデイヴィッドがルースから隠すようにもう一人の人物の前に立ち、そう声を掛けた。
「はい。本日も騎士団の皆さまに場所をお借りして、剣を振って参りました。先程戻ってきたところです」
ルースの返答に鷹揚に頷き、宰相は後ろを振り返った。
その宰相の動きに合わせるかの様にその後ろから宰相の横へ進み出た彼女は、緊張した様子で声を発した。
「忙しいところに、先触れもなく訪ねて悪かったですわね。今お時間をいただいても、よろしいかしら?」
その言葉にルースが首肯すれば、彼女と宰相はソファーの前まで進み、そこへ腰を下ろした。
「今お茶をお持ちいたします…」
とルースが動こうとすれば、彼女は右手をスッと上げそれを制止した。
「お構いなく。すぐにお暇いたしますわ。貴方もこちらにお座りになって」
「…はい」
ルースはその指示に従い、彼女と宰相が並ぶ席の向かいに腰を下ろす。
ルースがソファーに座れば2人の視線がルースへと注がれているのが分かり、ルースは伏し目がちに視線をテーブルへと向け、その視線を受けとめた。
まだ名乗られてはいないが、王族を直視する訳にはいかないのだ。
「顔をお上げなさい」
しかしそこへ指示が出てしまえば、その指示に従うしかないルースだ。だがルースが顔を上げても話が続くわけでなく、しばしの沈黙が続く。
一体彼女たちは何の用でここへ来たのか。そもそも王族がこの様な所まで来ることは滅多にないはずだが…。
ルースは心の中で疑問を浮かべるも、その答えは残念ながらルースは持ち合わせていない。
目の前に座る彼女は、以前の記憶のまま変わらず美しい顔立ちであるが、その当時に見せていた輝くような笑みはなく、ただ静かにルースを見つめるだけだった。
「君に話があって寄らせてもらった。…こちらのお方が君に話を聞きたいそうだ。このお方は、君も一度お目にかかった事があるセレンティア王女殿下である」
宰相はがそう紹介すれば、セレンティアはスッと右手の甲を上にして手を差し出した。
ルースは反射的にソファーから立ち上がると、彼女の傍に寄り片膝をつく。
「私はルシアス・モリソンと申します。お会いできて光栄です」
その手をしたから掬い上げたルースは、その甲に口を付けるふりをして挨拶を返した。
ここまで、ついつい流れでやってしまったルースは内心冷や冷やしたが、その行為には何も言われずにホッとしてルースは席へと戻った。
「私も少し話がしたかったのだ。君の名はどうして変わったか…。私はずっとそこを疑問に思っている」
宰相はルースが落ち着いたところで唐突にそう話すも、ルースは視線を上げ、それには見つめ返すにとどめる。
「これは私の憶測であるが…君の中には2人の人間がいるのではないか?」
そこで宰相が言った言葉は、普通に考えれば奇天烈な事だ。
しかしルースは表情を変えず、首を傾けただけで言葉は発しない。
「私は考えていた。ステータスとは己の中にある情報を表に現したものだ。君は元々ルースと言う名前であった。それは私も確認させてもらった事で、それが事実であったと疑ってはいない。だが、それが今ルシアスに変わっている事も事実。それは何故か…。それは君の中にもう一人の、本来の人物が戻ってきたからではないか、とな」
ルースは内心、宰相の考察に舌を巻く。
ルースは自分に起きた事ゆえそれをわかっているが、何の情報もない所からそれを導き出す宰相に、ルースは“流石だな”と思うばかりであった。
「それでは私が二重人格であると、そう仰りたいのですか?」
しかしルースは敢えてはぐらかすように言葉を選び、宰相へと問い返した。
「いいや、そうではない…。何といえば良いのか…」
宰相にもそれ以上の説明は難しいようで、ルースの問いには眉をひそめて言葉を濁した。
「宰相閣下、まどろっこしい話はやめましょう。私は真実が知りたいのです」
その時、様子を見ていたセンティア王女が、2人のやり取りを見て焦れたように口を挟んだ。
「そうでした。仰る通りです、王女殿下」
宰相の言葉に頷き、セレンティアは口を開いた。
「これから見聞きする事は、この場だけに留めて下さい」
セレンティアの言葉は丁寧ではあるが、その言葉の中には“絶対に”という強い意味合いを含ませていた。
「かしこまりました」
ルースはそう答える他の選択肢はないし、これから何を言われるのかを思い、表情を変えぬだけで精いっぱいである。
その返事を確認し、セレンティアは話し出した。
「この国には王子が二人おります…いいえ、“おりました”と申しておきましょう。一人は王太子であるアレクシス王子、そしてもう一人はルシアスという名前の王子です、貴方と同じ…」
ルースはセレンティアを真っ直ぐに見つめ返し、次の言葉を待つ。
「しかしそのルシアス王子は今、病気のため療養中。ですが、それは表向きの話」
セレンティアはそう話しつつも、ずっとルースから視線を外さない。それはあたかも、ルースの心の機微を見逃さないよう注視している様な眼差しだった。ルースはそれに気付き、表情を変えぬようその話を黙って聞いていた。
そしてルースが何も言わぬのを見て取ると、セレンティアは言葉を続けた。
「表向きは病気療養中であり、そのため兄上は自室から出ていない事になっています。ですが本当は違うのです」
セレンティアが言わんとする事は、この国最大の秘密と言って良い事だろう。それを話し始めたセレンティを止める事なく、宰相も微動だにせず見守っている。
ルースは背中に冷たい汗が流れるのを感じつつ、動揺を悟られぬよう居住まいを正した。
「本当は…そのルシアス兄さまは行方不明なのです…。それはもう10年にも及ぶ事。あれからどんなに姿を探そうとも、我々ではその行方を知る事は叶わず、今もずっと行方不明のまま。……私は兄さまにお会いしたい」
そう言ったセレンティアに一瞬昔の面影が見え、泣き虫だったころの様に眉を下げ、今にも泣き出しそうな表情になった。
ルースは膝の上に置いた手に力を込める。
本当は今すぐ彼女の傍に行き、ここにいるよと言って抱きしめてあげたいのだが、それが出来ぬ立場を選んだのはその自分であり、そんな彼女をルースはただ見つめる事しか出来ないのだ。
「君は…そのルシアス殿下ではないのか?」
その時、黙っていた宰相が静かに問いかけた。
その声にルースの肩が一瞬揺れるも、ルースは宰相の問いにも口を開く事ができなかった。
「…貴方を見た時、私はとても懐かしい想いに囚われました。貴方の髪・目の色、そのどちらを見ても私の兄とは違う人物であると分かっています。それでもなお、貴方は私の中にすんなり溶け込むように入ってくる。だから私は確かめたいのです。貴方がルシアス兄さまのなのか否かを…」
セレンティアは、切ないような眼差しをルースへと向けた。
その金の瞳を受けとめるルースは、心を落ち着かせるために息を吐き、静かに目を閉じたのだった。