【291】誰?
『……』
ネージュが、何かに反応して外へと顔を向けた。
そうしてゆっくりと体を起こしたことで、ソフィーが首に絡めていた腕が抜ける。
「どうしたの?」
『……』
急に動き出したネージュにソフィーが聞けば、ソファーから降りたネージュは、まるで外の物からソフィーを庇うようにして立ち、黙り込んだ。
「?」
『気を付けろ。何か来るぞ』
緊張を含んだネージュの声に、ソフィーも何かあるのだとソファーに座ったまま身を強張らせた。
そうして数秒が長く感じた頃、窓の外に一羽の鳥が舞い降りたのだった。
ソフィーがいる部屋は一階で掃き出しと繋がる大きく設えた窓があり、その両開きの窓は今開けられている。
ソフィーを背に庇うようにして立っているネージュの後ろで、それを見たソフィーが目を見開いた。
「シュバルツ?」
その黒い鳥は、数か月前まで一緒に旅をしていた物に酷似していた。
その為、ソフィーは近付こうとして立ち上がろうとするも、ネージュがそれを止める。
『待て。あれは同じものではない』
「え…?でも…」
ソフィーの目には、それは大きな窓からこちらの中を見つめる小さな鳥、その脚首には金色の物が輝いて見えていた。その為、ソフィーにはそれがシュバルツにしか見えなかったのだが。
『元気そうだな、ソフィア』
その時どこからか声が聴こえてきて、それが念話であるとソフィーは気付く。
だが確かにネージュの言った通り、それは今まで聞いてきたシュバルツの話し方とは違っていた。
『お前は何者じゃ?』
『そうか、我は変わってしまっているからな。…そう威圧を向けるな、白きものよ』
ネージュの問い掛けに鳥は目を瞬かせると、ふわりと跳び上がり開け放たれた窓に近付いた。
『我は“シュバルツ”と呼ばれるもの。そして元は“黒きもの”と呼ばれていたもの』
そう言ったシュバルツの纏う気配が変わった事をネージュだけが感知し、ネージュは目を見開く。
『おぬし…ずっと姿を見せぬと思えば、魔物になっておったのか…』
ソフィーには、シュバルツの気配が変わった事も会話の意味も何一つ分からない為、ひとり取り残された様にソフィーが眉を下げた。
『すまぬソフィア。説明が難しいが、こやつはシュバルツであり我と同じ類のものでもある』
「ネージュと同じ?…って聖獣?」
『さよう』
ソフィーとネージュが話している間、勝手にシュバルツが部屋に入ってきた。
『…結界か?』
『当然じゃ。ここはソフィアの縄張りゆえ、我の結界を張ってある』
シュバルツがキョロキョロと室内を見回し、首を傾けている。
その仕草はただの鳥の様で、ソフィーは目を細めた。
『それで、おぬしは何用か?』
『…何用か?ではない。あやつらも今王都まで来ており、ソフィアの事を心配している。今も近くの壁の外まできたものの、中に入れず萎れていたゆえ我がこうして様子を見に来たのだ』
『そうか』
『それにしても、やはり聖女の傍は心地よいな』
思わずという風にシュバルツが言えば、『ソフィアは渡さぬ』とネージュがシュバルツを牽制した。
そこまで殆ど固まっていたソフィーが、首を傾けシュバルツに問いかけた。
「ねえ、シュバルツなのでしょう?それなのに聖獣だったの?」
ソフィーの疑問は尤もな事で、シュバルツとはずっと一緒に旅を続けてきたのだが、そんな気配は微塵も感じられず、しかも同類のネージュでさえ気が付いていなかったという事なのだ。
『そうだ。我はシュバルツという名を与えられた、昔聖獣であったもの。永き間、訳あって魔物として生きていたが、先日その戒めが解かれ、今は聖獣としての記憶を取り戻している』
「まあ!そうだったのね」
ソフィーはその言葉を受け、嬉しそうに目を輝かせた。
「じゃあ、“黒きもの”はフギンなのね?」
『『………』』
ソフィーの問いに、ネージュとシュバルツは黙ってしまった。
「え?…もしかして、違うの?」
『…戻せるのかえ?黒きもの』
『ここで戻しても良いのか?白きものよ』
『…仕方あるまい。ソフィアがそれを望んでおるようじゃ』
『しからば』
ネージュとシュバルツが話しているのを、ソフィーは口を挟めずに聞いていた。
ソフィーにはその会話の意味が分からぬものの、ネージュが体の大きさを変えられる事を思えば、シュバルツも大きくなれるのかと、息をのんでそれを見守っていた。
シュバルツが光に包まれて行き、その眩しさに目を瞑ったソフィーは、再び目を開いて瞠目した。
「ええ?!」
最早目の前のシュバルツは、シュバルツであってシュバルツでない物に変わっている。
小さかった嘴や体が大きくなる事は予想していたが、その形は鷲のような曲がった嘴と首を境にして毛並みまでも違い、烏とは似ても似つかぬものへと変化していた。
しかしその姿は凛々しく美しい物で、思わずソフィーは立ち上がりシュバルツに駆け寄っていく。
ポフッ
「綺麗ね!シュバルツ!」
シュバルツの首に抱き着くようにして貼り付いたソフィーを、ネージュは面白くなさそうに見つめている。
しかし、ここ数か月ソフィーがこんなに喜ぶ姿を見せた事がなかった為、ネージュは渋々口を閉ざしていたのだった。
『どうだ?これが本来の聖獣であった時の姿だ』
「すごいわね!別物になっちゃったわ!」
興奮気味に言うソフィーにシュバルツもまんざらでもなく、抱き着くソフィーを好きにさせている。
『ふむ。元気そうで良かったぞ。皆にもそう言っておこう。…だが少し小さくなったか?』
「……」
ソフィーはシュバルツから体を離し、困ったような笑みをシュバルツへと向けた。
「少しは痩せたかも知れないけど、取り敢えずは元気よ?皆も元気にしている?」
『あやつらは元気が有り余っている。今はルースの知り合いの知り合いの家に泊っている』
「知り合いの知り合い…ふふふ。そうなのね」
『そして勇者の儀に参加すると言っている』
「え?…」
『パーティメンバーが討伐隊に参加するのだから、自分達も一緒に行きたいと言っていた』
「……」
『良かったのぅ、ソフィア』
「…うん」
喩え言葉の通りに一緒に行く事が叶わなくとも、皆がそう思ってくれていると知っただけで、ソフィーは心が温かくなっていく。離れてしまった仲間と、こうしてまだ想いだけは繋がっているのだと、ソフィーはそんな皆から勇気と希望を受け取った様に感じていた。
それから姿を元に戻したシュバルツとソフィー達は、少しの間互いの事を伝えあっていたが、それは扉を叩く音で終わりを迎えた。
コンコン
「聖女様、間もなく移動のお時間です」
と、扉の奥から女性の声がする。
「はい、わかりました。準備します」
いつもこうして休憩が終わる頃に声を掛けてくれ、少しの間をおいて迎えに来てくれるのだ。
「ふぅ…もう行かなくちゃ…」
『そうか。それでは我も戻るとしよう。あやつらも首を長くしている頃だろうからな』
「また来てね?シュバルツ」
『ああ。呼ばれぬでも再び来よう』
そうしてネージュとシュバルツが視線を交わしてから、シュバルツは窓から飛んでいった。
それを見送ったソフィーは残念そうに肩を落とし、冷めてしまった紅茶に口を付けた。
「皆もここに来ているのね…」
『そのようじゃのぅ』
「見えなくても近くにいるって思えば、私も頑張れそうよ」
『そうか…』
シュバルツがいなくなり一気に静かになった室内に、再びノックの音が響くのは、それからすぐの事だった。
迎えに来たいつもソフィアの世話をする神官のスザンヌは、テーブルに置かれた物が、今日も手を付けられていないと分かり残念に思った。
スザンヌがソフィアという娘の世話をする事になった経緯は、スザンヌが申し出た事によるものだった。
教会の象徴とも言える聖女のお世話をする事は、教会に身を置く者にとっては名誉な事である。
初めてスザンヌがその姿を見た時は、その美しい姿に息を飲み、この方が今世の聖女であるのだと感動し胸が打ち震えた。
そしてその聖女の世話係として申し出たものの、まだ食べ盛りの年齢にも拘らず食事の量は少なく、菓子にも手を付けて下さらない。
スザンヌは心配げに微笑みを浮かべながら、聖女の次の移動先である大聖堂へと、何事も無かったかのように案内するのだった。