【212】静寂が降る夜に
「ただいま、父さん」
冷気が籠る薄暗い室内に、キースは足を踏み入れた。
父親の反応がないところをみれば眠っているのだろうかと思い、キースはベッドで目を瞑る父親を遠目で確認し、そこにいてくれる存在にホッと胸を撫でおろした。
早く父親を治したいが為に冒険者になったお陰で、船に乗っていた時よりも少し金も貯まるようになってきてはいるが、毎日冒険者ギルドへ行けば海の匂いがしない事に気付かれてしまいそうで、3日に2回は、今までの様に船に乗せてもらい、帰りに魚をもらってくる事を続けていた。
その為ルース達と一緒に行動するのは3日に一度という位だが、それでも少しずつ増えていく貯金に、キースは自己満足を覚えていたのかも知れない。
そして今日は、ルース達とワイバーンの討伐に出た事でその肉も分けてもらえたため、キースは少し浮かれていたのだと思う。
帰ってすぐに寒い部屋に明かりを灯す為、小さな暖炉に薪をくべて部屋を暖めてから、テーブルに置いた肉と食材を取って、キースはすぐさま料理に取り掛かった。
いつもであれば真っ先に父親に話しかけ体調を確認していたはずのところで、夕食の支度をする事を優先してしまったのだった。
キースは先程考えていた通り、今日は滋養の高いスープを作ることにした。
ワイバーンの肉はとても柔らかかったが、消化に良いようにと小さく小さく細切れにし、少しの青菜と一緒に煮込み、最後に卵を溶いて落とした。
味付けはいたってシンプルで塩を入れただけという物だが、肉から染み出た旨味も加わり、味見をしたキースが思わず「旨い」と自画自賛する位には、上手に仕上がったスープとなった。
そうして後はパンを用意するだけとなり、一旦火を止めて父を起こしに行く。
夕食の時間を少し過ぎてしまったが、肉を刻むのに少し時間がかかったので許してもらおうと、キースはクスリと笑みをこぼした。
「父さん、夕食が出来たよ?起きられる?」
キースはそう言って父の眠るベッド脇に膝をつく。
だがすぐに返事がなく、まさかと思い胸のあたりの布団を見れば、僅かながらに動いているのを確認し、キースはホッと息を吐いた。
「父さん?起きられる?」
再びキースが声を掛ければ、やっとそれで薄っすらと父親が目を開いたので、キースはありったけの笑みを向けて父親の顔を覗き込んだ。
この部屋の灯りは小さな暖炉だけである為、少々薄暗く、キースが覗き込めばそれが影になって父の顔色もはっきりとは分からない。
「具合はどう?今日はとっておきのスープを作ったんだよ?」
返事を返してはもらえぬものの、キースは一人、父へと語り掛ける。
「――キ…ス」
やっと乾いた口を動かした父親の声を聞いたキースは、喉が渇いているのかと水を取に行こうとしたところで、フレーリーの声がそれを止める。
「キース…お前に…話が、ある」
そう言われたキースが水を取に行くと父に伝えるも、それにフレーリーは首を振った。
「今…伝えなければ…ならない、大事なはなしだ…」
いつにもまして弱々しい父親の声に、キースは眉尻を下げて小さく声を落とす。
「父さん…」
布団からゆっくり手を出した父親の手を取り、キースはその顔を見つめる。
それを待っていたかのように、そこからフレーリーは訥々と話し出した。
「お前は…俺の本当の…子供ではない…」
大事な話と言うから聞いていればそれは今更な事で、キースはわかっていると言うように一つ頷いて返した。
「お前の…本当の名は…“キリウス…ゼクヴィー”」
キースはその話に瞠目しそのまま父を見つめれば、続けて棚にある葛籠を取ってくるようにとキースに言った。
この葛籠はずっと父親が大切にしていた物で、キースでさえ勝手に触らないようにと言われていた物だった。
キースは胸騒ぎを感じつつも、言われた通りにその箱をベッドの所まで持って来れば、それを開けろと言われ、キースは初めてその葛籠の中を見た。
その箱の中には、畳まれた黒い布と小さなおしゃぶり、そして1枚のハンカチが入っていた。
キースが父親に視線を戻せば、それを待っていたかの様にフレーリーが口を開く。
「それは…お前の本当の…家族との繋がり…だ。お前は20年前…王都の子爵家で…生まれたんだ」
そこで呼吸を整える為か言葉を切った父親は、キースが話を理解しているのかを見るように、じっとキースの瞳を見つめていた。
「お前は…キリウスは、ゼクヴィー家の…息子だ。…旦那様が、仕えていた侍女に……。そして生まれた子供だった」
キースは苦虫を噛みつぶしたように、口を引き結ぶ。
今のキースにはそんな事はどうでも良く、そんな楽しくもない出自を聞いたところで、何の腹の足しにもならないのだ。
「俺は…その家で、傭兵として…雇われていた。そして侍女が…子を産んだらしいと…話が聞こえてきたある日の夜、俺は…旦那様に呼び出された」
父親は当時の事を思い出しているのか、目を細めて天井を見ていた。
「旦那様は…赤子を俺に渡し…森に置いてこいと…。だが俺にはそんな事は―ゴホッゴホッ」
「父さん!」
もう良いからと言うようにキースは懸命に首を振るが、フレーリーは呼吸を落ち着かせると再び口を開いた。
「お前を連れて…旅をしている間…よく泣くし、よく笑うし…。どうしても見捨てるなんて、出来なかった…。だからここに…辿り着いた時に、俺の子として…育てると決めたんだ」
男手ひとつで赤子を育てる事は、きっと簡単な事ではない。それはキースの想像を超えるものであっただろうと、キースは歯を食いしばった。
不要だと言われた赤子を育てる決心をしてくれた父に、キースは深い感謝と更なる愛情が沸き上がってくるのを感じていた。
「もういい…もういいよ、父さん…」
目の前にいる父親が自分を愛してくれていると今までも十分に感じていたし、キースもこのフレーリーという人物を本当の家族だと思っているのだ。それを今更別の親の話をされても、キースはただ不快に感じるだけだった。
そしてはたと気付く。
ここまでの話を聞けば、なぜ頑なに父親がギルドに属さなかったのかを、聡いキースは気付いてしまった。
殺せと命じられた自分を助けたが為に、その存在を表に出せば、いつまたその関係の者が調べてくるかも知れず、それを危惧した父親が2人の名を公にせぬようにと細心の注意をはらい、教会にすら秘して自分を守ってくれていたのだと思い至ったのだ。
その時、父親の指先がキースの指を握り返す。
「俺がいなくなったら…ゴホッ」
「父さん、もう話さないで…」
キースも父親の手を握る指先に力を込めれば、フレーリーの優しい眼差しとぶつかった。
「父さんは又すぐに元気になるよ。教会に行って体を治してもらおう。父さんは…オレの父さんは、フレーリー・ロギンスだけなんだから」
キースはこの時ルース達や知り合いに金を借りてでも、すぐに父親を治してもらおうと強く思った。
「……キース」
ふわりと父親が笑った気がして、キースは握っている手をさする。
寒さのせいか父親の手が冷たくなってきている気がして、キースは自分の熱を分け与えるかの如く、自分の頬にその手を当てた。
「愛…している…」
「オレもだよ、父さん」
パチッと暖炉の薪が爆ぜる音が響くも、室内は一向に温かくなった気がしなかった。
嫌だ。この人を失いたくない。
弱々しく語り掛けてくる目の前の父親が、僅かな静寂に溶けてしまいそうな気がして、キースは顔を歪めた。
「父さん頼むよ、元気になって又オレと船に乗ろう。教会に行けば、父さんはすぐに元気になるんだから…」
キースは縋るように、懇願するように言う。
「…キース…」
ゆっくりと父親は名前を呼んで、キースを見つめていた。
その瞳は薄暗いながらも、光に反射するように輝いて見えた。
「…お前は…お前の信じる…ように………」
「父さん」
フレーリーの口元は動いているが、その声はよく聞こえない。
「あり…が…とう…」
辛うじて耳を近付ければそう言われた気がして、キースは自分が言う事だというつもりで、父親の顔を覗き込んだ。
「父さん」
フレーリーは眠ってしまったのかと閉じた瞼を見て思った時、キースの手の中で自分を握り返していた力がなくなったのだと気付く。
「…とうさん…?」
包み込んでいた手の中からポトリと抜け落ちた温もりに、キースが父の顔を覗き込めば、その目元には一筋の光が輝いていた。
しんと静まり返った室内に、キースは焦ったように父親の胸元を見た。
しかし、いくら目を凝らしても動いている様には見えず、キースは慌てて父親を揺する。
「父さん?父さん…とうさん!!」
いくら体を揺すってもその安らかな顔は目を開く事もなく、キースはその時初めてそれを理解し瞠目する。
「父さん!」
嫌だ嫌だと子供の様に顔を振るキースに、もう声を掛けてくれる者はいなくなったのだ。
「とうさん…とうさん…とうさんっ!!!」
キースは声を震わせながらただ父親を呼ぶも、雪降る夜の静寂の中、パチッと薪の爆ぜる音だけが、キースの慟哭に応えるかの様に響いていたのだった。