【185】海の男
フレーリーがそんな昔の事を思い出していれば、船の揺れが小さくなっている事に気付き視線を海の方へと転じた。
すると嵐が作り出す風に逆らい、船を取り巻く風が球の周りを荒々しく流れている事に気付く。
その風同士がぶつかっているのかはフレーリーにはわからないが、風は互いに反発するようにして徐々に動いているのだと分かった。
「嵐を弾こうとしているようだ」
そう言ったのはフレーリーの隣に仁王立ちするノイラ船長だ。
「さっきから風の流れを見ていたんだが、嵐が少しずつこの船を避けるように離れて行っている」
言われてフレーリーも確認すれば、確かに嵐は少しずつ遠くなっていると知る。
「後はあいつの魔力がどこまで持つか…だ」
ノイラの視線はキースへと向けられており、それを受けるキースは微動だにせずただ一点だけを見つめ、睨むような険しい表情を保ったまま額から汗を流している。
「頼んだぞ。俺の息子…」
フレーリーの囁きは、隣に立つノイラにさえ聞こえないものであった。
キースの作り出す風は、右巻きに吹く嵐の風を反らすように左巻きに育成されていた。そうして船から風を受け流すように誘導すれば、嵐はキースの作り出した暴風によって左へと逸れてゆくだろう。
だが元々が大きな力を持つ嵐であり、その流れを誘導するだけでも大量の魔力を消費する事になった。
キースは初めの内こそ目を凝らし、船の安定感や破損等周りを気にする余裕があったが、次第にキースの目には己の汗が入り込み、その視界は滲み視点も定まらなくなっていった。
後どれ位魔力が残っているのかキース自身にもわからなかったが、まだ生成した魔法からは圧が返ってくる事を鑑みれば、気を抜くには早過ぎるのだと理解する。
こうしてどれ位の時間が経ったのか、最早視界は真っ暗となりキースの目にはもう何も映ってはいないが、少しずつ手応えが軽くなっていると気付き、やっとそこで目に入った汗を流すために数度瞬きをする。
しかし、まだ完全に去った訳ではない事だけはわかるキースは、そのまま気力と魔力が続く限り、魔力を放出していった。
そしてついにガクリとキースの膝が崩れ、発動させていた魔法が一気に飛散すれば、再び甲板には雨と風が注がれて船員たちを濡らしていった。
「キース!」
「おいっキース!」
フレーリーと船長が同時にキースへと駆け寄るも、その一歩手前でキースはドサリと甲板に倒れ込んだ。
慌てて駆け付けた2人が膝をつき、フレーリーがキースを抱き起す。
「キース!」
「…あ…ごめん、オレの魔力じゃ…無理だったみたいだな…」
「いいや、お前はやり切った。この雨は嵐の名残で、本体はもう離れていった後だ」
ノイラは、キースの風魔法で反らした嵐が離れていった事を感じていたが、集中しているキースに声を掛ける事をためらっていた為、キースは限界となり倒れてしまったと言って良いのだ。
「悪かった。もっと早くに終わらせてやれば良かった」
「ん?…いや、もう終わったならいいんだ…」
いつになく素直なキースの言葉に、ノイラは奥歯を噛みしめた。
「ありがとうキース。お前のお陰で、嵐をやり過ごす事ができた…」
「そう…良かった…」
そう言ったキースは瞼を重たそうに半分下ろし、やっと目を開けている状態だった。
「キース…」
「ノイラ船長、大丈夫だ。多分魔力を大量に使って体力も奪われているんだろう。寝かせておいてくれれば、良くなるはずだから」
「ん?父さん?…そうだな、少し眠りたい…」
そう呟いたキースはそれきり目を閉じると、暗闇に飲み込まれるようにして深い眠りへと入っていった。
その後、甲板は船員たちの喜びの声に満ち溢れたが、キースは深い眠りに落ちていた為、その声を聞く事はなかったのである。
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キースは揺蕩う意識と共に、自分の体も揺れていると感じる。
(あれ…朝…?そろそろ起きないと)
ゆっくりと瞼を開いたキースは、予想外の体のだるさに、自分が魔力を使い過ぎて眠りについていた事を思い出す。
「ああ…そ…だった…」
「起きたのかい?」
薬草の匂いがする部屋で、目覚めたキースに声を掛ける者がいた。
どうやらここは医務室らしいと匂いで気付いたキースは、ゆっくりと体を起こす。
「特に体に異常は見られなかったから、取り敢えず寝ていてもらったんだけど、体に違和感はあるかい?」
キースへ語り掛けるのは、この船で医療全般を任されている魔女のチタニアだった。
チタニアは40代で日に焼けた顔にはソバカスがあり、三つ編みにした腰まである黒髪を片方に垂らし、ゆったりした長衣を纏った女性だ。
彼女とも付き合いが長いキースは、それこそ小さい時には良くチタニアがいるこの医務室で過ごさせてもらっていた為、母親のようなとは言わずとも、年の離れた姉のように気安い間柄だった。
「ん…大丈夫みたい。ちょっと怠いけど、問題ないよ」
キースの乗るベッドへ近付いてきたチタニアから、カップに入った水をもらい、キースは乾いた喉を潤す。
「そりゃー良かった。キースがここに遊びに来たんじゃなく、運び込まれてきた時は驚いたよ」
「あー魔力の使い過ぎ?」
「いいや、魔力はまだ多少残ってはいたから、気を失ったのは集中していた事で、気力と体力を使い過ぎたからって事みたいだね」
「うわぁーダサッ」
「本当だよ。キースは海の男なのに、体力が無さすぎなんだよ」
「それを言われても、船長みたいにムキムキにはなれないんだから、仕方ないだろう?」
頭を掻いているキースに、チタニアは目を細めた。
こうして何でもない事のように言っているが、キースが運ばれてきた時には本当に心配して、真っ青になったチタニアだった。
「まだ寝てていいよ」
「ん?オレ、どれ位寝てた?」
「一日半だよ」
「えー。流石に体が強張ってるはずだなぁ」
「魔力の方は?」
「んー…もう殆ど戻ってると思う」
「流石に若いから、回復も早いんだねぇ」
「チタニアもまだ若いじゃん」
「あはは。嬉しいこと言ってくれるじゃないの。後で果物もらって来てやるから、もう少し寝てなさい」
「うん、そうするよ」
キースはそう言って目を瞑ると、やはりまだ回復できていないのか、又すぐに寝息を立て始めていたのだった。
チタニアは長い航海の間、船員たちの面倒や体調を見るために雇われている魔女だった。
船が出ない間は町にある自分の店で薬を作って販売し、ノイラの船が出る時だけは店を休み、一緒に船に乗るという生活をもう20年ほど続けていた。
そのため小さい頃からキースを知っており、まだ船員の手伝いが出来ない頃には、キースはよく医務室にいてチタニアが面倒をみていたものだ。
キースは昔から聞き分けが良く、手の掛からない子供だった。
それはキースが魔力を出現させてから、どんどん魔法が使える様になっていった事でもわかるように、周りの状況を理解し、自分が何をして何をすべきではないといつも頭の中で考えている、そんな頭の良い子供であったからだろうとチタニアは思う。
キースは子供らしくない子供だった。
性格は人懐こく誰とでもすぐに打ち解けるものの、彼が感情を高ぶらせたところをチタニアは一度も見た事がない。
魔力を出現させたという他の船での事は知らないが、キースが感情の波を表さない事を、チタニアは少し心配してる位だった。
“魔力は感情に引きずられる“
それは魔法を学ぶ者は皆習う事ではあるのだが、キースは誰に魔法を習うでもなくそれを独自に理解したのだろう。
「きっと君は、小さい頃から大人だったんだろうね」
それらの考えを締めくくる為、チタニアはそう小さな声で独り言ち、キースの果物をもらいに静かに部屋を出て行ったのだった。
その後、船は順調に漁を終えて帰路についていた。
予定より一日早く日程を熟して戻る船は、景色だけ見れば右も左も同じ海が見えるだけで、あと一日でルカルトの港に到着するようには見えないが、船員たちは風の匂いと海の色で故郷が近くなったとわかるのだと言う。
そうして船員達が近付く故郷の気配に多少気が緩んでいたからか、隙を突いてくるようにそれは起こったのだった。
(ご注意)作中で、風同士をぶつけ軌道をそらせるという表現をしていますが、これは現実的な話ではありません。と思います。
実際の可能性としては、キースの作り出した風の周りを嵐がまわり続ける事が考えられます。ですが、ここはお話の中ということで、あくまでイメージ的に受け止めて下さると幸いです^^;