【184】息子の成長
嵐が近付くにつれ、船は波に翻弄されて揺れる。
うねりを伴ってきた海は陽が落ちはじめた薄闇の中で、その嵐の存在を明確に伝えていた。
「デカイな」
キースは荷物を縛る船員たちの手伝いをした後、船の中心となる甲板に立ち、放心したようにそれを目にして呟いた。
魔法をどのように掛けようかとキースはある程度考えてはいたが、この大波では海上だけを覆っても波から受ける衝撃だけで、船を破損させる可能性も出てきた。
もっと小さな嵐だと思っていたキースは、近付いてくる嵐にその考えを改めなければならなくなったし、魔法の規模をもっと大きくしなければと同時に悟る。
「どうしたキース」
そこへ船員たちを配置につけ終わった船長が近付いてくる。
その気配にキースは振り向き、振り出した雨を受けながら視線を合わせる。
「これは大嵐ですね」
多少の虚勢を張り、キースは何でもない事のように言って見せるも、そこは付き合いの長いノイラは誤魔化せなかったらしい。
「どうした、怖気づいたか?」
揶揄いを含んだ声で言われたが、キースは思わず素直に頷いてしまう。
「この規模だと、オレの魔力が持つか分かんないんですよ。オレは今まで全力で魔力を使った事がないんで、自分がどれ位持つのか、全く分かんないから」
「だからさっき言ったろう?ダメで元々だと。俺達はここで自分にできる最善をするだけだってな」
「そうだった」
キースは勢いを増す雨に打たれつつも、全てを受け入れた顔でノイラを見返した。
「俺もお前の傍にいてやる。ぶっ倒れりゃ、後は俺達が何とかしてやるって事よ」
キースの頭にポンと手を乗せたノイラは、その頭をくしゃくしゃと撫でた。
「オレ、もう子供じゃないんだけど?」
「ん?ああ、お前さんが子供のような顔してたんで、ついな」
ガハハと笑った船長は、次の瞬間には遠くを見つめその面差しを引き締めていた。
キースの近くにはもう一人、父親のフレーリーが近付いてきており、キースと視線を合わせると一つ頷いて見せた。
さあ、そろそろと言ったところかと、キースは荒れ狂う海を見据え、覚悟を決めたのであった。
甲板を走り回る船員たちの靴音が、風の立てるゴウゴウという音によって消されて行く。
随分と船が揺れるようになり、浮遊感が増してきた船でも、船員たちはその揺れに耐えながらも動き回っている。
「落ちんじゃねーぞ!流石に今回は助けてやれねーからなぁ!」
「「「「「へいっ!」」」」」
ノイラの張り上げた声は辛うじて船員たちに届き、返事を受けたノイラはキースへと視線を巡らせた。
「そろそろだ。準備はいいか?」
もう嵐としての形を視界に入れる事は出来ないが、このうねりと風の音で判断するのなら、嵐に巻き込まれ始めている事になる。
「できてるよ」
そう返したキースは、大きく息を吸ってから体の力を抜いた。
もう掴まっていないと立っていられない程に揺れる船の上で、キースは足に力を入れて自力で立つ。
目に視える者にはキースが今、魔力を溢れさせ輝きを帯びている様にみえただろうが、ここにはその魔力を視る事の出来る者は一人もいないのである。
「キース!」
キースから少し距離を取ったノイラは、合図を送る意味で名を叫ぶ。
「りょーかい」
それに軽く片手を上げたキースは、既に荒れ狂う風の音を遮断し、自分の中で膨らむ魔力に意識を集中していた。
「“気泡球“」
キースから紡がれた言葉が落ちると、キースを中心にその球が広がっていく。
それは留まるところを知らぬかのように大きく膨らみ、そして大型の船を包み込んで行った。
それはただ船を水の膜で包んだだけの魔法で、それでは海に浮かぶ球であり、その球は船を包んだまま荒れ狂う波に揺さぶられているだけだった。
ノイラは初めこそ展開されて行く魔法が船を包み込むさまを見て、驚きと喜色を浮かべたものの、これでは船の状態は一向に安定しておらず、ここまでかとノイラは小さな息を吐きだした。
球に覆われた船はそれだけでも、甲板の上に襲い掛かる雨と風を防いでくれており、それで安心した船員たちが歓声を上げようとした。
しかしキースもノイラと同様に、これだけでは船が耐えられないと既に気付いており、次の一手に打って出る。
歓声を上げるのはまだ早いのだ。
風は右から巻き付くように襲っていている事を確認し、キースは再び口を開く。
「“殺滅嵐“」
キースは今維持している球体の外側に、嵐に逆らうように逆回転の風を発生させた。
それは物凄い力で襲い来る風を、素手で押し返すような手応えをキースに伝えてくる。嵐は圧力となって押し迫り、魔法で風を維持するキースへ、与える魔力が足りぬのだと伝えている様でもあった。
(想像していたよりも…キツイ…)
キースは球体を維持したまま、魔法の重ねがけという方法を取った為、風に使う魔力と球体を維持する魔力、両方に気を配る必要がある。
初めて使った“魔法の重ね掛け“ではあるが、状況だけみれば成功と言えるだろう。
しかし反発させる風魔法の威力を維持するには、キースが思っていた以上の魔力が削られ早速額から汗が流れるのを感じていた。
フレーリーは自分の息子として育ててきた者の放った魔法を、手を貸せぬもどかしさを抱えながら黙って見守っていた。
手の内にすっぽりと収まる程に小さかった赤子は、時を経て皆を護るために自分達を背に庇う程に大きな人物へと成長したのだと、フレーリーは胸の内に湧き出す温かなものに目頭を熱くさせ、これからもこの者がただ幸せであるようにと、心の中で深く祈っていた。
フレーリーがその赤子を始めて見た時、その子は真っ黒な布に包まれ辛うじてその可愛らしい顔を覗かせていただけで、泣き出すでもなくスヤスヤと眠るそれを落としてしまわぬよう、フレーリーはしっかりと腕の中に包み込んだのだった。
「なるべく遠くの森の中に置いてこい」
当時の雇い主はそう言って、この赤子をフレーリーに手渡してきた。
「えっ旦那様…しかし」
「御託は許さん。これは我が家とは何の関係もないもの。それがどうなろうとも我々の感知する事ではないのだ。頼んだぞ、ロギンス」
そう言った雇い主の冷たい目は、その冷酷さを表すかのように凍えるような薄い青色を湛えていた。
フレーリーはこの家に雇われた只の傭兵であり、ここで反論できる立場にはなかった。
「畏まりました」
「お前には戻り次第、特別に手当てを渡そう。無事に役目を終えて戻ってくる事を、楽しみにしていると良い」
雇い主にそう言われ、ああ俺もここに戻ってくれば口を塞ぐために殺されるのだろうと瞬時に理解したが、「ありがとうございます」という以外の言葉を持たぬフレーリーは、今まで貯めた金と少しの身の回りの物を持ち、闇夜に紛れ手渡された赤子を連れて、人知れず王都という華やかな町から姿を消したのであった。
フレーリーはこの時33歳。
今まで一度たりとも結婚をしたことがなく、当然赤子の世話などした事もなかった。
出発した夜は不眠不休で移動を続けたが、度々魔物が近付いてくる気配に何とかそれを躱しつつ、疲労困憊で朝を迎える事になった。
しかしそんな時ですら、赤子は容赦なく泣き叫ぶ。
それはそうであろう、夜の内は辛うじてぐずらずに過ごしてくれていたが、流石に腹が減ってはそれを伝えるために泣き叫ぶのだ。
ああそうだった、と自分の水分補給すらままならないフレーリーだったが、誰が用意してくれたのか、渡されていた小さな荷物に、赤子用のミルクとおしゃぶりが入っているのを見付け、おっかなびっくり赤子の面倒をみることにした。
ただし、色々と手際が悪かったようで、余計大きな声で泣き出したときは、流石のフレーリーも慌てふためき、何がいけなかったのだろうと頭を悩ませつつも、ぎこちない手つきでその赤子が落ち着くまで抱き上げあやし何とか静かにさせる。
そんなやり取りを経て、長い時間をかけて色々な町を通過し育児を教わりつつも、その後、国の最西端に位置する町ルカルトへと到着したのであった。
「結局、俺はこの子を見捨てる事は出来ないって事だな」
こうしてルカルトへ着く頃には、捨てて来いと言われたこの赤子に情を抱き、結果手放す事も出来ず、フレーリーは自分の息子として育てようと結論を出していた。
どうせもう、自分も戻る場所はないのだ。
ここまで来れば自分達を知る者は誰もいないのだと、その赤子を“キース“と呼んで町の外れの長屋に住みついたのは、今からちょうど20年前の事であった。