【182】港町
「キース、もう出かけるぞ」
「わかった」
町の外れにある粗末な家が立ち並ぶ一角。
キースと呼ばれた青年は、白髪が目立ち始めた父親と一緒にまだ日の昇らぬ早朝に家を出て、長屋が連なる荒れた道を通り抜け、町の中心へと向かって行く。
ここは港町で国の西にあると言われているが、そんな事はここに住まう者達にはさして気にならぬ事であり、日々の暮らしの為にその日を過ごす事に重きを置いていた。
こんな朝早い時間ではあるものの、この辺りの住人は既に起き出している者もいて、道の脇にある井戸で水を汲み洗濯をしている者もいた。
「おはよう、ステラさん」
「あらおはよう、フレーリー、キース。今回は長いのかい?」
「んー、一週間位」
「そうかい。気を付けるんだよ」
「ありがとう、じゃあ行ってくるね」
ここは少々くたびれた長屋が続く地区だが、その多くが永く住んでいる者達で、その分皆が家族の様に気安く声を掛けあいながら暮らす、貧しくとも人情味溢れる場所だった。
キースは今年20歳になった青年で、この辺りでは珍しくもない黒髪だが目の色は薄い青色で、輝く宝石の様だと褒められる位この辺りでは多少珍しい色をしている。
それはキースの父親であるフレーリーとは似ても似つかない色で、面差しも目の色も、その上髪の色も父親と呼ぶフレーリーとは同じ所がひとつもない。
だが、そんな事はここに住む者達に興味はなく、今ここにあるものが全てなのだと、この親子のありのままを受け入れてくれている。
その父親は、こげ茶色の髪に茶色の目をした50過ぎの男で、気付いた時にはキースは父親と2人暮らし。男やもめの家では手が足りぬだろうと、近所の女性たちはこうしてよく声を掛けてくれるのだ。
「父さん、今日はバーネットさんの船なんだろう?」
「ああ」
「だよねぇ…」
「どうかしたか?」
「んー。バーネットさんは人は良いんだけど、人使いが荒いんだもんな。いつもギリギリまでこき使われるから…」
「はははっ。まあ大概海の男は人使いが荒いから、仕方がないと諦めろ」
「はぁ~。まぁもう慣れてるけどね」
2人は肩を並べ人通りの少ない町中を抜けると、そのまま海際にある港へと歩き続けた。
そうして見えてきたルカルトの港には、いつもの通り大小の船がずらりと並び、荷を積み込む者達や船の点検をする者達で溢れかえっていた。
キースはこうして、港に浮かぶ船を見るのが好きだ。
キースは小さい頃から父親に連れられ、この港の風景を見つめてきた。
大きな海を前に臆さず出港していく船は、何物にもとらわれぬ自由を手に、勇ましくそして美しい程に力強く、人と物を繋ぐ役割を担い、胸を張るように大海原へと消えてゆくのだ。
キースは大きな貨物船を横目に港を進み、その奥にある漁船の船着き場へと向かって行った。
「「おはようございます」」
今日キースたちが乗る船を見付け、その中で忙しそうに動く船長のバーネットに声をかけ挨拶をした。
「ああフレーリー、キース、おはようさん。今回もよろしくな」
海の男は荒くれ者が多いと言われている中、このバーネットは温厚な性格なのだが、むき出した腕は筋肉が盛りあがり、大きな体躯とその顔に入る頬の傷を見れば、初見の者はたいがい大人しくなるほどの風格と貫禄を持つ男だった。
キースは小さい頃から父に連れられ、このバーネットの船に乗っている事もあり、付き合いは長く気心しれた間柄だと言って良い。
今日はこれからこのバーネットが持つ漁船に乗り、一週間をかけて沖合に設置してある定置網から魚を引き上げて帰ってくる予定だ。
こうしてフレーリーとキースは、今回の雇い主であるバーネットの船に乗ると、出港までの準備を手伝い、そして一週間の船旅に出るのであった。
キースは一番古い記憶の時から、既に父であるフレーリーと2人であの長屋に住んでいた。そして父のフレーリーは港から出る船に乗り、漁師として船を手伝いつつ、腰に下げた剣を使い海の魔物と対峙し、他の船から漁船を護る用心棒として、色々な船に雇われながら生計を立ててきていたのだった。
そうなると幼子を一人残し、一週間、時には一か月単位で家を空ける訳にも行かず、キースも共に船に乗せてもらい、時には船員に遊んでもらいながら、逞しく成長していった。
そして8歳の頃、キースの乗った船が荒れ狂う嵐と遭遇しそうになった時、慌てて船を移動させる船員たちの焦りを敏感に感じ取ったキースは、子供心に怯え不安を抱き、感情を溢れさせてしまった事で魔力を暴発させ大風を巻き起こしたのだ。
だがそれが、逆に運よく船を嵐から遠ざけ難を逃れたという奇跡を起こしたのだった。
それを見た当時のバーネットは、
「キースは偉大な魔法使いになる素質がある。これからもどんどん魔法を使ってくれて構わないからな」
と、今大事を起こしたばかりであっけにとられる子供に向かって、そう豪快に笑って言った言葉は、それからのキースにとって良くも悪くも、魔法という物を使いこなす為の心の支えになったと言えたのだった。
こうして魔力を目覚めさせたキースは、父親は剣を使い、息子は魔法を使える親子だと、船の護りとして船乗りの間で話が広まっていき、フレーリーと共に数々の船に雇われる事になったのである。
父さんは剣を使えるのに、どうして陸で剣を使った職に就かないのか、キースは小さい頃に一度フレーリーへ聞いた事があるが、陸は性に合わないのだと告げられたため、それ以降キースは何も聞く事なく、父と共にこうして船の護衛兼漁師として、日々雇われる生活を送っていた。
キースはルカルトの港を出港してから暫くして、船縁に立って海を見ていた。
今回の航行は今のところ嵐の気配はなさそうだと、気の乱れがない事を確認して今度は船尾に向かった。
「今日は凪だ。キース、頼んだぞ」
そこには既に船長のバーネットが仁王立ちしており、キースが来ることがわかっていてニヤリと口角を上げた。
「はいはい。分かってますって」
そう言って苦笑するキースは、長い付き合いの船長が、キースの魔法で船を動かす事を既に想定しているのだと気付いていた。
この船は帆船と呼ばれる船で、港から一定の区間までは人力で櫂を使って任意の方向へと移動させた後、ある程度の沖合に出ればそこからは風を読み、帆に風を受けて進ませていく船であった。
「人使いが荒いなぁ…」
「今更か?」
気安い会話を交わし、キースは船尾に立って目を瞑った。
そして体内にある温かなものを徐々に膨らませると、それを吐き出すために口を開いた。
「“海神の吐息“」
キースの魔法はほぼ独学といって良く、人が使っている魔法をたまたま見て覚えたものもあるが、その殆どはどうしたいのかを想像した時に、口を突いて出てきた言葉を発しているだけと言える。
それは魔法を学んだ者からすれば鼻で笑われる事かも知れないが、生憎キースにはそんな知り合いもなく、ケチを付けられることなくここまできた為、その魔法は独創的なものとなっていた。
それは元々キースの地頭が良かったせいで、何の教えも乞う事なく魔法を使えるようになったのだが、当の本人はそんな事は一切頓着せず、今日も今日とて自分の想像の通り魔法を使い、この船に力を貸していくだけなのであった。
「相変わらずキレッキレだな、キースの魔法は」
バーネット船長は嬉しそうに顎髭を撫でながら、そう言って満足気に膨らんだ帆を見上げている。
「それはそうでしょう?バーネットさんにはこき使われてきましたからね。それなりに魔法も使える様にはなりますって」
「ハッハッハ。立ってるものは親でも使えって言うだろうが。ただで金がもらえる訳じゃねーんだ。キースにはどんどん働いてもらうからな」
キースが半分嫌味で返した言葉も、バーネットは豪快に笑い飛ばす。
これは互いに気心の知れたものだから掛け合える会話であり、この船に乗り込んだ新人の船員はこの2人のやり取りを見て、拳が出るのではないかとハラハラしているようであった。
「じゃあキース、船尾を頼む」
「りょーかい」
そう言ってキースの肩を叩いたバーネットは、船長室へと戻っていった。
キースはこのまま風の様子を見ながら、再び風がなくなれば追い風を作り出し、船を進めるのだ。
その間船員たちと父親は漁場に着くまでの間に、次の網の準備をしたり船員たちの食事の準備をしたりと、各々が持ち場について働くのだ。
「今日は凪だから、海が静かだなぁ」
広く抜ける空を見上げたキースは一人海風に髪を靡かせながら、束の間の静けさを楽しむのだった。