花葬
顎まで伸びたダウンの襟と首の間を、幼い冬が通り過ぎて行った。
耳たぶは揺らせないが、私の身体を震わすことには充分だ。
右と左に整列した家屋たちの膝下を、ポケットに手を突っ込んだ私がコツコツと歩いている。この道を真っ直ぐ行くと、5分ほどでマクドナルドに着く。
別に空腹に耐えかねているという訳ではない。
幾らかの文学をしたためるのにコーヒーが欲しいのだ。
コーヒーの何が、どう作用して名作が生まれるのかは定かではないが、若干の苦味を受け入れることで自然と文字が湧き出る。
プラシーボ効果というやつだ。
今し方、それを燃料にして書いていたところだったのだ。
あれと…
これと…を考えていると、一つの花屋の前にかかった。
よく見ると店の中は鮮やかな植物達がひしめき合っている。
紺と茶で埋まった私の視界で光る姿は、小さいながら虹である。
あまり人に理解されないが、私が花が大好きだ。
意図は違えど彼女らは、鮮烈に、華麗に、秀逸にすましている。
私たちはそれを「愛している」だとか「ありがとう」だとか、時に「復讐」を「幸運」に隠しては、人に贈ったり贈られたりする。
私が特に気に入っているのはシロツメクサである。
クローバーを葉にもつ彼女は、シンプルだが洗練された華やかさと美しさで多くの人々を魅了している。
店頭に並んだカラフルな姫君たちのカーテシーは、購買意欲を誘って仕方がない。
だがお生憎、今買ってしまうと荷物になってしまう。それに、唐突に花束を渡せる予定もない。心惜しいが、目を逸らし、過ぎ去っていく私を許して欲しい。
苦し紛れに視線をずらすと、あるものが目に入った。
あれは…、ドライフラワーというやつではないか
数年前から巷に現れたそれは、店舗の側面のガラス戸を一面覆い尽くしている。あの名曲の影響か、それとも他の所以か、とにかく目障りに、しかも私の予想と期待に反して登場する。
何故こんな言い方をするのかというと、私はドライフラワーが好かないからである。
私たち人間共は、どうして“花”に興味を持つのだろうか。
高度な文明を築き、動物や植物を下等生物扱いする割には、四季に浮かぶ姫君たちにお膳立てしたがっている。
酒を浴び、
肴を喰らい、
メモリを喰らい尽くす光景は、毎年の恒例行事となりつつある。
もしも彼女らがSNSを入れた時、タイムラインを埋めるのは
「また人間がウチらを背景にして草」
「見て欲しいのは私たちじゃないでしょ」
「【悲報】人間さん、毎年同じ事を言っている」
かもしれない、と私は考えている。
けれど、彼女たちは絶対にそんな事を口にしない。
当たり前だ、植物は喋りはしない。
自分のため、子孫のため、種の存続のため、数億年かけて進化してきたのだ。人間が数千年やそこらで身に付けた美意識とは、遥かに“格”が異なる。表面に醸し出されたそのポテンシャルは、私たちの記憶の端っこに小さくても鮮明に写り続いてゆく。
もしかすると、人間は羨ましいのだろう。たかが数週間に100%を灯せる彼女たちが。
自己実現欲求は誰にでもある。
あなただってそうでしょう?
とあるカフェテリアの店内で1人の男が作業をしている。
午前10時に開店するため、次へ次へと仕事をこなしているのだ。
ふと掃き掃除の最中、彼はある事に気付く。
おや、こんな所にドライフラワーがかけてある
前まではなかったな、と。
彼は同じシフトの正社員に尋ねる。
「ドライフラワーが掛けてありますね。」
バックヤードとキッチンとを結ぶ引き戸の枠にかかってあるそれを指差した。
「そうだね。それは私が飾ったの。」
女は整然として言い放つ。
飾った?「飾った」…か。
腐ったチューリップのようなものを中心とした植物の集合体。
かつては美しかったのであろう彼女らは、今ではもう見る陰もない。薄茶に変色しきった肌は、炭酸水の気泡のような凹凸とサバンナを彷彿とさせる激しい乾燥で見ていられない。
一体彼女たちはどれ程の業を背負っているのだろう。
枯れ果てた、色気も端麗さもとうに枯渇したあられもない姿。人前に、あまつさえ逆さに吊るされてさらけ出されている。到底、“飾る”という動詞に相応しくない目的語だ。
今年に新卒で入社したその女は、「何か言えよ」という顔で彼を凝視する。彼も一応は人間だ。本音を言おうものなら、8時間弱の勤務がどれほど悲惨になるかを察していた。
「凄く、綺麗ですね…、センスある。」
奇しくも、女性をおだてる時と同じことをしている事に気づいた。
女は、「そうでしょ当たり前でしょ私が選んだんだから」という顔で、
「そうよね。これね、私が選んだの。」
と言った。平然を装ってはいるが、鼻の付け根から頬にかけて出来た細いシワを彼は見逃さなかった。
「今日もがんばろーかぁ。」
キーが0.4個上がった声で放っては、バックヤードの奥へと消えていった。
彼は安寧の吐息を漏らし、作業を再開した。
あの女は、「センス」が「有る」に反応した。おそらく、「綺麗」だとか「エモい」みたいな陳腐で量産型の褒め言葉は、誰に言われたか忘れるほど耳にしたのだろう。あの類の者はそれじゃあ満足しない。もっと貪欲だ。
花屋では彼女ら以外にも似たような束が幾つかあっただろう。「その中で私はこれを選びました+綺麗でしょ+良いでしょ=選んだ私センスあるでしょ」という方程式で分かる。
あの女が欲していたのは、ドライフラワーを崇める無彩色の既製品ではなく、そのドライフラワーを選んだ自分に対する有彩色のプレゼントだ。カラフルなラッピングで撹乱しているが、包み紙の内には何も無い。ただ閑散とした空気で満たされているだけだ。
しかし、それが大変お気に召されたようで、その日彼は平和で穏和なカフェテリアの店員を満喫できたらしい。
生花の扱いよりもデリケートだな、とか考えたりもしたらしい。
町内のスピーカーから曲が流れ始める。
よく知らないのだが、カラスと共にサヨナラを告げるらしい。
うちのお店では、その民謡と真っ白なブラインドカーテンを下げるのが閉店の合図だ。
日中、お洒落なスピーカーから流れていたカフェっぽい・ジャズっぽいBGMの止まった無音の店の頭上を、数十羽のカラスが通過している。シンクに溜まった洗い物を少しづつ消化している彼を励ますように、鳴き声を懸命に届けているのだろう。やがて掃除に取り掛かった彼は、砂と少々の埃の間にドライフラワーの花弁を見つけた。
何かの拍子に取れてしまったのだろう
注意して摘み上げた彼は少し哀しくなった。
彼女らは後どれくらい体が削がれていくのだろう
何本まで減ったら捨てられるのだろう
少し乾燥した指先で、僅かだが摩擦音が生まれている。
せめて精一杯の弔いをしよう、社会性生物のエゴイズムに過ぎないが、どうか許して欲しい。亡骸をお椀の形にした手に包み、裏口に回る。
彼の勤めるカフェテリアでは、使用済みのコーヒー豆のカスをコンポスターに捨てる決まりがある。
子供用プールより少し小さいくらいのその入れ物の蓋を開け、豆のカスをバケツから掻き出す。
はたして効果があるのかないのか、アルバイトの彼には知る由もない。ただ、「土に還るのは万物の本望」という人間お得意の後付け言い訳主観漬けが、ここで2回も発揮されてしまった。
向こうの向こうの海の方へと夕日が落ちた、午後5時27分。
土か豆かも知ることができない棺桶へと、彼は手を合わせた。
意味なんてない
何も起きやしない
でもせずにはいられない
せずにはいられなかった。
すっかり夜を受け入れた11月の港町。
自転車ごと包み込んできた不思議にも生暖かい風に、
彼は“海風”と名付けた。