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エアコンのない生活にだけは慣れない。
朝の起き抜けに感じる肌寒さ。もしくは、ぬるま湯を浴びたような湿っぽさ。両者とも恐ろしく不愉快な朝を告げる状態だ。
そう思うと、前世のエアコンという存在は偉大だった。冷房や暖房だけじゃない。保湿や除湿もしてくれるんだ。結構昔の日本では、三種の神器とやらが革命を起こしていたが、今世ではエアコンだったね。異論は認めない。朝苦手な人は分かってくれるよね。
とまあ、そんなところで現状を言うならば、とにかく湿っぽく、とにかく暑かった。石灰壁の何の面白みもない廊下を自堕落に歩き進めている。
セキュリティを気にしていると聞いたことがあるが、換気しないのはどうなんだ。小窓くらい開けないか。サウナだよこれじゃ。
暫く歩いて、一つの豪奢な扉の前で足を止める。ため息も悪態も心に留め、一気に表情を引き締めてから軽く扉を押した。
「悪いな、朝から呼び付けてしまって」
視界が変わる前に、その厳かな声は鼓膜に響いた。落ち着いていて、それでもなお威厳と気迫を感じさせる声。HIPHOP界のレジェンドZeebraさんくらい声が渋い。大分マイナーな例えかなこれ。まあ、自分としてはもう大分聞き馴染みのある声だ。何たって、ここの家主で、俺の主人であるのだから。
そして、だからこその違和感が生まれる。彼は滅多に朝からこの空間に足を運ぶことなんかない。重要な事柄を伝えるときか、娘の誕生日を祝うくらいの時だけだ。それだけに、俺個人で呼びつけられるこの現状が些か不気味で不安に感じられる。
「いえ、滅相もございません」
俺は、視界に彼を治めると深々と頭を下げた。厳格な声に相応しいダンディーな顔だ。髭を生やしている人間をかっこいいと思った事は、日本では一度もなかったのだが、彼の前ではそんな陰口は生まれない。ハリウッドばりの堀の深さと目つきの鋭さ。流石、上流貴族の主人だ。
「あまり畏まるなと言った筈だが、もう君の身分はそう言ったものではないだろう」
「そう、ですが」
「──まあいい。そこに座ってくれ」
確かに。身分上は対等ではあるかも知れないが……ここまで覇気を纏わせた御仁がいたら誰だってこうなってしまう。とりあえず言われた通りに彼の対面に座ると、もう一人、これまた覇気を纏わぬ少女が一つちょこんと座っているのが見えた。
「エル……」
言わずもがな、ここの主人の娘である。クリームのように柔らかい色合いの髪が、肩先でゆらりと揺れている。藤色の綺麗な瞳が、どこか奥行きのない感情を俺に向けていた。
そんなところまでいって、やっと俺が呼ばれた理由に察しがついた。
「私も聞いたのは直近でな。確認のために君の口から言葉が欲しい」
覇気が一層強まる。彼の身体の熱気が、俺の口からの誤魔化しを排除するように、全身を蝕んでいくようだ。
俺は、やっとのことで、起き抜けの脳に酸素を流し込み、声を前に出す。
「詳しくはエルから聞いているでしょうから。結論だけ重ねて言うならば──」
「──」
「確かに、勝ちましたよ。あなたの娘さんに」
「……」
その様子に、驚嘆や憤怒の感情は見られない。ただその事実を受け止め、納得しているようだった。
隣に佇む彼女も彼の嗜好する姿を横から見ながら、怯えるように、それでいて悲しそうに、肩身を狭めていく。
なんか俺やっちゃいました。なんてものでは済まされないほどに、その空気は虚空に希釈されてしまっている。俺もそんな空気感に押し潰されそうになりながらも、自身が生み出したこの感情の結露にしっかりと姿勢を正して向き合った。
「私が君と出会って、早二年が経とうとしている。私としても、君の思想、感情、人生観、多くの感覚を共有してきた。だから、君の考えていることは分かる。分かるつもりだ。……だが」
彼は、詰まったように言葉を止めると、隣にいる娘の頭に軽く手を置いた。
「私はその選択が正しいとは到底思えないとだけ、言っておきたくてな」
悲しそうに顔を歪めると、彼はこちらを咎めるように言い放った。
「自分は……」
と、そこまで思考してから、ぐわんぐわんと脳内の思考部隊が騒ぎ出す。
(なにか壮大な勘違いをさせてしまっているな)と言う直感と共に、何が原因で何が最善かを高速で叩き出そうと躍起になる。
彼は恐らく、娘と勝負をして俺が見事彼女を打ち負かした事実を引き合いに出しているのだろうが、そこに思想も人生観も何も挟まずに、従順な少年状態で挑んだだけだった俺なのだ。正直、何をどこまで彼に思考させてしまっているのか見当もつかない。
確かに、大事な一人娘に手合いを挑んでしまったのは、あり得ない事だと言うのは感じていた。下手すれば重い傷を伴う真剣な勝負を。だがしかし、こんなどちらと持つかない空気になるのは何でだろうか。
ただ一つ、純粋な答えを出すとするなら、女の子に力で負けるのってカッコ悪いなっていうプライドくらいなんだが。だって、一年半前にボッコボコにされたし、もう無惨に。しかも、可愛い女の子にね。うん。でもそれが答えとは到底口に出せる状態ではなさそうだ。
「それが最善だと。確信してますよ」
そう言葉を繋げると、今度は小さくなってしまった少女の肩がぐらりと揺れた。垂れた髪を幾度となく耳の裏に隠しながら、何か言いたそうに此方を見据えた。
取り敢えず、自身の浅はかな考えを見透かされないように、自信満々に言い放ったが、これまた効果としては変な方向に話が拗れるだけな気がして、背筋に緊張が走る。
「そうか、そこまで……」
主人から聞いた事のないような、優しい声音が漏れると、彼は一度深呼吸をしてこちらに向き直る。
「私の娘は、贔屓目で見なくとも、同年代の環境ならば、最上層に位置している事は間違いないはずだ。君も多少は小耳に挟んだ事があるだろう。エララは例の騎士学校の精鋭クラスだ」
「……ええ、長い間過ごしていましたから、何度か」
「かくいう私だって、その学校にはお世話になっていた。厳密なカリキュラムと、無慈悲なほどまでの実力制度の学校。それこそ、いつ死んだっておかしく無いんだ。同級生で殺し合いだってした。そんな環境だった」
「……」
「その中で精鋭のクラスに所属してるんだ。何十万といる齢が等しい人間のさらに上澄みの上澄み。私の娘は、エララは一人の女の子である前に、一人の立派な戦士で、一つの国の誉だ。それは、君だって、勿論私だって邪魔できない。そう思えないか」
話の後半に関しては、初耳だった。
到底、自身の中だけじゃ消化できないほどの重圧が途端にのしかかってきて、ふと、その視線を隣で佇む少女に向けた。普段は大人しい彼女が、そんな環境で日々を送っていたという事実は、複雑な感情を引き起こす。
残酷だとは思うけれど、その奥底を支えている信念が彼女に存在しているとするのなら、それは憧れに昇華するほどに可憐で、かっこいいと、思ってしまうのだが。
「君が、私の娘を打ち負かしたことを不思議とは思っていない。君は経験は皆無でありながらも、才能がある事は知っていた。何度もいうようだが、君の観察眼と身体能力は天性のそれだ。そこに私の娘が、短期間で、力量で劣ってしまった。なんて、異論を唱えたいが、反論の余地なんてない。紛れもない揺るがない。事実だ」
ユラリと、空間が揺れる感覚がする。彼の言葉の重みは事実を過去へと昇華させるような勢いで、俺と彼女にそれを伝える。
「だからこそ言わせて貰いたい。君のその優しさは最善でありながらも、とても残酷な言葉だ」
正面から、確かな圧力で否定の言葉を投げかける。未だにその存在しない言葉とやらを思考してしまっている最中ではあるが。
ふと、隣の少女が意を決したような表情で此方に身を乗り出した。
「お父さん、いいよ。この先は私がいう」
声音のコントラストとでも言おうか、厳かな重低音の声から、次はせせらぎのような透明感のある声が空間に響いた。
「サクヤ、私、そこまで弱くないから、確かに、サクヤは今よりずっとずっと強くなる。そんな予感はする。嫌だって感じる。私が頑張って積み上げてきた経験の山を、まるで一冊の本を読むかのように吸収して……怖いくらいに強いの、わかってる。知ってる」
「だから、サクヤの願いは叶えられるかもしれない。でも、私、それを望んでなんかいないよ。それに、どうしてそこまで想ってくれているのかも、わかんない。わかんないけど、私は、救われるより救いたい。見ているだけじゃない。手を差し伸べたい。お母さん、みたいに……だから、だから──ごめんなさい。サクヤのその願いには、付き合えない」
彼女の手は小さく震えていた。
覚悟と葛藤の先に煮詰まった答えなのだろう。様相から、その言葉がどれだけ、てうん?俺なんか振られてないか?
あまりの気迫に呆気に取られながらも、唐突に胸に銃痕が現れる。もう少しで、彼ら彼女らが何を勘違いしていたのか。その真相にたどり着けそうではあったのだが、付き合えない。そのパンチラインで思考が止まってしまう。
いやあ、そりゃあ、家族当然の関係だしさ、無理でしょ。俺からしたら妹みたいな感覚だし、それにね、日本にいた時の周りの女性に比べたら頭四つくらい抜けてる可愛さだから、ワンチャンあったらいいなあ、とか奴隷身分の時から思ってはいたよ?いやそれに……きついなあ。
え、何この仕打ち。俺告白とかしたわけじゃないし。何かしらで勘繰られたとか。そもそも、この話に結びつくの何でだ。マジでよくわからん。
「よく言ったな、エララ……だが、覚えておきなさい。彼はきっと──」
そういえば前もなんか理不尽にこんなこと言われた気がするな。かれこれ三年前かな、部活でめっちゃいい成績出したら付き合ってもいいですよ。みたいなこと勝手に言われて、地味に期待して頑張って、弱小高校なのに全国行って。優勝できなかったけど、動画サイトで取り上げられて伸びたりして、若干有名人になったりしたのに。「私じゃちょっと」みたいな感じで振られたし。明確な前提条件を教えてくれないか?と理系脳の俺は叫びたいわけで。
「……そういうことだ。君──サクヤ君」
「──はい」
だいぶ大事な場面で思考が失踪してしまっていることを自覚すると、スッと脳を切り替える。
「だとしても、君の天性の才と研鑽の実力はそのままにしておくのは、現状最も愚かな行為なはずだ。どうだろうか、君が興味あるならば、エララと同じ学校に通ってみるというのは」