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高家臣団・北条家残党




 北条氏規(ほうじょううじのり)


 北条氏康(ほうじょううじやす)一子→高秀高(こうのひでたか)食客→高秀高城持大名・大河内(おおこうち)城主


 相模(さがみ)の獅子と謳われた戦国大名・北条氏康の子で、幼少期に駿河(するが)今川義元(いまがわよしもと)の元に人質として送られていた。しかし義元の討死、実家・北条家の滅亡、更にはあろうことか義元の子・今川氏真(いまがわうじざね)武田義信(たけだよしのぶ)と共に実家を攻め滅ぼした仇敵・上杉政虎(うえすぎまさとら)と同盟を結ぶ事態になると、氏真への反感を強めていった。やがて氏真が義元の仇敵である高秀高への復讐を謳って戦を起こすとこれに従軍。松平元康(まつだいらもとやす)と共に先陣を請け負って秀高が籠る陣城へ攻め掛かるが、事前に元康と話し合って今川家からの離反を決めており、元康の軍勢と共に秀高の陣城へと入城した。そして知立(ちりゅう)の戦いでは朝比奈泰能(あさひなやすよし)が籠る境城(さかいじょう)を監視するように陣取り、やがて朝比奈勢の敗退の姿を見て今川家の凋落を悟った。戦後、高秀高の食客として迎えられ、同時に今川氏真と離縁した姉の春姫(はるひめ)を高秀高の奥の間に側室として預けた。<三章>


 高秀高が足利義輝(あしかがよしてる)御教書(みぎょうしょ)を得て伊勢志摩(いせしま)北畠具教(きたばたけとものり)征伐に乗り出すと積極的に従事。北伊勢四十八家きたいせしじゅうはっけ攻略に際しては家中随一の戦功を立てて、中伊勢(なかいせ)の中で反抗する長野稙藤(ながのたねふじ)の子・雲林院祐基(うじいすけもと)を生け捕りにして長野工藤家(ながのくどうけ)の降伏を導いた。その功績によって秀高から北畠旧領の内南伊勢(みなみいせ)を領して北条家再興を果し、大河内城主に収まって秀高配下の城持大名となる。後に美濃国(みののくに)総攻めの際には滝川一益(たきがわかずます)らと共に美濃西部の豪族掃討に功績を立てた。<四章>

 



 北条綱成(ほうじょうつなしげ)


 北条家一門・玉縄(たまなわ)城主→北条氏規家臣→北条氏規家老・霧山(きりやま)城主


 北条氏康とは義兄弟の関係であり、北条五色備えの黄備えを率いた猛将。上杉政虎による侵攻によって小田原城が落城すると、子の北条康成(ほうじょうやすしげ)によって城から落ち延びるように勧められ、康成の幼子たちを抱えて密かに城から落ち延びた。その後、駿府(すんぷ)に住まう氏規の元に逃れ、そこで細々と過ごした。今川氏真が高秀高攻撃の為に出陣すると、今川家からの離反を決めた氏規に従い、今川勢総崩れの後は刈谷城(かりやじょう)水野忠重(みずのただしげ)攻略にも従軍し、敵将・高木清秀(たかぎきよひで)を討ち取ってその武勇を示した。後に氏規と共に高秀高の食客として迎えられた。<三章>


 やがて秀高が伊勢志摩の侵攻を行った際、氏規に従軍して北伊勢四十八家旗下の諸城を次々と攻め落とした。戦後氏規が南伊勢に封じられると北畠の先代当主である北畠晴具(きたばたけはるとも)の隠居所であった霧山御所(きりやまごしょ)を改修した霧山城の城主に収まって多気郡(たきぐん)の統治に当たった。<四章>




 北条綱高(ほうじょうつなたか)


 北条家一門→北条氏規家臣→北条氏規家老


 北条家一門の一人であり、北条五色備えでは赤備えの部隊を率いた勇将である。上杉政虎によって小田原の北条氏康一門が滅亡すると、これに反発した弟の高橋氏高(たかはしうじたか)・息子の北条康種(ほうじょうやすたね)が玉縄城に攻め寄せた敵にめがけて打って出て討死してしまい、失意の中で城から逃げ出す綱成に同行して逃げ延びた。その後は駿府の氏規の元で過ごしていたが、今川家を離反する決心をした氏規に従い、知立の戦いでは今川家に反旗を翻して戦った。戦後、氏規が高秀高によって食客に迎えられると、綱高も氏規家臣としてその恩恵にあずかった。<三章>


 後に氏規と共に伊勢志摩の侵攻に従事し、北伊勢四十八家攻略において戦功を立てた。戦後は南伊勢を領有した氏規の家老として領国の統治に当たり、美濃国総攻めの際には氏規配下として従軍。不破郡(ふわぐん)の豪族たちの掃討に戦功を立てた。<四章>




 多目元忠(ためもとただ)


 北条氏康家臣→北条氏規家臣


 北条家始祖・伊勢宗瑞(いせそうずい)の関東下向に従った御由緒家の一家の末裔で、北条五色備えでは黒備えを率いていた。小田原城にて北条家が上杉政虎によって滅亡させられた後、江戸城(えどじょう)にて籠城していたが、太田康資(おおたやすすけ)の寝返りによって城内が混乱し、その最中で城から落ち延びるように敗走していった。その後、足柄下郡(あしがらしもぐん)松田盛秀(まつだもりひで)の世話になっていたが、大森勝頼(おおもりかつより)によって盛秀が攻め滅ぼされ、そのまま駿府の氏規の元へ合流した。氏規が今川家からの離反を決めるとこれに従い、戦後は高秀高の食客に迎えられた氏規の家臣として那古野(なごや)城に留まった。<三章>


 氏規が伊勢志摩侵攻の功績によって秀高から南伊勢を賜ると、元忠も氏規家臣として赴いて在地勢力の田丸具忠(たまるともただ)らとの融和に努め、領内の安定化に貢献した。<四章>




 遠山綱景(とおやまつなかげ)


 北条氏康家臣・江戸(えど)城主→美濃明知(あけち)城主→高秀高城持大名・岩村(いわむら)城主


 北条家臣にして江戸城主を務めていたが、小田原城にて氏康らが上杉勢の前に自害すると江戸城に籠城していたが、城内で太田康資の反乱を受けて江戸城を落ち延び、先祖ゆかりの明知まで落ち延びた。そこで一族の遠山景行(とおやまかげゆき)から城主の職を譲られて明知城主に収まり、織田信隆(おだのぶたか)を庇護する岩村城の遠山景任(とおやまかげとお)に反抗して独自の勢力を築いた。<三章>


 斎藤龍興(さいとうたつおき)が父の斎藤義龍(さいとうよしたつ)を毒殺した後に信隆が尾張侵攻を行った際、景行の策を用いて信隆に兵を貸し出すが信隆の敗色が濃厚となると信隆に先んじて撤退させた。その後秀高が美濃国総攻めを行った際に飯羽間城(いいばまじょう)遠山友勝(とおやまともかつ)と共に景任から離反して秀高に内応し、景任死後の岩村城主に就任して遠山宗家の家督を継承した。<四章>





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