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大高義秀とその一族たち




 大高義秀(だいこうよしひで)


 高家軍奉行(いくさぶぎょう) 若狭国後瀬山(のちせやま)城主<七章まで>


 官位 従五位上(じゅごいのじょう)兵庫頭(ひょうごのかみ)<七章まで>


 役職 室町幕府諸侯衆(しょこうしゅう)<七章まで>


 元の世界の名は増田義樹(ますだよしき)高秀高(こうのひでたか)こと本田秀人(ほんだしゅうと)らと共に元の世界で暮らしていたが、突如として戦国乱世に秀高ら共々飛ばされた。<序章>


 秀高が織田信隆(おだのぶたか)の誘いを断って出奔した以降は、秀高の天下統一の大望を聞くとそれに賛同。秀高に従って稲生原(いのうばら)の戦いで初陣を飾ると数々の武将を討ち取り、森可成(もりよしなり)と互角に渡り合うなど並々ならぬ武勇を示す。また佐治為景(さじためかげ)調略による水野信元(みずののぶもと)の侵攻の際には多くの将兵を討つ大功を上げ、その武勇によって「鬼大高(おにだいこう)」と称された。<一章>


 秀高が鳴海城(なるみじょう)の城主として独立すると正式に家老職に任じられて家臣団の一員として活躍。秀高独立の際の大高城(おおだかじょう)強襲、今川義元(いまがわよしもと)を討った桶狭間(おけはざま)の戦いにおいても戦功をあげた。その後の尾張(おわり)侵攻では初めて部隊の長としても活躍し、一方で長島願証寺(ながしまがんしょうじ)証恵(しょうえ)とも交渉を交わすなど徐々に武将としての実績を上げ始めた。<二章>


 尾張統一後は秀高に代わって外征の大将を務め、斎藤義龍(さいとうよしたつ)の要請で郡上郡(ぐじょうぐん)遠藤盛数(えんどうもりかず)討伐の際は竹中半兵衛重治たけなかはんべえしげはる(はか)って鎮圧を成功させ、また森可成らと共に軍制改革を主導した。今川氏真(いまがわうじざね)が攻め寄せてきた時は馬廻衆を率いて前線で槍を振い、知立城(ちりゅうじょう)で旧交のあった岡部元信(おかべもとのぶ)を討った。<三章>


 秀高が伊勢志摩に侵攻した際には亀山城(かめやまじょう)関盛信(せきもりのぶ)夫妻、槍主水(やりもんど)渾名(あだな)を持つ家城之清(いえきゆききよ)などの首を取った。美濃侵攻における中濃攻めでは一軍を率いて加治田(かじた)堂洞(どうぼら)両城を攻略。稲葉山城攻めでは上加納山砦(かみかのうやまとりで)を奪取して守将の原頼房(はらよりふさ)を討ち、岩村城(いわむらじょう)攻めでは城主の遠山景任(とおやまかげとお)の首を取った。その一方で秀高や信頼と共に亡き義龍の墓参りをして菩提を弔った。<四章>


 秀高の上洛に同行して「永禄(えいろく)(へん)」にも参戦。秀高が上洛の命を受けると秀高より正式に「軍奉行」に命じられて高家における軍事全般を取り仕切った。そして上洛戦の際には秀高の策に従って六角承禎(ろっかくじょうてい)父子を嵌めて討ち取り、姉川(あねがわ)決戦の際にも槍を振って奮戦する。そして信隆追撃の大将として越前(えちぜん)若狭(わかさ)に攻め込むが明智光秀(あけちみつひで)から左目に銃弾を受けて信隆を逃す。その後は左目に眼帯をして秀高と合流。朝廷より「兵庫頭」の官職と秀高より若狭一国の知行を受けた。<五章>


 上洛後に京に留まる秀高とは別に領国の若狭にて家臣団と統治に当たる一方、騎馬鉄砲隊の研究など軍事研究に取り組む。京の秀高に三好長慶(みよしながよし)が大軍を率いて攻め込むと自ら軍勢を率いて参陣。「山崎(やまざき)天王山(てんのうざん)の戦い」では秀高より前線の指揮を託されて勝利に貢献した。その後の三好征討の際には丹波(たんば)口の総司令官を務め、畿内における三好勢力が一掃されると秀高と共に四国(しこく)へ渡海し三好家の掃討に尽力した。これらの功によって将軍・足利義輝(あしかがよしてる)より諸侯衆の役職を賜って幕政へも参画することになる。<六章>


 幕政改革においては諸侯衆として幕政改革評議に参加する一方、秀高が保護したアメリカ人の中村貫堂(なかむらかんどう)と共に秀高より要請された新たな軍団制度の研究に取り組む。その研究を活かして「康徳播但擾乱こうとくばんたんじょうらん」の際には試験編成された軍勢を率いて参戦。迅速的な鎮圧に成功し軍団制の実力を証明させると高家における軍制改革に反発した諸将と模擬戦を行い、これに勝利して家中の反対派を鎮めさせるなど軍政家としても徐々に成長を見せ始める。<七章>


 私生活では元の世界の頃からの知り合いである(はな)こと近藤有華(こんどうゆか)と結婚。現在は長男の力丸(りきまる)を、更にはその数年後に三つ子の女の子まで設けている。子だくさんとなった秀高とは違い、義秀は華と共に子供たちの養育に務め、子供たちも義秀夫妻の愛を一身に受けて健やかに成長している。


 元の世界で所属していた運動部では全国大会に出場するなどアスリート型の体形をしていたため、武器をそつなく使いこなせるなどの利点を生かし、尚且つ元の世界で退屈していた感情を戦国乱世において大いにぶつけている。しかしその反面感情的になる場面が多く、その都度秀高や可成ら家老たちに諫められている。




 (はな)


 大高義秀正室


 元の世界の名は近藤有華(こんどうゆか)。近藤三姉妹の長女で、性格は穏和。元の世界では年長という事もあって姉として皆を優しく包むように見守っていた。<序章>


 秀高らと戦国乱世に飛ばされて以降は、年長者として秀高らを見守り、後に秀高が天下統一への大望を明らかにした際には、それに従う事を表明した。やがて秀高が織田信勝(おだのぶかつ)配下として稲生原の戦いに従軍すると、妹たちに代わって自ら出陣。初陣でありながら得物の薙刀を振るって奮戦し毛利新助(もうりしんすけ)を討ち取った。その後は義秀の求婚を受けて結婚。嫡子の力丸(りきまる)を設けた。その為(しばら)くは戦線から離脱したが、自身としては再び戦場に立ちたいと思っていた。<一章>


 やがて秀高が今川家から独立した後、義元の侵攻を受けた際に戦線に復帰。出産前と変わらない武勇を示して奮戦した。桶狭間の戦いや尾張侵攻の際にもあげた戦功によって、戦後に加増が約束された。<二章>


 尾張統一後は義秀の郡上郡遠征に同行。その一方で義秀との間に三つ子の女の子を設けて仲睦まじく暮らした<三章>


 その後は中濃侵攻の際に戦線に復帰。子供を産んだ身とは思えぬほどの働きを見せ、加治田城攻めの際に佐藤忠康(さとうただやす)の首を取った。東濃侵攻戦においては遠山景任夫人・おつやの方と手合わせした後に討ち取った。<四章>


 秀高が上洛した際には同道して「永禄の変」に参戦。後に京への上洛戦を行った際には義秀と共に従軍。「武佐(むさ)の戦い」で六角義弼(ろっかくよしすけ)を自ら討ち取って武名を上げた。姉川決戦後に義秀と共に信隆追撃に参加。義秀が明智光秀の銃弾を受けて負傷するとこれを介抱した。<五章>


 秀高上洛後に義秀が若狭国を賜ると居城の後瀬山城に入って子供たちの養育に当たった。「山崎・天王山の戦い」に際しては義秀と共に秀高の指揮下に入り、三好長慶の嫡子である三好義興(みよしよしおき)の首を心ならずも討ち取った。三好侵攻の際には義秀と共に丹波口から侵攻。四国へ渡海後は勝瑞城の戦いで篠原長房(しのはらながふさ)の首を取った。<六章>


 秀高が中村貫堂を召し抱えた際には義秀と共に新たな軍制の導入に携わる。後に「康徳播但擾乱」が勃発すると義秀に従って参陣。迅速的な乱の鎮圧を成し遂げた。その後は軍制改革に反発する高家重臣たちと模擬戦を行いその威力が確かなものであると立証させた。<七章>


 元の世界では薙刀部部長として全国大会に進出。自身の部の連覇に貢献するなどその腕は確かで、戦国時代に飛ばされて以降は、その腕をいかんなく発揮していた。




 力丸(りきまる)


 大高義秀長男


 大高義秀と華の子。傅役(もりやく)桑山重晴(くわやましげはる)。秀高らの子供たちを除けば徳玲丸(とくれいまる)熊千代(くまちよ)たちと年齢が近く、特に熊千代とは傅役が父・義秀であった関係もあって仲が良好であった。徳玲丸や熊千代が秀高に付随して京へ上る際は二人に京での土産話を求めるなど、家臣以上の信頼関係を築いていた。<~七章>




 春香(はるか)姫/美香(みか)姫/和香(わか)


 大高義秀長女/次女/三女


 大高義秀と華との間に生まれた三つ子。出産後は両親のもとで丁重な養育を受け、皆慎ましい性格を持った姫君へと成長している。<~七章>






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