高家臣団・家老衆
森可成
織田信長家臣→高秀高家臣→高秀高家老・小牧山城主
元は美濃国の出身の武士。得物は「人間無骨」と呼ばれる大身槍で、織田信長に仕えて尾張統一に貢献した。信長の弟・織田信勝が反旗を翻し、稲生原の戦いで信勝軍と対峙した際には、初陣を飾った秀高らと戦場で対峙し、その才能の片鱗に触れた。<一章>
その後は信長家臣として、今川義元を討ち取った後の秀高を鳴海城に攻めた際に包囲の一翼を担う。しかし信長が陣中で不慮の死を遂げた際に、慌てふためく信長配下の家臣たちを見て、織田家に見切りをつけ始めていた。やがて織田信隆が信長の嫡子・奇妙丸を擁した際の振る舞いを見て織田家からの離反を決意し、織田信包ら反信隆派の一門を纏めて秀高に接触。やがて秀高が尾張侵攻を始めるとこれに呼応して織田家家臣の切り崩しを行った。信隆と稲生原で戦った際には佐々成政を討ち取った。<二章>
尾張統一後は高秀高の家老として領内の統治を傍で支え、犬山城代となった三浦継意の代わりに秀高に意見した。その後、坂井政尚と共に大高義秀に兵制改革を提言し、義秀が奉行に任命された後は共に思案して方策を取り纏めた。その後、新規に築城された小牧山城主の職に就き、今川氏真が父・今川義元の復仇戦を挑んでくると、一隊を率いて参陣した。<三章>
秀高の伊勢志摩侵攻の際には東濃の信隆を警戒するべく尾張国に留まり、斎藤義龍没後に信隆が犬山城に攻め寄せて来ると秀高と共に後詰を務めた。森部の戦いでは先陣を務めるも竹中半兵衛の策略の前に敗北し、汚名返上とばかりに中濃侵攻において烏峰城を攻略して久々利頼興を討ち取る。斎藤家滅亡後に連動して中濃に攻め込むと神箆城攻めにおいて延友信光を討ち取る。この功績によって烏峰城に移封の上加増となった。<四章>
佐治為景
尾張国大野城主→高秀高家老・大野城主→高秀高家老・鳴海城主
元は織田家に仕える佐治氏の当主で、知多半島にて今川の影響力を跳ね除けていた。山口教継の命を受けて秀高が為景の説得に来た際は、当初は反発して拒否したが、事前に領内に撒かれていた偽情報と、子の佐治為興の言葉を聞いて意を決し、今川方に寝返ることを決めた。これによって水野信元の侵攻を受けることになったが、為興の奮戦と秀高らの加勢によってこれを撃退。水野信元を討ち取るという大戦果を挙げた。その後は不仲になっていた教継とも和解したが、教継が死の床に招かれた際、秀高へ鳴海城主の職を継承するという宣言に賛同。これによって城主の職にありながら秀高の家老として仕えることになったのである。<一章>
その後は秀高と共に葛山氏元率いる今川軍別動隊を野戦で撃破。鳴海城に織田信長が来襲した際は、秀高の制止を振り切って援軍にも参上し、並々ならぬ戦果を示した。張侵攻の際は一部隊を率いて稲生原合戦に従軍。その後は三浦継意に従い、犬山城落城後は葉栗・中島郡を掌握して清洲城攻めを行う秀高へ加勢した。<二章>
尾張統一後は那古野城に本拠を移した秀高に代わって鳴海城主の職を継ぎ、沓掛城主の簗田政綱が暗殺された後は久松定俊と共に三河方面を監視するように鎮座した。後に今川氏真との知立の戦いでは、安西高景と共に刈谷城の監視を行い、水野勢の動きを封じ込めた。<三章>
その後は秀高の伊勢志摩侵攻に従軍。父に代わって坂部城の主となった久松高俊と共に北伊勢四十八家の攻略を行い神戸城攻めにおいては自ら神戸家家老・山路正幽を討ち取る。美濃国総攻めの際にも従軍して妻木城の妻木広忠を攻め滅ぼした。<四章>
安西高景
尾張国土豪→高秀高家臣→高秀高家老・犬山城主→高秀高家老・稲葉山城主
元の名は安西景康と名乗っていた。尾張国の知多半島南部・河和に根を張る豪族で、父の代に安房国から落ち延びてきた一族。今川義元の尾張侵攻の際、知多半島南部の今川派の豪族である水野守隆・戸田守光らを周辺の豪族を扇動して討ち取り、その首を秀高に献上して仕官した。合戦後は秀高からの要請で水野・戸田両家を攻め滅ぼした際に収容した蔵米と種籾を秀高に譲り渡した。尾張侵攻の際は部隊の一つを率い、稲生原の合戦の際には大高義秀と共に別動隊として信隆軍の背後に回り、秀高本隊との挟撃に導いた。<二章>
尾張統一後は領地から那古野城下に移り住み、秀高の側近として行動。兵制改革後に犬山城代であった継意が職務を返上すると、代わりに犬山城主の職に任じられ、継意に代わって東濃の監視を行う。知立の戦いでは佐治為景と共に刈谷城の対岸に構築された村木砦を見張る様に布陣した。<三章>
秀高の伊勢志摩侵攻の後、義龍病没に乗じて信隆が犬山城に攻め寄せて来ると家臣の兼松正吉や正室の瑞、救援に来た坂井政尚や塙直政と共に信隆軍の侵攻を跳ね除け、明智光秀の計略を看破して信隆軍を散々に打ち破った。美濃国総攻めの際には東濃侵攻を行い苗木城の遠山直廉を葬った。その功績を以って美濃国の要衝である稲葉山城主に転任となった。<四章>
丹羽氏勝
丹羽氏識嫡男→高秀高家臣・岩崎城主→高秀高家老・末森城主→高秀高家老・犬山城主
氏識の嫡男。氏識と共に尾張侵攻に向かう秀高に加勢し、父と共に秀高家臣に加わって秀高の馬廻になった。だが稲生原の合戦で父が討ち死にすると、父に代わって岩崎城主の職を継承し、秀高からの岩崎から新築される末森城への加増移封を受け入れた。その後の清洲城攻めでは打って出てきた斎藤利堯を討ち、父に劣らぬ武勇を示した。<二章>
尾張統一後は引き続き岩崎城主の職を務め、大高義秀による軍制改革後に正式に末森城へと移転。今川氏真との知立の戦いでは別動隊を率いて福谷方面に転進。松平親乗ら寝返った諸将を率いて今川軍の側面を突いた。<三章>
斎藤義龍の死後、秀高が美濃攻めに関連して中濃侵攻を行った際、配下の香川清兵衛と共に木曽川対岸の伊木山に一夜城を築城し、中濃攻めの趨勢を決定づけた一手に貢献した。美濃国総攻めの際には東濃の要衝である小里城の小里光忠を討ち取り、戦後に高景転任後の犬山城主の職務を引き継いだ。<四章>
久松定俊/久松高家
水野信元家臣・坂部城主→高秀高家臣・坂部城主→松平家与力・刈谷城主
水野信元の家臣で坂部城の城主。もとは松平広忠の正室の於大の方を妻として迎え、水野家の一門として仕えていた。信元が大野の戦いで討死した後、今川家に仕えて水野家の家督を継いだ、信元の弟の水野忠重の後援をした。<一章>
しかし、今川義元の尾張侵攻の際に秀高に内通し、秀高との合戦の際に秀高に寝返って葛山氏元を討ち取った。その後に井伊直盛によって坂部城を攻め落とされると、於大の方と共に佐治為景の大野城へと逃げ延び、戦後に岡部元信との交渉によって坂部城に帰還した。<二章>
その後は秀高によって坂部城主に任じられ、三河方面の監視に当たる。今川氏真が義元の復仇戦を挑んて来た際は、安西高景らと共に水野忠重の監視を請け負い、今川勢総崩れの後は忠重の説得に於大と共に当たったが、結局覆すことは出来ずに水野家の最期を見届け、秀高と元康の同盟後には、坂部城を庶子の久松高俊に譲り、自身は松平家を補佐する為に刈谷城に移った。<三章>
松平家の東進政策に従事する一方で元康が自身の一字を取って松平家康と名乗り、家康が朝廷より三河守の官職と「徳川」の姓を受けた事に領内の一向宗が一向一揆を起こすと家康と共に一向一揆の鎮圧に従事した。<四章>
久松定員/久松高俊
久松定俊庶子→高秀高家臣・坂部城主
久松定俊の子。再婚した継母の於大の方とは血が繋がっていないため庶子となる。知立の戦いの後に父が水野家の所領を引き継いで刈谷城に移ると父に代わって坂部城の職務を継ぎ、その際主君の秀高の一字を拝領して名を高俊と改めた。<三章>
伊勢志摩侵攻の際には鳴海城主の佐治為景に従軍して初陣を飾る。神戸城攻めにおいて戦功を上げ、安濃津合戦では右翼に攻め掛かってきた大河内具良の首を取る大戦果を上げる。美濃国総攻めの時には同じく為景の与力として従軍し東濃地方の豪族掃討に戦果を上げた。<四章>
山口盛政
山口教継家臣→高秀高家老
山口教継の一門にあたり、教継らの治政を支えた家臣。教継の死の際、処遇を任された他の教継家臣たちが立ち去る中で、同じ一門の重俊と共にその場に残り、秀高への忠誠を誓った。その後は秀高によって、家老に任じられて評定衆に列することになった。桶狭間の戦いにおいて同族の重俊が討ち死にすると、その遺児の後見役を受け持った。秀高の尾張侵攻の際には鳴海城において留守居役を務めた。<二章>
尾張統一後は秀高の側近くにて内政などの領内統治に携わり、時には提示された意見に反論しつつもおおむね好意的に受け止めていた。<三章>
秀高の伊勢志摩侵攻の際には長島の願証寺の動向を見張るために長島城にて守将を務めて秀高の背後を固めた。その後庇護していた遺児が元服して山口重勝と名乗ると重勝の後見を務め、若干ながら評定衆に加わった重勝を補佐した。<四章>
山口重俊
山口教継家臣→高秀高家老
盛政と同じく、山口教継の一門にあたり、教継に古くから仕える家臣。教継の死の際、処遇を任された他の教継家臣たちが立ち去る中で、同じ一門の盛政と共にその場に残り、秀高への忠誠をその場で誓った。その後は家老に任じられ、盛政と同じく評定衆に列することになった。その後、秀高が今川家から独立して今川義元の侵攻を受けると、副将の三浦継時と共に中島砦に籠るが、攻めてきた朝比奈勢を迎え撃つべく野戦に出て、継時と共に討死した。<二章>
山口重勝
高秀高家老
山口重俊の子。父が桶狭間の戦いで討死した後、叔父の山口盛政の元で養育された。その数年後に元服を迎え秀高の中濃侵攻において元服を迎えると秀高との約束通り父の役職であった評定衆の席に加わった。その後は秀高の家臣団の中で若い世代の先駆けともいうべき存在となった。<四章>