表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/7

主人公たち




 高秀高(こうのひでたか) 


 織田信勝(おだのぶかつ)家臣→山口教継(やまぐちのりつぐ)家老・桶狭間(おけはざま)領主→尾張国(おわりのくに)鳴海(なるみ)城主・高家当主→尾張国那古野(なごや)(後に名古屋(なごや)に改称)城主


 官位 従五位下(じゅごいのげ)民部少輔(みんぶのしょう)


 役職 尾張守護→尾張・美濃(みの)伊勢(いせ)志摩(しま)守護


 元の世界での本名は本田秀人(ほんだしゅうと)。元の世界で仲間たちと微笑ましく過ごしていたが、突如として昔の戦国時代に転生させられる。<序章>


 織田信隆(おだのぶたか)より織田信長(おだのぶなが)への協力を打診されるが、反発して出奔。仲間たちと共に天下統一の大望を抱いた。その後は信長の弟・織田信勝の家臣を経て山口教継の家臣となり、桶狭間の領主に任命された。それから佐治(さじ)氏調略や、水野信元(みずののぶもと)の撃破、寺部城(てらべじょう)攻めで更なる威名を高めた。後に山口教継死去に伴い、鳴海城主を拝命して一国一城の主となった。<一章>


 その後に今川家(いまがわけ)から独立を果たし、今川義元(いまがわよしもと)を桶狭間の戦いで討ち取った。その後、鳴海城に攻め寄せてきた信長が不慮の死を遂げ、信隆が後を継いで混乱の最中の尾張を調略を用いて手中に収め、織田家を打倒して戦国大名として名乗りを挙げた。<二章>


 尾張国統一後は富国強兵をスローガンに掲げ、領内の検地や城割、更には自身の肝いり政策である水路開拓事業を推し進めた。その一方で美濃(みの)斎藤義龍(さいとうよしたつ)とは同盟関係を構築し、義元の復仇戦を挑んできた今川氏真(いまがわうじざね)の軍勢を跳ね返すように撃退すると、今川家を離反した松平元康(まつだいらもとやす)とも同盟を結び、室町幕府(むろまちばくふ)将軍・足利義輝(あしかがよしてる)とも謁見して官職を賜ると、いよいよ東濃(とうのう)へ逃げ込んだ信隆打倒へと舵を切った。<三章>


 信隆討伐の目前に伊勢志摩の北畠具教(きたばたけとものり)らが将軍家の御教書(みぎょうしょ)と偽って挙兵すると、幕臣・細川藤孝(ほそかわふじたか)より真の御教書を奉じて伊勢志摩に侵攻。具教を降伏させて伊勢志摩を獲得して襲撃を受けた亡き信長の正室・帰蝶(きちょう)を庇護した。しかし義龍が息子の斎藤龍興(さいとうたつおき)に毒殺されると美濃への侵攻を決意。信隆の侵攻を跳ね除け着実に斎藤家の勢力を削り、稲葉山城(いなばやまじょう)にて龍興らを倒して信隆を東濃から追放。美濃を得た後に家臣の金森可近(かなもりありちか)の働きで飛騨国を制覇。ここに中部地方に確固たる勢力を築いた。<四章>


 妻である(れい)こと近藤玲那(こんどうれな)とは幼少期の知り合いであり、その関係から恋心を次第に抱くようになり、転生後に玲に求婚して受け入れられ、一五六四年までに三男一女を設けている。また、教継の孫娘である静姫(しずひめ)とは教継の遺言によって結婚し、静姫との間にも二男一女を設けた。


 日本史に関しては平均的な知識を持っているが、小高信頼(しょうこうのぶより)こと伊藤信吾(いとうしんご)の勧めで時代劇をたくさん見た影響で、ある程度戦国時代に関する知識は兼ね備えている。




 大高義秀(だいこうよしひで)


 高秀高家臣→高秀高家老


 元の世界の名は増田義樹(ますだよしき)。秀高こと本田秀人らと共に元の世界で暮らしていたが、突如として戦国乱世に秀高ら共々飛ばされた。<序章>


 秀高が織田信隆の誘いを断って出奔した以降は、秀高の天下統一の大望を聞くと、それにいち早く賛同して秀高の力になる事を決心。その後は秀高に従って稲生原の戦いで初陣を飾り、初陣ながらも佐久間盛重(さくまもりしげ)はじめ数々の武将を討ち取り、森可成(もりよしなり)と互角に渡り合うなど並々ならぬ武勇を示した。やがて山口教継の元にのがれ、佐治氏調略による水野信元の侵攻の際には、再び先陣を切って多くの将兵を討つ大功を上げた。その武勇によって秀高を補佐し、「鬼大高(おにだいこう)」と称されるほどの武勇を誇った。<一章>


 後に秀高が鳴海城の城主に収まると、自らは正式に家老職に任じられ、家臣団の一員として活躍。秀高独立の際の大高城(おおだかじょう)強襲、今川義元を討った桶狭間の戦いにおいても戦功をあげた。その後の尾張侵攻では初めて部隊の長としても活躍し、一方で長島願証寺(ながしまがんしょうじ)証恵(しょうえ)とも交渉を交わすなど徐々に武将としての実績を上げ始めた。<二章>


 尾張統一後は秀高に代わって外征の大将を務め、斎藤義龍の要請で郡上郡(ぐじょうぐん)遠藤盛数(えんどうもりかず)討伐の際は竹中半兵衛重治たけなかはんべえしげはると図って大きな犠牲を出さずに鎮圧に成功させ、また森可成らと共に軍制改革を主導した。今川氏真が攻め寄せてきた時は馬廻衆を率いて前線で槍を振い、知立城(ちりゅうじょう)岡部元信(おかべもとのぶ)を討った。<三章>


 秀高が伊勢志摩に侵攻した際には亀山城(かめやまじょう)関盛信(せきもりのぶ)夫妻を討ち、安濃津合戦(あのつかっせん)では槍主水(やりもんど)渾名(あだな)を持つ家城之清(いえきゆききよ)の首を取った。美濃侵攻戦では中濃攻めにおいて一軍を率いて加治田(かじた)堂洞(どうぼら)両城を攻略。稲葉山城攻めでは上加納山砦(かみかのうやまとりで)を奪取して守将の原頼房(はらよりふさ)を撃破。そして岩村城(いわむらじょう)攻めでは城主の遠山景任(とおやまかげとお)の首を取る。その一方で秀高や信頼と共に亡き義龍の墓参りをして義龍の菩提を弔った。<四章>


 私生活では元の世界の頃からの知り合いである(はな)こと近藤有華(こんどうゆか)と結婚。現在は長男の力丸(りきまる)を、更にはその数年後に三つ子の女の子まで設けている。


 元の世界で所属していた運動部では全国大会に出場するなどアスリート型の体形をしていたため、武器をそつなく使いこなせるなどの利点を生かし、尚且つ元の世界で退屈していた感情を戦国乱世において大いにぶつけている。しかしその反面感情的になる場面が多く、その都度秀高や可成ら家老たちに諫められている。




 小高信頼(しょうこうのぶより)


 高秀高家臣→高秀高家老・取次


 元の世界の名は伊藤信吾(いとうしんご)。秀高こと本田秀人たちと元の世界で平穏に暮らしていたが、突如として日本戦国時代に秀高たちと共に転移させられる。<序章>


 その際に出会った織田信隆に対し、元の世界の日本史の中に出てこないと言い切った。そして信隆の元を出奔した秀人が天下統一の大望を抱くと、自身は秀高の参謀として携わる事になった。元の世界で使い方を熟知していた火縄銃を得物とし、その腕は確かで、信勝に仕官した後に参戦した、織田信長との稲生原の戦いでは、秀高と共に後方から騎馬武者を打ち抜いた。後に(まい)と共に高秀高の桶狭間館で、自身の得た知識や書物を元に各大名家の家臣団編成や各分国法の条文等を纏めた書物を作成。それをもとに秀高と共に話し合い、戦国時代での秀高の飛躍を傍近くで支えた。<一章>


 秀高が鳴海城になったのちは、家老職と兼任して取次の職務を請け負った。秀高が今川から独立して今川義元の侵攻を受けた際は、鳴海城の守備を受け持ち、桶狭間の戦いでは秀高と共に義元を討ち取った。その後は信長没後の織田家の混乱につけ込み、織田家の切り崩しを行った。尾張侵攻の際は秀高と共に行動し、軍師として参陣した。<二章>


 尾張統一後はその知識を存分に振るい、領内の検地政策を推進し自身も検地奉行になる。だがその最中で信隆の密命を受けた奥田直純(おくだなおずみ)の襲撃を受けるが深川高則(ふかがわたかのり)によって九死に一生を得て、その時に(まい)との距離が縮まり、ついに結婚へとたどり着くことが出来た。今川氏真侵攻の際は村井貞勝(むらいさだかつ)と共に陣城構築を務め、京への上洛時には勧修寺尹豊(かじゅうじただとよ)と連絡を取り合った。<三章>


 秀高が伊勢志摩に侵攻して両国を平定した後は吏僚を派遣して検地を実行。信隆が犬山城に攻め寄せた際には那古野城の留守居役を務めた。中濃侵攻や美濃国総攻めの際にも従軍して戦功を立て、美濃国平定後の検地を実行して高家の内政面を支えた。<四章>


 元の世界では舞と互いに小遣いを出し合い、日本史の雑誌を買い漁り、互いに読みあって知識を深めあっていた。その影響で学級内で二人とも孤立しかかっていたが、それを秀高こと秀人のフォローによってイジメを未然に防ぐことが出来た。戦国の世での結婚後は舞との間に茶々丸(ちゃちゃまる)という男子を設け、仲睦まじく暮らしている。


 ちなみにその記憶力は折り紙付きで、雑誌を買って書物の内容を覚えながらも、学校の学力テストでは優秀な成績を収める学問の鬼である。




 (れい)


 高秀高第一正室


 元の世界の名は近藤玲那(こんどうれな)。近藤三姉妹の次女で、性格は活発。元の世界では幼馴染である秀高とは微かな恋仲ではあった。<序章>


 秀高らと戦国乱世に飛ばされた際は、秀高と共に行動をした。秀高が織田信勝の家臣として仕えていた時に、いままで互いに意中の存在であった秀高の告白を受け入れて結婚。秀高との間に徳玲丸を設けた。そして秀高が山口教継の元に移ってから一年後にはまた、お腹の中に新しい命である熊千代を設けた。<一章>


 教継死後、教継の遺言によって秀高が鳴海城主を継承した際には、秀高の第一正室として、後に秀高の第二正室となる静姫と仲良く生活し、共に秀高を支えた。やがて尾張侵攻の際には静姫と共に、於菊丸の補佐を名目に秀高に頼み込んで軍勢に付き従い、因縁の始まりとなった勝幡城で秀高らと共に一つの決着を見届けた。<二章>


 尾張統一後は静姫と共に子供たちの養育にもあたり、自身も友千代を設ける一方で、客将となった北条氏規(ほうじょううじのり)の姉、春姫(はるひめ)とも協力して秀高の家の中を守っている。<三章>


 その後は伊勢志摩などの近隣諸国に出兵する秀高に代わって城内で息子たちの養育を行う一方、新たに娘の蓮華(れんか)姫を産んだ。戦や内政に忙殺される秀高を心配させないように子供たちに愛情を持って接して養育した。<四章>


 元の世界では三姉妹の次女として秀高とは共に学校からの帰宅路を一緒に帰った仲で、その中の睦まじさから、同級生からは付き合っているのではと噂されていた。




 (はな)


 大高義秀正室


 元の世界の名は近藤有華(こんどうゆか)。近藤三姉妹の長女で、性格は穏和。元の世界では年長という事もあって姉として皆を優しく包むように見守っていた。<序章>


 秀高らと戦国乱世に飛ばされて以降は、年長者として秀高らを見守り、後に秀高が天下統一への大望を明らかにした際には、それに従う事を表明した。やがて秀高が信勝家臣として稲生原の戦いに従軍すると、出陣出来ない妹たちに代わって出陣。初陣のこの戦場で得物の薙刀を振るって奮戦。義秀を助ける形で毛利新助(もうりしんすけ)を討ち取る戦果を挙げた。その後は義秀の求婚を受け、二組目となる婚姻を行い、その後に子の力丸(りきまる)を設けた。その為暫くは戦線から離脱したが、自身としては再び戦場に立ちたいと思っていた。<一章>


 やがて秀高が今川家から独立した後、義元の侵攻を受けた際に戦線に復帰。出産前と変わらない武勇を示して奮戦した。桶狭間の戦いや尾張侵攻の際にもあげた戦功によって、戦後に加増が約束された。<二章>


 尾張統一後は義秀の郡上郡遠征に同行。その一方で義秀との間に三つ子の女の子を設けて仲睦まじく暮らした<三章>


 その後は中濃侵攻の際に戦線に復帰。子供を産んだ身とは思えぬほどの働きを見せ、加治田城攻めの際に佐藤忠康(さとうただやす)の首を取った。東濃侵攻戦においては遠山景任夫人・おつやの方と手合わせした後に討ち取った。<四章>


 元の世界では薙刀部部長として全国大会に進出。自身の部の連覇に貢献するなどその腕は確かで、戦国時代に飛ばされて以降は、その腕をいかんなく発揮していた。




 (まい)


 小高信頼正室


 元の世界の名は近藤真愛(こんどうまい)。近藤三姉妹の三女で、性格は内気。元の世界では話の合う信頼と歴史関連の話をして盛り上がり、いつしか共に行動するようになっていた。<序章>


 秀高や姉たちと共に戦国時代に飛ばされて以降は、信頼と共に自身たちが覚えている歴史についてを纏めた書物や、商人たちから買った書物の複製を行い、これらを秀高の天下統一に役立てようと尽力した。<一章>


 秀高が今川家から独立して義元を討った後、信長亡き後の尾張を手中に収めようとした際、庇護した斯波義銀(しばよしかね)の外見が似ていたため、義銀の影武者として戦に従軍した。<二章>


 尾張統一後は秀高の秘書的な役割をしていたが、信頼と検地の作業に赴いていた時に襲撃にあい、その時に信頼との距離が近づいて結婚をする。そして信頼との間に念願の子である茶々丸を設けた。<三章>


 その後は赤子の茶々丸を養育しながらも秀高の秘書役に復帰し、政務を行う秀高を補佐する一方で戦に出陣した後には姉の玲やその子供たち、それに義秀夫妻の子供たちの面倒を見て里親代わりを務める。<四章>


 内気な性格のため、表立って行動することはあまりないが、秀高が信勝家臣の時代には家事など一切を(うめ)(らん)親子と共に行い、裏方での支えを厚くした。また、静姫が秀高館に極秘裏に来訪した時には、静姫と友達になり、それが後の秀高と静姫の橋渡しとなったのだった。





 静姫(しずひめ)


 山口教吉(やまぐちのりよし)息女→高秀高第二正室


 山口教吉の一人娘で、山口教継から見れば孫娘にあたる。父・教吉のもとで手厚く養育され、いつしかお転婆娘として手を焼かせるようになっていた。秀高と初対面であった時、静姫は秀高に反発したが、秀高の人となりと反論にたじろぎ、いつしか気になる存在になっていた。やがて(まい)を通じて秀高と面会した時にはその人となりにさらに惹かれ、いつしか気になる存在になっていた。やがて教継と教吉が不慮の死を遂げ、その中で教継が秀高に鳴海城主の職を継承させると、静姫は教継の遺言によって秀高と結婚することになったが、既に秀高の事を気に入っていた静姫は二つ返事で了承し、秀高の第二正室として、先妻の(れい)と共に秀高を支えた。<一章>


 義元を討ち取った桶狭間の戦いの後、信長の攻撃を受けた際には玲を伴い、秀高の寝室に赴いて三人で一夜を過ごした。また尾張侵攻の際には率先して於菊丸や扮装を行う舞の補佐を買って出て、玲と共に従軍。そこで親の仇であった織田家の滅亡を見届けた。<二章>


 尾張統一後は玲と共に産まれた子供たちの養育に専念し、また秀高との時間を大切にするように家族の時間を増やした。やがて自身にも子が産まれたが、双子の男の子であった為に周りからの偏見に苦しむようになる。だが、秀高の言葉を受けてどこか気が楽になり、二人の子供を育てるように接し始めた。<三章>


 その後は春姫や那古野に逗留するようになった帰蝶と仲を深めつつも、新しく増えていく家族や舞の子供たちに義秀夫妻の子供たちを一緒に面倒を見る。また自身も新たに御徳(ごとく)姫を産んで愛情を持って養育に務めた。<四章>




 三浦継意(みうらつぐおき)


 山口教継家老→高秀高筆頭家老


 山口教継に仕える初老の武士。元は相模国(さがみのくに)の豪族・三浦義意(みうらよしおき)の落胤で、父が北条早雲(ほうじょうそううん)に討ち取られて以降は乳母に連れられ、乳母の故郷の尾張へと逃げ込んだ。その後は教継に仕え、数々の合戦を教継と共に従軍した。やがて教継が今川家に寝返る際にもそれに従い、その際に教継の家老として貢献した。秀高らが信勝死後に鳴海へと落ち延びてくると、その才能を認めていて、秀高が桶狭間の領主となった時には、その領内統治のイロハを教え込み、それらを活かした秀高を更に認めるようになった。その後は秀高らと密に付き合い、佐治為景救援の際には秀高と共に従軍し、佐治領に攻め入った水野信元を撃破した。やがて教継が襲撃を受けて瀕死に陥ると、遺言によって秀高に鳴海城主が譲られるとの事を聞き、いの一番にそれに賛同した。その功によって秀高から筆頭家老に任ぜられ、評定の際の仕切りを任されるようになった。<一章>


 その後は大高城強襲・桶狭間の戦い・尾張侵攻でも筆頭家老の名に恥じぬ働きを見せた。嫡男の継時が桶狭間の前哨戦である中島砦で討死すると、跡継ぎを次男の継高に据えた。そして尾張侵攻では一軍を率いて犬山城攻略に従事し、戦後に犬山城代を引き受けた。<二章>


 尾張統一後も東濃方面の動きを見張るように犬山城に鎮座しつつも、交代制の月番家老として那古野へ参勤していた。しかし軍制改革の後、秀高に願い出て犬山城代の職を退き、自身は那古野城詰めの家老衆筆頭として秀高の側近くで再び仕え始めた。この様子を見た元康は、継意と秀高の関係を「水魚の交わり」と称えた。<三章>


 その後は高秀高の伊勢志摩侵攻に従軍。安濃津合戦において本陣近くまで踏み入ってきた鳥屋尾満栄(とやのおみつひで)と組み合った末に討ち取り武勇が衰えていないことを示した。後に秀高の居城である那古野城の増改築奉行を務め、将来を見据えた積極的な大規模改修を行って那古野城を東海一の名城に仕立て上げた。秀高の美濃攻めの際には出陣した後の留守居役を務める一方で着実に戦功を重ねた継高を末森城主に推挙した。<四章>



評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ