七、陰謀のドレス
***
腕の中で小さな子供がふぇふぇと泣いている。
ロシュアは片手で子供を抱き、もう片方の手で妹の手を掴んでいた。
荒れ果てた街の中を、必死に走っている。
「兄様……私はいいので、戻ってください!兄様まで裏切り者と呼ばれてしまう……」
ルティアが悲痛な声で言った。
ロシュアは歯を食い縛った。
気づくのが遅かった。自分の愚かさに嫌気がさす。
「ダメだ!お前の子は……この子だけは守らなければならない!僕達の……最後の希望だ!!」
ロシュアは叫んだ。
「もう間違わない!!もう二度と!!」
***
ロシュア・ビークベルは目を覚ましてすぐに自分の周囲を確認した。
いつもの自分の部屋だ。ビークベル家の王都の邸である。
鏡を見ても、映っているのは十八歳のいつもの自分だ。夢の中の自分は三十歳ぐらいに見えた。
「未来……か?」
ロシュアは首を傾げて呟いた。
大人の容姿になっていたが、夢の中の自分が手を引いていたのは紛れもなく妹のルティアだ。
ということは、腕の中の小さな子供は。
「甥を抱っこした」
「なに!?いつ産まれたのだ!?」
朝食の席で息子がぼそりと漏らした一言に、父親のドーリア・ビークベルががたりと立ち上がった。
「ルティア!どうして母様には抱かせてくれないの!?」
「抱けるようなものを産んでおりません!!」
母親のキャサリン・ビークベルに非難されて、ルティアは真っ赤になって怒鳴った。
「いきなり何を言うのですか兄様!!」
「いや、夢で小さな英雄王を抱っこしていたんだ。間違いなくアルフリードだった。三、四歳くらいかな」
夢の中の子供の大きさを思い出しながら、ロシュアが言うと、キャサリンがハンカチを噛んで悔しがった。
「息子に先を越されるなんて!おばあちゃまが一番に抱っこしたかったのに!!」
「おのれロシュア!父を差し置いて甥を抱っこするとは!」
「夢の話でしょ!?」
何故か本気で拳を握って悔しがる両親に、ルティアは突っ込みを入れた。最近、周囲の人々がまだ産まれてもいない子供を既に存在しているかのように扱うのがすごく怖い。この間なんて母が産着を買っていてルティアは頭を抱えた。
「そうだルティア。実は貴女に新しいドレスを仕立てたのよ。今日はそれを着て城に行きなさい。ガルヴィード殿下にお見せしなくては」
「……普通のデザインでしょうね?」
とんでもなく露出の高いドレスでも着せられやしないかと警戒心バリバリのルティアだったが、部屋に届けられたドレスは実にシンプルで上品なデザインだった。ぱっと見は白っぽく見えるが光の下では薄い桃色に光る生地で、丈はちょっと短く膝丈のスカートにはごてごてとしたフリルも付いておらず、飾りは帯についた大きなリボンくらいだ。飾りが少なくても袖がレースなので華やかさに不足はない。
一目で気に入ったルティアは早速着替えて上機嫌で城へ向かう馬車へ乗り込んだ。
「ガルヴィード!見て見て!新しいドレス!」
「おう」
ソファに寝ころんで本を読んでいたガルヴィードは、部屋に入ってきたルティアをちらりと見て本に目を戻しーーー思わず二度見した。
「お前……」
「皆似合うって言ってくれたの!ここに来るまでにいろんな人とすれ違ったんだけど、全員ドレスを見て「素晴らしいドレス」って言ってくれてね!」
「……」
本をテーブルに置き、ソファから身を起こしたガルヴィードは、こめかみを押さえて深い溜め息を吐いた。
それから、ちょいちょいと手招きしてルティアを呼んだ。
ルティアは素直にガルヴィードに近寄ってくる。その腰を掴んで引き寄せた。
「ガルヴィード?」
ガルヴィードは難しい表情でじっとドレスを睨んでいたかと思うと、おもむろに鼻を近づけてふんふん匂いを嗅ぎ始めた。
(ふぇ?ふぇ?)
お腹のあたりにガルヴィードの息づかいを感じて、ルティアは慌てた。
(な、なぜ嗅がれてるの?私?)
思わず身を引いて逃れようとするが、腰に回された腕がそれを許してくれない。
ちなみに、ルティアがうきうきと部屋に入ってきてすぐにガルヴィードに手招きされたため、部屋の扉は開いたままだしなんなら戸口にまだ侍女が立っている。その侍女は立ったまま扉を閉めることもなく、ルティアとガルヴィードを見てなにやら熱心に書き付けている。キラキラした目で。そう、羽化しそうな蝶を見守る少年のような瞳で。
「……やっぱりか」
「ふぇ?」
ようやく顔を離してーーーしかし、腰に回した腕はそのままでーーーガルヴィードが顔を上げた。ガルヴィードはソファに座ったままなので、立っているルティアは必然的に見上げられることになる。いつもは上にあるガルヴィードの顔が自分をじっと見上げてくるのに、ルティアは落ち着かない気分になった。
「お前、このドレスの意味がわかってるのか?」
「はい?」
ルティアがきょとり、と目を瞬いた。
ガルヴィードは溜め息を吐いて、ルティアの腰を抱いたままの体勢で説明を始めた。
「俺の母上はクレードル侯爵家の出身だ。母上の姉はレコス王国の第二王子に嫁いでいる。この布はレコス王国の特産の絹だ。そしてこれと同じデザインのドレスを着た俺の母上の肖像画が城の廊下に飾ってある。父上と婚約を交わす際に贈られた肖像画だ。つまり」
「つまり……」
「それと、このドレスに付けられている匂い……母上が愛用してる香水だ」
なるほど。国王との婚約の証として贈られた肖像画で王妃が着ているドレスを身に纏い、王妃ご愛用の香水と同じ匂いを振りまく少女が意気揚々と王太子の部屋に入っていくのをこの城の皆様は御覧になったわけか。
つまり、
私はこのドレスを着て、この匂いを身につけて、王太子の部屋に入ることを許される立場なんですよ。
と、自己主張してるようなものだ。
「ひ……卑怯!王家のやり口、卑怯!」
あまりのことに、ルティアは不敬も忘れて叫んだ。
さすがは王家。さすがは大人。はっきりと確実なことは何もないのに、見る人が見ればそうとしか思えないという絶妙なラインで攻めてきやがる。
「ぬ、脱ぐ脱ぐ!今すぐ脱ぐ!」
判明した事実に混乱したルティアは咄嗟にドレスを脱ごうとした。
「おい待て!やめろ!」
いきなりスカートをたくし上げようとしたルティアにぎょっとしたガルヴィードは必死に彼女を止めた。当たり前だ。
「いやー!脱ぐー!」
「帰ってから脱げ!な?」
「やだやだ!脱がせてーっ!!」
「だから脱ぐな!いや、帰ったら脱いでもいいから、ここでは脱ぐな!!」
「脱ぐ、脱がせて」とじたばた暴れるルティアを必死に押さえつけて、なんとか宥めようとするものの、ルティアは興奮して手が付けられない。
「ああもう!!」
とにかく落ち着かせなければ!と、ガルヴィードは暴れるルティアをソファに押し倒してがっちりと抑えつけた。
「落ち着け!」
「ふぇぇぇ、だってぇ……」
ルティアは暴れるのをやめたものの、ぐじぐじと泣き出した。ガルヴィードははーっと息を吐いて、ルティアの頭を撫ぜて慰めてやる。
「まぁ、そんな深刻に考えるな。ただのドレスだ。部屋着にでもすりゃあいい」
「うぅぅ〜……」
「泣くなって」
ルティアを慰めるのに夢中のガルヴィードは気づいていなかったが、侍女は最初から最後まで戸口に立ちっぱなしだし、相変わらず扉も閉まっていなかった。
故に、ソファに押し倒されて泣きじゃくる少女を抱きしめて耳元で何事か囁いて宥めている王太子の姿は、入れ替わり立ち替わり通り過ぎる城の人間に目撃されていたのである。
王太子の真の忠臣ルートヴィッヒが通りかかり部屋の中の様子を見て思い切り眉をしかめてそっと扉を閉めてくれるまで、「あらあら」「おやおや」と目を細めて通り過ぎていく人々の流れは続いたのであった。