二、ルティアとガルヴィード
***
「いやあああああーっ!!絶対にいやあああああーっ!!産みたくないいいぃぃーっ!!」
嫁入り前の伯爵令嬢が、自宅の柱にしがみついて絶叫していた。
その伯爵令嬢を引っ張って、父である伯爵が言う。
「いやいやいや、何も今すぐ産めなんて言ってないぞ?」
「そうそう、今すぐなんて無理よねぇ?まずは結婚しなきゃ!」
「甥っ子も来年あたりとか言ってたしなぁ?」
母と兄も一緒に引っ張りながらそんなことを言う。
「今でも来年でも結婚でもいやああああーっ!!いやったらいやーっ!!!」
「こら、ワガママ言うんじゃない!」
「そうよ!英雄が生まれるってわかってるのよ?安心して出産なさい!」
「英雄の伯父になれるなんて僕は誇らしいぞ!」
「なんで私があんな男の子どもをーっ!!いやああーっ!!」
「こら、王太子殿下をあんな男とは何事だ」
「そうよ。とりあえず王太子殿下にご挨拶に行きましょうね」
「そうそう。向こうもきっと慌ててると思うし」
ルティアは頑張った。柱にしがみつき、近隣まで響き渡る声で泣き叫んだ。
だが、父も母も兄も侍女も執事も近隣から集まってきた住民達も、
「あれが英雄の母か!」
「はっはっは。流石、イキがいいなぁ!」
「あれぐらい元気じゃなきゃな!」
「英雄を産むんだもんな!」
「頑張ってください!」
口を揃えて称えられて励まされて、味方は一人もいなかった。
***
ルティアは伯爵令嬢である。
貴族たるもの、政略結婚は常識だ。顔を見たこともない相手に嫁ぐことだって珍しくない。
貴族の令嬢に課されるのは、いかに家格が高く条件のいい相手に嫁ぐかということだ。
ルティアの家格はそれほど高くない。伯爵位の中では真ん中より少し上あたりに位置される家柄だ。
その伯爵令嬢が、王太子と結婚できるなら、それはもう一族を挙げて歓喜する慶事だ。
それなのに何故、ルティアがこれほど暴れて嫌がるのか。
それはひとえに、ルティアと王太子ガルヴィードが、不倶戴天の仇敵であるからに他ならない。
たとえばそう、貴族達が夢の内容について話し合うために集まった王宮で、無理矢理連れて来られたルティアと嫌でも出迎えなければならなかった王太子が、顔を合わせるなり互いの顔面をホールドして膠着状態に陥ったように。
「さて、あの夢が未来に起きることなのは異論ないですな」
「ええ。まったく恐ろしいことです」
「しかし、大きな希望がある」
「今から騎士団を増強しましょう!」
「教会も魔王の復活について調べています」
「大魔法使いは自身の魔法を他の優秀な魔法使いに伝えるといっています」
「とにかく、我々は未来の英雄を最大限に支えるため、出来る限りのことを始めましょう!」
「なにはともあれ、まずは英雄の誕生のための準備を」
「そうですな。今日で婚約を整えてしまいましょう」
「異議なし」
「「異議ありっ!!」」
ルティアとガルヴィードは声を揃えて怒鳴った。
「「なんでっ、こいつとっ、婚約しなきゃならんのだっ!!」」
「英雄誕生のためだ」
懇親の叫びは国王に一言で切って落とされた。
「そうですよ王太子。英雄のためです。早く産ませてください」
「ルティア様も、不安だとは思いますが、この国を、人々を救うためです。英雄の母となる栄誉を与えられたと思って……」
「いやああああっ!!無理無理無理!なんでこの陰険目つき悪王太子野郎の子どもなんて産まなきゃならないのー!?」
「誰が陰険だ!!こっちだってごめんだ!!産ませてたまるかあああーーっっ!!」
「では伯爵、こちらの婚約宣誓書にサインを……」
「はい。では、これで」
「「勝手に進めんなっ!!」」
まだ午前中だというのに、すでに婚約が整えられつつある。こんな時に限って王侯貴族の仕事が早い。
ルティアは隣の王太子の顔を見上げた。
漆黒の髪に同じ色の瞳、背の高い彼は黒狼の騎士との異名を持つ。ややつり目気味の瞳にすっきりした鼻梁、白い肌の美丈夫だ。
対するルティアは金色の髪に明るい星月夜を思わせる藍色の瞳、特別美しい訳ではないが、小柄で華奢でくるくるよく変わる表情が魅力的な少女だ。
そんな二人が、初めて顔を合わせたのは、王太子の婚約者を決めるために開かれたお茶会の席、王太子十歳、ルティア八歳のことだった。
女の子に囲まれてぎゃあぎゃあ甲高い声を聞くよりも、公爵や侯爵の息子達と遊んでいたかったガルヴィードは不満を思い切り顔に出していた。
綺麗に着飾った少女達に集られて不機嫌が最高値まで高まっていた時に、それはやって来た。
「きゃんっ!」
王太子に挨拶してらっしゃい、と送り出された伯爵令嬢が、つまずいてすっころんだ。
その拍子に、前にいた王太子のズボンをがっしりと掴んだ。
後に「王太子パンツ公開事件」と呼ばれる後世に語り継がれる悲劇が起きた日である。
後日、謝罪に訪れた伯爵令嬢に、恥をかかされた王太子は「初対面の男のズボン脱がすような女は一生結婚出来ねぇよ!!」と怒鳴り散らした。
それに傷ついた伯爵令嬢は王太子の横っ面を叩いた。
それ以来、二人は不倶戴天の仇敵であり、これまでことあるごとに戦ってきた相手なのである。
その相手と子作りしろとか、正気じゃない。
その不仲ぶりは周囲の者にもよく知れ渡っている。王太子ガルヴィードと伯爵令嬢ルティアといえば、どの貴族に尋ねても「ああ。犬と猿ね」と返ってくるぐらいには嫌い合っているのである。前世からの因縁と言われても疑えないレベルで。
そんな二人がどうして子作りなど出来るだろう。
「確かに。二人が戸惑うのも無理はない」
二人がぎゃあぎゃあ訴えると、国王はようやく考え直してくれたようで婚約を進めていた手を止めてガルヴィードとルティアに向き直った。
「もちろん。無理矢理子どもを作れなどと言うつもりはない。我々もまだ混乱しているのだ。だから、二人は別室で待っていてくれるか。朝からいろいろあって疲れただろう。お茶でも飲んで心を落ち着かせるといい」
国王がそう指示して、ガルヴィードとルティアは確かに疲れていたこともあり素直に従った。
「では、応接室にご案内します」と侍女が言い、二人は応接室に向かった。
王宮の応接室はルティアも入ったことがある。兄のロシュアが宰相の下で働いており、王太子の側近の中に宰相の息子がいるために「茶に付き合え」などと呼び出されることもあるのだ。
時々兄にくっついていくルティアは、応接室に入るなり王太子と仁義なき戦いを繰り広げるのである。そんな思い出しかない場所だ。
そんな場所に入って、二人は無言で立ち尽くした。
「では、お茶を持って参ります」
侍女が頭を下げて退室しようとする。
「待て」
それを、王太子が呼び止めた。
「なんのつもりだ?」
「なに、とは、なんのことでしょう?」
「すっとぼけるな!!椅子とテーブルはどこへやった!?なんで応接室のど真ん中にベッドがあるんだ!!」
「はて?応セッ室は元からこういう内装では?」
「んな訳あるか!!」
いくらなんでも仕事が早すぎる。勝手に王宮の一室を改装するんじゃない。
「そもそも応接室で仕込まれる英雄なんか嫌だろうが!!」
「英雄はどこで仕込まれようと英雄です。ご安心を」
「何を安心しろってんだ!?」
ガルヴィードは「うがーっ」と頭を掻きむしった。それを見て、ルティアはドレスの裾を握り締めてぶるぶる震えた。
(なんで、こんな辱めを……)
どこの世界に、王宮の応接室に急遽運び込まれたベッドへ案内される令嬢がいるのだ。目にじわりと涙がにじんだ。
「それもこれもアンタのせいよっ!!」
「はあっ!?」
「何がどうなって私がアンタの子を産むのよっ!?」
「知らねぇよっ!!ーーーって、おい、よせ!落ち着けっ!」
ルティアは朝からの一連の流れでもういっぱいいっぱいだった。ぶんぶん腕を振り回してガルヴィードに殴りかかった。
ガルヴィードはルティアの拳を避けて腕を掴んで宥めようとした。
ルティアはいっぱいいっぱいだった。冷静さを失っていた。
泣きながらガルヴィードに殴りかかって、腕を掴まれて暴れた結果、足を滑らせて後ろ向きに転んだ。
「っ、おい!?」
ガルヴィードはルティアの腕を掴んでいたため、バランスを崩して一緒に倒れてしまった。
幸い、ベッドの上に倒れ込んだので、二人とも怪我はなかった。
「……テメェ!危ないだろうがっ!!」
「ガルヴィード?ここにいるのか?」
ガルヴィードは知らなかった。
侍女がいつの間にか姿を消していたことを。
そして、夢をみて「やれやれ大変なことになったな」と王太子の親友である侯爵家嫡男ルートヴィッヒ・ハウゼンが城を訪ねてきて彼を捜していたことを。
応接室の扉を開けたら部屋の真ん中に何故かどでかいベッドがあって、王太子が泣きじゃくる伯爵令嬢を組み敷いていた。
「俺は正しいことをしたと思う」
王太子にジャーマンスープレックスを決めて昏倒させた侯爵家嫡男は後にそう供述した。