私の声は届かない
私の名前は佐瀬巴。
突然だが私には、愛して愛して止まない人がいる。それが、今ちょうど教壇に立っている数学教師、紫藤孝道先生だ。
それにしても、今日も先生はなんてかっこいいのだろう。
私がノートをとることなんてそっちのけでぼうっと見とれていると、ふと先生がこちらを一瞥した。
目が、合った。
私はごくんと唾を飲んだ。
「ほら佐瀬、聞いてるか」
「あ、はいっ!聞いてます!」
「じゃあここの角度は?」
「え、えーと…あー…ニヒャクロクジュード?」
「なんでそんな片言なんだ。ちゃんと聞いていたなら、もっと自信を持って言え」
くすくすと控えめな笑いが起きた。
私は何だか恥ずかしくなってきて、シャーペンを握ったまま俯きそうになった。
しかし、先生はこちらを見て少し笑っている。そう、笑っているのだ。
私は顔から火が出そうになった。本当に、本当だ。
頬が火照っているのが、触れずともわかる。でも、不思議と嫌な火照りではなかった。
先生の微笑んだ顔は、繊細かつ精悍で、この世の何物にも代えがたい価値がある。
そう言うと、大抵隣の席の神田雪乃に鼻で笑われるのだけれど。
その雪乃はというと、何その片言、とぼそりと私をおちょくっている。
私はそれに反応するのも忘れて、先生の笑んだ顔をずっと見ていた。
「巴、シャーペン落ちた」
雪乃が袖を摘まんできた。
どうやら呆然とするあまり、シャーペンをちゃんと握れていなかったらしい。そろそろ介護が必要かもしれない、要介護認定してもらうか。
ーーーなどと考えていると、紫藤先生はまた黒板のほうに向き直って、何やら数式を書いている。
うーん、その姿もまた様になる。
さっきは何とか解答できたけれど、私は文系なので数学はあまり得意ではないのだ。
私は雪乃からシャーペンを受け取ってから、慌ててノートを取り始める。
そのとき、雪乃がずっと私のことを見つめているのに気づいた。
私の顔に何かついているのだろうか。
「雪乃、何?」
「え?」
「え、じゃないよ。私のことずっと見て」
紫藤先生に聞こえないように、ぼそぼそと喋る私と雪乃。一番後ろの席であることが幸いして、ばれてはいないようだった。
「そんな見てた?」
「うん、めっちゃ」
私が少し笑いながら言うと、雪乃はいつもよりほんの僅かに目を見開いた気がした。
それから、ゆっくりと言った。
「いつも巴のこと見てる」
その瞬間、時が止まったように思えた。
窓からはそれを無視するかのように爽やかな風が吹き込んでくる。雪乃はこちらを見据えたまま動かない。私はどうにかなりそうだった。
授業の終わりを告げるチャイムが鳴って、そこでやっと我に返った。
雪乃はまだこちらを見ている。
「知らなかった?」
「………」
開いた口が塞がらないとは、まさにこういう状態のことを言うのだなあとぼんやり思った。
私は、雪乃が席を立って教室から出ていくまでを、取り憑かれたように見ていた。
思い出したように、心臓がどくりどくりと言い出した。ずっと鳴っていたんだろうけど。
けれど、私は雪乃の発した言葉の本当の意味を、捉えることができないでいた。
私のことをいつも見ていたーーー。
そう言ったときの雪乃は、どこか寂しそうで、感情がぐちゃぐちゃになっているのをどうにかして抑え込んでいるかのようだった。
私は、雪乃がわからなくなった。
まさか雪乃って、私の顔に何かついてるのを笑いをこらえて黙って見てるとか?
いや、そんな雪乃はばかげたことをするタイプではないし。
「えー、じゃあ何だよもー!」
私はとっくにどこかへ消えてしまった雪乃に対し、大声で叫んだ。
雪乃なら、これに反応していや別に、とかなんとか言ってくれそうな、そんな気がして。
だけど、私の声は雪乃には届かないのだった。