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Deathtiny  作者:
Chapter3「サウンド欠落ギタリスト」
19/19

#17「Sound lacking vocalist」

---個人的には、白熱した戦いだった。

「はぁ…はぁ…」

やっぱり、何度やっても意味の分からないゲームだった。腕が絡むし、ノーツは速いし、見切れるわけがない。

後ろで、女性客2人が待機していた。きっとそれなりに熟達した人だろうから、響子と並んでこんなお粗末なプレイを見せてしまったこと、この上なく恥ずかしく感じられた。

「いやーすごいね、お姉さん完敗だよー」

(ふざけやがって…)

僕は、響子に勝った。スコア上は。

だが僕は響子のリザルト画面を見て、軽く引いた。

《コウニズム》にはリズムの判定が5種類ある。「PERFECT」が最高判定、「GREAT」はスコアが落ちるがコンボは継続されるタイプ、「OK」はコンボが途切れるがクリアゲージの減少はなく、「BAD」や「LOST」はゲージの減少が発生する。




---響子はフルコンボを達成していたのだ。

()()G()R()E()A()T()()()()




「化物かよ…」

「女の子は化物呼ばわりしちゃダーメ」

響子は言う。マスクの下で悪戯笑いしているのが丸分かりだ。

GREAT判定のスコアはPERFECTの半分らしい。コンボ補正やキャラクター補正があるのでALL PERFECTの丁度半分になるわけではないが、凡そ6割弱にはなる。

そして、相当に下手でなければ、この難易度の曲は初見でも7割は取れる。一般に「音ゲーが難しい」と言われるのはそこから100%までどれだけ詰められるか、ということだ。

「んー、今日は精度がダメダメだったなぁ、あはは」

そして彼女のように、ALL PERFECTを取った経験のある人間の中は、次にALL GREATを目指すという気の狂った音ゲーマーもいる。当たり前だが、全てGREAT判定というのは意識的にタイミングをずらしてやっているわけだから相当に難易度は高い。それを響子は、僕に見せつけてきたわけだ。

「負けちゃったなら仕方ないなー、じゃ、約束通りスタジオ行くね!!」

「…ああ」

響子は最初から条件など付けなくてもスタジオには出向くつもりだったのだ。

「よーし、あと2曲だ!頑張りたまえよ!!」

「はいはい…」

既に疲労困憊の僕は、響子の言葉に対して適当な返事しかできなかった。






***






「じゃ、後で」

「うん」

ゲームセンターを出ると、やっぱり雰囲気が変わっていた。静かだった道に、少しずつ会社帰りのサラリーマンが徘徊する。僕は出口で響子と別れると、両国駅方面へ向かった。

あの後、2連敗した。響子は2曲ともフルコンボ。片方に関してはALL PERFECT。彼女がもう片方の曲をプレイ中に「あーグれたー!!」と奇声を上げた時は、僕なんかGREATどころの騒ぎじゃないんだけど、と言ってやりたかった。

響子は、今日会った3人の中で最も変化があった気がした。というか颯斗が全然変わっていない。琴音は僕が変わったと揶揄したが、琴音も大概だ。そして実際に変わったかどうかなんて、誰にも分からない。

でも、やっぱり一番変化があったのは奏幸だろう。彼の記憶を何とかして取り戻し、僕の悲願を成就させなければ。

そう思って、交差点の信号を渡りきった時だった。





「---お疲れ様でした」





「うわっ!!?」

思わず飛び退く。その透き通った声に。

「大変そうですね」

「な…なんだ、莇か」

顔を合わせるのは今朝以来だ。莇は無防備な笑顔を振り撒く。

「3人には集合かけたんですか?」

「ああ。みんな来てくれるって…。ていうか、何で来たの?」

「暇なんですよ。テレビ観てても何だかよく分からないし」

「そう…」

正直莇のことは忙しくて考えられていなかった。確かに一日あの場所に囚われているのは退屈だろう。

「そうだ、莇に頼みたいことがあるんだ」

「珍しいですね、何ですか」

頼りにされるのが嬉しいのか、莇はぐいぐいと近寄ってくる。

「僕のギターを家に取りに行きたいんだ」

「なるほど」

「でもこの時間軸にいる別の《僕》と鉢合わせる可能性がある。それはマズいんだよね?」

「…。…あぁ、そうですね」

僕と莇が《乖離界》から現世に戻った初日、莇から言われた言葉だ。この世界の《僕》と、今ここにいる僕が会うとドッペルゲンガー現象を来して互いに絶命する、と。

「確かこの日の《僕》は図書館に行っているんだ。今から取りに行っても会う可能性は低いけど、念のため」

「…私に時間を止めてくれ、ということですか?」

「呑み込みが早くて助かるよ」

この日の《僕》は20時頃まで帰ってこない。今はまだ18時ちょっと過ぎだし、家にギターなどを回収しに行っても会うはずはないのだが、何せバタフライ効果の影響が如何程なのか僕には分からない。僕と莇の行動が、この時間軸の風景を既に大きく改変してしまっているかも知れない。

「…分かりました、そういうことなら」

「ありがとう」

僕がそう言うと、莇はにっと笑った。子供らしい、無邪気な笑顔だ。






***






数十分後、2人は家の前に着いていた。

「マンション住みなんですね」

「部屋はだいぶ狭いけど」

家賃5万5000円。清澄白河近郊の4階建てマンション。《僕》はその2階に住んでいた。

「そういえば、鍵は大丈夫なんですか」

「ああ…」

《僕》が錦糸町で自殺した時の手持ちはスマホと家の鍵だけだった。財布はいらなかったが、スマホは最後のお祈りメールを確認する必要があった。鍵はどちらでもよかったが、やっぱり自殺前に整理した部屋を誰かに荒らされるのは嫌だったので、扉を閉めて持ってきた。

だが諸般の持ち物は時間軸をリセットした時には消えていた。スマホも鍵も、今あるのはもう一人の《僕》のポケットだろう。

「こんな事もあろうかと」

そう言うと、僕は扉の右横の壁に取り付けられた銀のポストの中に手を突っ込んだ。投函物のある底面ではなく、何もないはずの上面を内側から探る。

「…ん、これか」

僕はその面からビリッと何かを剥がした。そして、手を出すと掌を開いて莇に見せた。

「おお…」

ポストの上面にセロハンテープで貼っていたのはスペアキーだった。万事の際に、家の中に入れるように隠していたのだ。

「これで…」

僕は扉の鍵穴にキーを差し込むと、ゆっくり回した。ガチャン、と意外にも軽快な音が鳴る。

扉を開けると、当たり前だが《僕》の部屋があった。僕が入り、後ろから莇が「失礼します」と一言添えて踏み入る。

「綺麗な家ですね」

「何もない、の間違いだよ」

高校からずっと一人暮らしの《僕》には、とにかくお金が無かった。どうせ買えるものも少ないので、住まい選びの時は狭くてもいいから低家賃を追求した。その結果、7畳の部屋には布団と机、その他少数の生活用品しかないという環境になっている。

「莇、時間を止めて」

「…ああ、そうですね、私の手を握って」

「うん」

そう言うと、莇は魔法らしき呪文を唱え始めた。詠唱はたったの3秒で終了する。





「…!!」





やっぱり、この子は神なのかも知れない---それを今日、身に沁みて思った。

明らかに異質な雰囲気に包囲された---それは体の至るところで感じることができた。肌は空気の微細に揺れさえ感知せず、耳は埃が床に落ちる音も遮断。これが時が止まった、という感覚か。

「手を離すと禊に流れる時も止まってしまいます、気を付けて」

「うん」

僕と莇は靴を脱いで部屋に上がった。

回収するのはギターと銀行通帳。衣服類も多少持って帰りたいが、あまり箪笥の中身が少なくなっていると《僕》が気付いてしまう可能性がある。

僕は右手でクローゼットを開いた。

「そんなところにギターしまってるんですか…?」

「高校卒業してから殆ど触ってないから」

だが、ここに置いていたのは寧ろラッキーだった。部屋の壁に掛けてあったりしたら、ほぼ確実に《僕》にバレてしまう。

机の引き出しも開いた。奥をガサゴソと漁り、薄い銀行通帳を引っ張り出す。

「守谷に返さないと」

「食事とか衣服代もこれで賄えるんじゃないですか?」

「ま、この()()()()も半ば過ぎだけど」

僕の刺のある発言に、莇は不貞腐れる。僕は無視して作業を進めた。

「よし、時を動かして」

「…はい」

何だかんだ言いつつ、莇は従ってくれた。家に入る前の感覚がふっと戻ってくる。

僕は莇の手を離して通帳をポケットにしまうと、カバーされたギターを両手で持った。ネックを持てば片手でも可能だが、流石に重いし危なっかしい。

そのまま部屋を出ると、僕は鍵を掛けて部屋を後にした。きっともう、二度と来ない。

通路の後ろから、莇が後を追う。

「いいんですか」

「何が?」

「もしかしたら最後になるかも知れませんよ」

一瞬、僕の心を覗かれたのかと思った。だが、莇はこういう気遣いができる女の子だということを思い出すと、当然の対応なのだろうと思った。思うことにした。

「…必要ないよ」

だが、僕はそれを振り払った。

迷わなかったわけではない。自殺した時は家に別れを告げるだなんてこと、思い付きもしなかった。今は気持ちがそこまで塞いでないから、何となく思っただけだ。

だけど、まだ足りない。

「…行こう、奏幸が待ってる」

僕は歩みを速めた。マンションから見える夕日はとっぷりと沈んでいる。

奏幸の自殺まで、あと2時間---






***






地下への階段を下ってゆくと、話し声が聞こえた。さっき話したばかりの3人だ。

「おまたせ」

「あ!」

地下のスタジオに入って一番最初に反応を示したのは琴音だった。弄っていたスマホから目を離し、僕に小さく手を振る。円形テーブルに一緒に座っていた颯斗と響子も遅れてこちらを見る。

「遅かったね…って、あれ?」

琴音は座ったまま、僕の後ろを覗いた。そこには、小さな少女が一人。

「禊、いくら何でも誘拐は」

「誘拐じゃないって…」

颯斗は冗談を真顔で言ってくるから、本気なのか嘘なのか分からないことがある。今は、少しだけにやけが唇の緩みに現れていた。

「妹だよ。どうしても僕らの演奏を聴きたいって」

「い、妹!?禊くん、妹がいたの!?」

やっぱり一番反応が大きかったのは琴音だった。颯斗も「へえ」と言った感じに、僅かな驚きを隠せないでいる。響子はマスクをしていて何を思っているが全然分からない。莇が妹ではないと見抜かれていそうな気さえする。

すると、莇が僕の後ろからおずおずと身を出した。

「あ…あの、宜しくお願いします…」

(…え?)

その小さな声には、僕も少し驚いた。てっきり僕やスティンガーみたいな歳上と話している時も全く怯みを見せていなかったから、大人の対応には慣れているものかと思っていた。あの莇がここまで弱気になるのは珍しい。

「かわい~!お名前は?」

「あ、莇です…。頭、撫でないで」

「かわい~!」

琴音は余計に莇の髪を触る。

(…ああ)

そこで、何となく合点が行った。

莇は確かに大人と話し慣れている。老若男女は多少あれど、毎日80人前後の人々が《乖離界》に訪れ、恐らく莇は全員と毎日話している。

だがそれらは皆、自殺という禁忌に触れた()()()()()だ。そのような人々との会話など、中味のあるものではない。退廃的な言葉が、ただただ連なるだけ。

対して、琴音たちは明るい人間だ。自殺など一度も考えたことがない、極めて世界の正しさに忠実に生きてきた人々。守谷から保養所を借りる前も、莇はやや守谷を避けていた気がする。莇はそのような大人といつもの大人との間に、大きなギャップを感じているのか。

しかしそう考えると、また新たな疑問が生じる。莇は死神になる前は普通に現世に生きる少女だったはずだ。なら、それまでに琴音のような人間には出会わなかったのだろうか。

彼女は自殺した人間だ。死ぬ前に何か特別な事情を抱えていても不思議ではない。僕はそうして、次はその「特別な事情」とやらを知りたくなるのだ。

「禊くん羨ましいなぁ、こんな可愛い妹ちゃん連れて」

「や…やめて下さい」

「…」

琴音の莇を弄りたい欲求はまだ収まりそうにない。莇には悪いが、暫く放置することにした。

「それより、奏幸は来ないの?」

ここに来て、初めて響子が口を開いた。相変わらずその口はマスクで見えないが。

「来るよ、必ず」

「説得したの?」

「親御さんに任せた。僕より適任だと思って」

「…記憶ないんじゃないの?」

(…)

僕の一言で、そこまで見抜かれるとは思わなかった。僕が5年前の争いを気にしていることを。響子はどうしてこんなにも鋭いのか、大人になった今でも全く分からない。

「それだけ記憶が残ってるみたいなんだ」

「へえ、禊、呪われてんじゃない?」

「かもね」

悪戯笑いをする響子。だが、やはりその顔は見せようとしない。こちらの心は幾らでも覗いてくるのに、そちらは徹底的に隠すつもりか。

(…)

とは言え、やはり心配だった。僕が横槍を入れないのは正解だと思ったが、母親に丸投げしたのは間違いだったのだろうか。



その時。






「---こんばんは」






「…!!」

4色の声に混ざる、新たな色彩。

その場にいる全員が振り返った。

「…奏幸」

「これで良かったんですか」

「ああ」

僕は奏幸の顔を見据える。5年間伸びていた髪をバッサリ切っていた。髪は昔とのギャップの一部分でしかなかったが、やはりこの方が以前の風情がある。後ろには、きっと自分のものだとは意識が持てていないギターを背負っていた。

「奏幸くん!」

「…」

「久しぶり」

3人はそれぞれ奏幸に声を掛けた。

颯斗はやっぱり気難しい性格だ。奏幸の方を一瞥するだけ---と言いたいところだが、それは琴音と響子も大差なかった。この2人ならもっと彼の手でも握って優しく笑い掛けそうなものだが。

(…)

きっとこれが《壁》なんだと思った。

3人も感付いていたんだ。



---これは本当に《音無奏幸》なのか、と。



彼に欠けているのは記憶だ。それを取り戻せば、きっと奏幸らしさに近付くはず。

だが、それだけじゃない。

彼が個性的に持つ別の《何か》を心に捩じ込むのだ。

記憶と同じくらい抽象的な《何か》。

それは、一体何なのだろうか。


その時。

「お、来たか」

「…あ」

スタジオの1号室から出てきたのは、店長だった。僕らの使う部屋を準備してくれていたようだ。

「こんばんは」

「懐かしいな」

5年前と大差なかった。顎髭は相変わらず伸ばしているし、恰幅の良い感じも変わっていない。強いて言うなら、白髪が増えたぐらいだろうか。

「もう部屋、使っていいからな。準備できたら教えてくれ」

「はい。みんな、行こうか」

立ち話でも、と思ったが思い止まった。心配する必要はないはずなのだが、やはり彼の自殺時刻が気になる。




スタジオは、前より広く感じられた。

壁の質感は変わっていない。木目が整った檜の触り心地、薫り。ドラムセットが一式、アンプが4台、マイクが2台。キーボードは琴音が個人に持っているものを使っている。他にも幾つか機材があるが、俄の僕には何が何だか分からない。

とにかく、部屋が重量感のあるもので埋まっているのだ。体積的にも、音量的にも大きい。入って左側の壁が全面鏡になっているとはいえ、何でここまで広く感じるのだろうか。

「これじゃないなぁ…どれだったっけ?」

「こっちじゃないか?おじさんも覚えてないけど」

後ろでは、響子がスネアドラム選びをしていた。おじさんも種類について話しているようだ。

隣のアンプからは、颯斗がベースのチューニングをしている。音感のない僕らは、チューナーに頼る他ない。その奥では、琴音がシールドの接続をしていた。

何だかんだ言いながらも、3人は協力的だった。颯斗なんか特に嫌がっていた割には妙にやる気だ。ベース弦の輝きは、ついさっき張り替えたことを意味している。

一方。

「…」

奏幸はギターこそ出したが、その後はマイクスタンドの前に突っ立っているだけだった。シールドの接続先が分からないのか、それとも別の問題か。

スタジオ部屋の外をちらりと見た。響子とスネアドラムの選別を終えたおじさんは、レジの側で何か探している。莇はその横で、テレビ画面に映る女性スリーピースバンドの演奏を鑑賞中。

奏幸の母親は---待合室の壁に凭れて僕を睨んでいた。煙草を吸いながら。

(怖っ…)

待合室の一番奥だから、スタジオの誰を見ているかなんて分からないはずだが、どうにも僕が標的にされている気がした。ひたすら怖い。何かしら奏幸を手伝ってあげないのだろうか。

(…ていうか)

奏幸の説得はあの人が行った、ということで良いのだろうか。僕は親子の絆を舐めていたようだ。ましてや息子の緊急事態とはいえ、僕に協力的になってくれる態度自体が驚きだ。

感謝し損ねた。奏幸がここに着いた時点ですぐ言うべきだった。今の威嚇的な視線では、僕は蛇に睨まれた蛙状態だ。或いは向こう側が敢えて僕を遠ざけるようにやっているのかも。

「…奏幸、ギター貸して」

「あ…はい」

取り敢えず、声を掛けた。周囲の音に負けぬよう、大きな声で。

僕はギターを受け取ると、奏幸のケースからシールドを取り出した。5年間使っていないだけあって、殆ど傷がない。

対してギターの弦は歳月が経てば錆びるのが一般的だが、どうやら張り替えたようだった。きっと母親が替えたのだろう。チューナーを使ってみるが、どうやらチューニングまで合わせてくれたらしい。

アンプとギターを繋ぎ、出力を調整する。僕のギターも同時に鳴らして、全体とのバランスを確認する。

「よし」

僕は奏幸にギターを返した。奏幸はストラップを肩から掛ける。

「あの…」

「何?」

「僕、何をしたらいいんですか?」

奏幸は不安そうな顔で僕を見る。

言われる台詞だと思った。だから、もう返す言葉は決めていた。






「…僕らに全部任せて。必ず、あの時に遡ってみせるから」






「…!!」

奏幸ははっとした。昨日以来、一番感情的になった瞬間。

「無理を言ってるのは分かってる。だから、何か思い出したら音を鳴らすなり歌うなりして…」

「遡る…」

「え?」

激しい音の波の中で、微かに聞き取った5文字。

「お母さんにも言われたんです。やり直すんじゃなくて、遡るんだって」

「…」

まず、奏幸がお母さんのことを「お母さん」と呼んだのが驚きだった。無機質な発音だったが、体裁を成しているだけでもその言葉はよっぽど意味を強く持てる。

そして、あの人と同じことを考えていた。やり直すのではなく、遡る---まさにその通りだった。

再現には「やり直す」なんて意味は全く含まれていない。《1回目》を知らない人間が予行すること---《0回目》を行うのが「やり直す」ことだ。対して「遡る」は《1回目》をぶっつけ本番でやることを意味する。リハーサルなんてものは関係ないのだ。

「…莇と店長さん呼んでくるね」

「あ、はい」

「…あと、お母さんも」

「はい」

奏幸の表情には全くブレがなかった。決意というより、これから襲来する全てを享受する、といった顔だ。






***






---最初の音は、ギターのDコードで始まる。

僕の音だ。5年ぶりというだけあって、明らかにストロークがぎこちない。目の前すぐの距離には、莇と店長、そして奏幸の母親。

次いで奏幸のアルペジオが入る---はずだが、彼は僕の方をただぼうっと眺めるだけだ。その4小節後、響子のドラムと颯斗のベースが同時に挿入。

更に4小節後、琴音のキーボード。まだ続けているだけあって、明らかに上手だった。ピアノの軽快なリズムが、他の音を優しく包むように響く。



「…!」



丁度、ボーカル部分が入ってくるところだった。予想通り、奏幸は歌わなかった。




だけど、代わりに鼻歌を歌い始めた。




本来のメロディーには程遠いが、リズムは合っている。きっと奏幸が潜在的に持っている音楽の才能だろう。不協和音的な歪みも感じない。

(…。…流石だ)

病院では見せなかった、当時の頃を垣間見せる奏幸。

周りの3人も一瞬驚きの表情を浮かべるが、すぐに奏幸の奇才だと理解したようだった。

あの時らしい。「らしさ」でも大丈夫だった。




---奏幸は今、作曲している。

同義に、時を遡っている。

自分の記憶の中にあるその旋律を探し出しているのだ。




Bメロ。リズムに付点が加わる。響子の魅せどころ。

少し、奏幸の声が消えた。だが、すぐに復帰する。今度はメロディーが合ってきた。

(すごい…)

奏幸の才能は《Spacephonic》の誰もが認知していた。だが、ここまでとは。過去の自分ならこのコードにどんな音を乗せるか---それをリアルタイムで行っている。





「…あの日の影を探して」





少し口ずさんだ。奏幸がびくりと反応する。

「もし、あの時に戻れたなら」

コードギターを休んだ。僕にはギターとボーカルなんて器用なことはできない。歌単体でも外しまくりだ。

「…」

奏幸は不思議そうな目で僕を見つめた。

でも、きっとこれが正解だ。


---だってこの歌の歌詞を書いたのは、他でもない僕だから。






「「---必ず探し出す!!」」






声が重なる。


5年前と周波数が一致する。


---この狭い部屋を大きく震わす。






観客の3人と僕は息を呑んだ。

きっと後ろの3人もはっとしたはずだ。しかし、その楽器を奏でる音は止まらない。

だが---その音色が確固たるものとなったのは、間違いなく奏幸だった。



この歌のタイトルは《テレスコープ》。


僕ら《Spacephonic》はまだ六等星のように小さなバンドかも知れないけど。肉眼ではその輝きを認識することなどできないけど。


この望遠鏡(テレスコープ)があれば、僕らは確かにそこにいる---その事実を、しっかりと身に沁みて感じられる。


そして、誰か《一人》がいなくなったとしても、僕らが必ず見つけ出す。



僕はボーカルを捨ててギターに専念した。

奏幸には、僕のリードはもう必要ない。

僕は本来、重なってはいけない。





---この演奏の目的は《再現》だから。






***






失われたものと取り戻せるもの。

この差は言葉通り、圧倒的な大きさを含んでいる。

これは、()()()()()記憶だった。




「---禊」




楽器を片付けている最中、奏幸が後ろから声を掛ける。昨日も今日も名前なら呼ばれたはずなのに、清々しいほどの懐かしさが心を包んだ。

「何?」

僕はギターケースのチャックを上げて振り返る。




「ごめん」


「え?」




突然の謝罪。

思い当たる節がなかったのではない。()()()()()のだ。5年前の喧嘩のことか、事故に遭ってライブができなかったことか、それとも今まで僕らのことを思い出せなかったことか。

だが、そのベクトルは意外な方向に向いていた。

「僕はあまりに単純思考だった」

「何が?」

「禊を評価するに於いて、判断材料が少なすぎたってことだ」

不意を突かれた。病院での会話のことか。

「…別にあんなの気にしてないよ」

寧ろ僕はあの時の奏幸を逆に褒め称えたい。記憶喪失なら普通錯乱状態に陥りがちだけど、それでも奏幸は僕に客観的な視線を向けてくれた。




---この記憶は、全ての記憶の一部かも知れない、と。




「とにかく、おかえり」

「…ああ」

奏幸が戻っても、僕らは思ったより交わす言葉が少なかった。それは互いの信頼性に基づくものなのか、僕には分からない。

スタジオの外を見た。莇と店長が対話している中、奏幸の母親はスタジオに取り付けられたテレビをぼうっと眺めていた。煙草はもう吸っていなかった。

僕は声を掛けようとして、やめた。苦手な相手だからではない。奏幸と違って、言葉を投げ掛ける必要がないと思ったから。あの人は僕の真意を理解したから、ここにいるのだ。

「…」

母親は僕の視線に気付いた。だがすぐに目を逸らすと、すうっと息を吐いた。煙草の煙のように。あの吐息には、どんな感情が混ぜ込まれているのか。

「奏幸」

「何?」

僕は奏幸の肩を叩いた。






「もう、迷子になるなよ」






---記憶喪失という、真っ暗な宇宙の中に放り出されたとしても。

僕らが望遠鏡でお前を捜し出す。



彼が失ったものは記憶だけではなかった。

それは《音》だ。

《音》を無くしたボーカリストは空っぽになる。



ただの音ではない。

各個人がそれぞれに固有の音を持つ。

その比重は多種多様。

奏幸はその比重が重かった。ただ、それだけ。



《音》を広大な無重力空間から捜し出す。

そうやって僕らは、小指を結んだ。






---だけどきっと、この約束は今後は果たせなくなるから。


僕の自殺という意思は、()()()()()()()()()揺らがなかった。






「勿論だ。もう迷ったりしない」






だから、この笑顔がひどく苦痛だった。

僕の淡く抱いた裏切りの心に、この時は誰も気付いていなかった。






---莇と、或る《化け猫》を除いて。





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