#15「Keyboardist in the cafe」
「---《Spacephonic》を再結成する?」
「ああ」
奏幸の病院を訪れた翌日の朝。台所で洗い物をする莇の質問に、身支度をする僕は端的に答えた。
「折角奏幸が目覚めたんだから」
「でも…集まってどうするんですか?」
莇は料理は作れない。自分では作れると言い張っているが、前のホットケーキみたいにまた変なものを食わされても困るので、インスタント類を挟みつつも、当分は一人暮らしで多少の料理スキルを持つ僕が一日三食作ることにした。莇はその代わりに皿洗いをしてもらっている。皿洗いも覚束ないようで、保養所の器物破損にならないか心配だが。
「《Spacephonic》のオリジナル曲をやるんだ」
「お…オリジナル!?」
莇はやけに驚いた顔をした。元軽音楽部であることを告げた時もそうだったが、どうにも僕に音楽の造詣があることが相当意外らしい。
「自分のバンドにオリジナル曲があるんですか?」
「殆ど奏幸が楽譜に興したんだけどね…3月の卒業ライブでやろうとして、結局やれなかった御蔵入りの曲さ」
奏幸がDAW---つまり作曲ソフトで書いた、4分ちょっの曲だ。1ヶ月掛かったと言っていたが、ギターは自分の音をオーディオインターフェイスで録音したらしいし、きっとパソコンに触る時間だって家に帰った後の僅かな時間しかなかっただろう。それを鑑みれば、30日という期間は短いと言っても過言ではない。
「昨日の君の言葉で考えたんだ---無下にできない、大切な思い出は何かって。だから、僕は敢えて創られた記憶ではなく、新たな記憶を創るんだ」
参加することのなかった卒業ライブを、奏幸が目覚めた今、実現する。古い記憶であり、新しい記憶でもある。
「…私は賛成ですが、実現可能なんですか」
「そうだね…」
黒い上着を羽織って、一考する。
意気込んではいるが、現実的に考えてみればその再現は極めて困難だ。まず《Spacephonic》のバンドメンバーを集めなければならないし、奏幸に歌ってもらうには彼を病院から連れ出す必要がある。だが彼は作った曲のメロディーも忘れているし、そもそもギターの弾き方を覚えているかも不安だ。病院で場所を借りてライブすることも考えたが、あそこにはドラムもアンプもない。やるなら、スタジオ予約は必須だ。そして、これらの問題解決を今日、奏幸が自殺する23時05分までに全て完了して演奏をしなければならない。
「やれるだけのことはやるよ」
正直、奏幸と正面から対話して彼の自殺を止めるのは無理だ。昨日の面会で分かったように、彼は僕を警戒している。
---ならば、語り掛ける方法は一つしかない。それが音楽だ。
「バンドメンバーを集めるのは勿論だけど、まずは奏幸が来なきゃだなぁ」
「どうするんですか」
「…お母さんに頼もう」
昨日奏幸の家に行って彼の母親に会った時、もしもの時のために電話番号を聞いておいた。あまり気乗りしないものだが、家族の愛情は時に友情を越えそうな予感がしたのであの人に託してみようと思った。予感というか、僕の単純な期待感だが。
電話と言っても今の僕はスマホを持っていないので、保養所の電話を借りるしかない。この部屋ではなく、マンションの1階のロビーにある共用公衆電話だ。
「じゃ、ごゆっくり」
「あっ…」
僕は10円玉を握り締めて玄関に行くと、後ろの莇に手を振って部屋を後にした。
---パタン。
「…何か、寂しいな…」
扉が閉まる。莇はその長方形の鉄板を虚ろに見つめるだけ。
「永遠に引き裂かれたみたい---《あの時》みたいに…」
虚ろな瞳が、ごく僅かに湿る。
その少女はそれ以上何も語らず、部屋の奥へと引き返した。
***
「それで、僕に何の用だ?」
憮然とした顔で隣に座った僕を眺める男---弦間颯斗。黒くて若々しい短髪が頭皮にぺったりと張り付いて、一毛の寝癖も許さない。青いポケット付きのYシャツに黒い新調のジャケットという風貌は、いかにも有能な新人社員という雰囲気を醸し出す。
「えーとね…」
最初に颯斗のところに向かったのは、彼が一番説得に手間が掛かると思ったからだ。元からの性格なのか協調性に欠けており、皆で話していても彼は殆ど口を出さない。それは協調というより、従順。そして、従順というより無関心。それが彼の特筆すべき思考の仕方だった。
協調性がないと言っても、バンド活動に差し障りがあったわけではない。貶すわけではないが、吹奏楽は人数が多い分、1人が音を間違ったりしても相当なプロでない限りは殆ど誰も気付かない。一方軽音楽になると構成メンバーが少ない分、1人がミスった時に丸分かりになってしまうものだ。だが颯斗は別段大きなミスはしたことがないし、周りの音を聴いて音量や音色を変えたりもしている。尤も、ベースの音は正直言って僕にはあまり聴こえていないが。
「奏幸が目覚めたんだ」
僕は隣の席から颯斗の顔を覗くと、そう告げた。奏幸の母親が僕に伝えたように、はっきりと。
「…」
一瞬、颯斗の手が止まった。ノートに書いた文字が書きかけの状態に。
「…そうか」
だが、颯斗は全く顔色を変えなかった。そして、再び筆を走らせ、そこに文字を完成させる。
「…少しは喜んだような表情を見せたら?」
「彼が目覚めたとしても、あの時は戻らない」
「戻るさ」
僕は続けて言う。
「今日の夜、スタジオに集まらないか?」
「…」
颯斗はペンを走らせるのを再び止めた。そして、こちらに正面から向き合う。
「…今日は、書類が終わりそうにないな」
「ありがとう」
彼は気難しい人間だ。颯斗がペンを置いただけでも、大きな進歩だと思った。
「勘違いするなよ。まだ行くとは言ってない」
「分かってるよ」
分かっていた結末ではあった。颯斗はあの時も、部活動に積極的ではなかった。その性格は大人になっても、易々と変わるものではない。だから、ここからどうねじ曲げていくかが僕に懸かっている。
「颯斗」
「今度は何だ」
「死後の世界の話をしないかい」
僕が珈琲を口に含ませながら吐いた言葉には、颯斗にそれなりの衝撃を与えたようだった。
「…お前」
「何?」
「変わったよな、色々と」
「颯斗こそ」
僕が変わったかどうかは、客観的な視線を持つ人間でなければ分からないし、僕は当然その中に分類されない。自分のある時点でのことは自分が分かっているが、その《時点》とやらを積み重ねた時の流れの中では、自己の理解は案外自分では行えないし、意外と他人の方が分かっていることもある。線が点の繋がりであり、立体が線の組み合わせであるように。
だからこそ、他人の立場に立った僕は、颯斗の変化を理解した気でいた。颯斗は、感情的になれるようになった。それは勿論、他のバンドメンバーに比べれば表情の変化は弱いだろうが、彼が今こんな感情でいるんだろうか、ということ位は察しがつくようになった。5年前の彼は、僕が見る限りでも喜怒哀楽が全く見えなかった。
「死生観なら、前に話しただろ」
「え?」
「高2の作文の時だよ」
「…そんなのあったかもね」
正直、全く記憶に無かった。訊いている立場が覚えていないでは格好が悪いので、取り敢えず曖昧な返事をしておく。
「僕は君と近い立場を取った。天国なんて存在しなくて、死後はみんな概念と成り果てるって」
僕が彼に死生観を話したのは、どうやら本当らしい。莇やスティンガーと《乖離界》で出会ってしまい、その考察は根底から覆されたが。
「だけど、神様は存在すると思うんだ」
「神様?」
「世界のバランスをとってくれる神様だよ。地球にとっての月みたいなもので、世の中の幸福や不幸の均衡を保つ安定装置だ」
「…そうかな」
僕は神様を一人しか知らない。彼女も自称でしかないが実際に不思議な力を持っているし、神様に近い存在であることは確かだ。きっと颯斗が想像しているのは概念的な神様で、顔や手足なんてものは持たないのだろう。現代の発明に例えるなら、スーパーコンピューターだろうか。
「お前はどうなんだ?」
「…何だか」
颯斗の話を聞いていると、段々自分のペースを見失う。颯斗をスタジオに呼ぶ方向に話を進めるはずが、いつの間にかそのベクトルが捻れてしまうのだ。颯斗のせいか、或いは実際は自分に奏幸の自殺を止める意思はないからなのか。
「僕の考えは全て、間違っていた気がしてきたんだ」
「は?」
「死んでも、何も成し遂げられないってことだよ」
「何だよ、実は死んでいるみたいな言い方は」
「---昨日奏幸が、自殺するって言ったんだ」
「!!」
今度こそ、颯斗の心を掴んだ。
「記憶喪失だったんだ。僕らのことも覚えていない」
「…そういう大事なことは、先に言ってほしいな」
「こめんごめん」
僕は半笑いで答えた。少し不謹慎な気もしたが、それよりも颯斗に対する愉悦感を覚えたのだ。
自殺宣言は半分本当、半分ハッタリだ。彼の口から死のうという言葉が直接出たわけではないが、それは莇が所持する例の紙が証明してくれる。
「…でも、やはり行けないな」
「…」
思った以上に颯斗は頑なに姿勢を崩さない。これで行けると思っていたのだが。
「…禊」
「何だい」
ここに来て初めて、颯斗が僕の名を呼んだ。
「…今、君が考えていることを当てようか」
「えっ」
まずい。表情に出ていたか。
「君は今、僕のことを…」
「ちょ、ちょっと待った」
僕は慌てて制止する。颯斗は自分の思考を見せないくせに他人の思考を見透かすのが十八番なのだ。
「《それ》を理解していながら、何でまだ拒むんだ」
「何だ、自覚あるのか。じゃあ答え合わせだ」
「…」
そう来たか。というか、僕が勝手に彼の罠にハマっただけか。
「じゃあいくぞ、せーの」
彼の掛け声と共に両者の口から出たのは、僕の心の愚痴。
「「---お前が喧嘩の動機になったんだから、お前が責任とれよ」」
一字一句違わず、嵌まった。
「…あははははっ、面白いな!!」
「…全然面白くないよ…」
颯斗が今日一番の笑顔を見せる中、僕は今日一番の鬱顔になった。周りの一般客も、颯斗の悪魔的な失笑に恐怖の視線を向けていた。
そしてその僕の顔は、颯斗の次の言葉を以てしても、あまり改善されなかった。それほどに、僕は彼を恐れていた。
「---気に入った。行こう、スタジオに」
***
豊洲のとある広い家屋。
いや、言うほど広くはない。広くはなくなる予定だ。私と夫と奏幸の3人が暮らすのに丁度良いサイズ感。
だけど先日奏幸が目覚めてもなお、その日がくるのはもっと先なんだと悲しくも悟った。
と言うのも、さっき家の方に一本の電話が寄越された。奏幸は病院、夫も殆ど会社にいて、大部分は私宛に送りつけられるつまらない広告電話。
---今日は、珍しい相手だった。
「…ははっ」
少しだけ、笑えてきた。話し相手が大方決まってマンネリ化していた通話というものに、《彼》は少なからず刺激を与えてくれたから。
奏幸が昔、よく話していた人物だ。僕と似ていて、ギターはまだまだだけど音楽性も合うし、最高の友達だと。
私はガラガラと窓を開けてベランダに出ると、ポケットに仕舞っていた直方体の箱から煙草を一本取り出した。そして口に浅くくわえ、錆びたライターで先端に点火すると、ふうっと一つ大きな煙を吐いた。家に誰もいないから気遣う必要はないのだが、マンション時代は奏幸を気にしてこうしていたものだから、後から「出る意味ないじゃん」と思うのは最早習慣と化していた。
(…生貫禊、か)
声には出さず、彼の顔を想像した。昨日の切羽詰まった顔は、5年前のそれと大して変わっていないように感じる。当時は年4回のライブで、全て拾うことこそできなかったが、それでも《Spacephonic》のメンバーがそれぞれに音楽を楽しんでいたことは覚えている。だがそれでも彼は、いつもぶっきらぼうな顔でギターのコードを奏で続けていた。寧ろ、彼の中で覚えていることと言ったらそれ位しかない。
さっき彼は電話でこう言った。《Spacephonic》を結集して5年前を再現すると。
「…お前に、何が分かるっつんだ…」
私は小さく舌打ちをした。側の垣根に留まっていた鳩が、バタバタと羽ばたいて住宅街の奥へと姿を消す。
彼を信頼したわけじゃない。彼もきっと、私が自分を好んでいないということを静かに察しているはずだ。
---だけど、何でだろうか。
私はベランダから部屋に戻ると、机上の車のキーを掴んで玄関に向かっていた。
***
(…はぁぁ…)
一人目にして、既に疲労困憊としていた。
颯斗は喧嘩の動機---つまり、インフルエンザを患った本人だった。
彼が休んだことで僕と奏幸の間に軋轢が生じた。それは奏幸が事故に遭ったこととは関係ない。
関係ないのに、僕は自分の中の蟠りを外に押し出したかった。誰かに押し付けたかった。その意識が潜在していることを、颯斗は指摘した。
彼は、まるで人の心を覗き込む能力でも持つようだった。彼が寡黙なのは他人を観察しているからだ。そしてその気持ちが悪の属性を持った時、彼は笑う。単純に相手を滑稽に思った嘲笑か、それとも呆れ笑いなのかは分からない。分からないが、幸福を望む莇とは間違いなく対照的で、とにかく彼は人の不幸を貪るのが趣味なのだ。
他人の不幸が好きだということは、きっと特殊ではない。特に彼のような人間の場合、自分はその立場にないということに愉悦を覚える。僕もその領域に一歩足を踏み出しているし、自覚は強く持っているつもりだ。
(---まるで、死神だ)
僕が彼に最初に抱いた印象が、それだった。空から人の不幸を観察するが手出しはせず、ただそれを楽しむ。それが、僕と彼を遠ざけた一つの理由だった。バンドメンバーの中で一番話さなかったのも、確実に彼だ。それ故、彼の背中を踏みつけたことは僕の中では自画自賛したいところだし、同時に恐怖を覚えた。
また、ふと考えた。何故、莇は死神を名乗る必要があるのか。神というのがハッタリでなかったとしても、死神というのは流石にズレを感じる。きっと、訊いても教えてくれない気はした。
何はともあれ、颯斗の説得には成功した。残るメンバーは奏幸を除いて2人。勿論奏幸を病院から連れ出すのは当然だが、その2人も簡単に交渉に応じるとは限らない。
僕は駅の出口の階段を足早に駆けた。
(…ああ、ここか)
着いた場所は千駄木だった。日暮里のすぐ近くで、駅の東には多くの寺や神社が点在する。特別栄えているわけではないが、国道473号線沿いには見慣れたチェーン店やビルもある。
《Spacephonic》のキーボード担当---穂高琴音はこの町でカフェを営んでいる。
一度だけ、彼女の店を訪ねたことがある。その時は夕方を過ぎた真っ暗な町中だったので見えない部分も多かった。昼間の千駄木はそれでも、夜と大して変わったところはなかった。
僕は横断歩道を渡ると、細い坂道に入った。僕以外には殆ど人が通っていない。年老いた老人夫婦、地元の少年少女、野良猫---歩いているのは、それくらいだった。
時々、寺を見かける。寺の掲示板には座禅体験なんてものがあって、以前琴音に誘われたこともあったが丁重にお断りした。
(…疲れてきたな)
体力的にも、精神的にも疲れてきた。正直言ってこの道で合っているかも不安だった。スマホは持ってないし、地図の看板もないしで、とにかく記憶に頼るしかないのだ。
その時。
「…あった」
そこに到達して、ああ、ここかと確信を得た。
同時に今来た道も見覚えのあるものへと感じられた。
カフェ自体は元々ヨーロッパ発祥のものらしい。そして彼女もまた、自分の店をカフェと自称していた。だがその面構えはカフェというより、江戸時代の長屋、という感じだった。すぐ側では換気扇がガタガタと稼働している。
(簾も…変わってないな)
少し下端が千切れた簾。白色だが、相当埃を被って所々が黒ずんでいる。その奥の扉も相変わらず木製で、年季の入った模様を醸す。
僕はその扉に手を掛けると、ガラガラと音を立てながら開いた。
「はーい!いらっしゃいませなのにゃ!!」
「…え」
---店を間違えた。
刹那的にそう思って扉を閉めようとした。
だが、そこにエプロンを付けて立っているのは間違いなく僕の元同級生---穂高琴音だ。
「あっ…ちょ…って、ええ!!禊君!?」
何度瞬きをしてもその可憐な容姿は変わらない。彼女が僕の名前を呼んだことで、僕は漸く彼女を琴音と認めた。
「何か…大変だね」
「ま、待って!いろいろ誤解して…」
「珈琲一杯」
さっきファストフード店で飲んだばかりの珈琲を再び注文するナンセンスさ。それでも僕は、彼女の言葉を遮るという悪戯心を抑えきれなかった。
「もう…禊くんったら」
彼女は頬を膨らませつつも、店の奥のキッチンへ戻って行った。
穂高琴音は、千駄木の猫カフェ「猫ヶ崎」の看板娘。
と言っても、猫はたったの4匹しかいない。店が狭いし、そもそも立地条件もそんなによくないので、それ位が丁度良いらしい。だがその実情は、閑古鳥が鳴いているせいで収入が少なく、猫の餌代を賄えないだとか。
「…で、自分を売り出した、と」
「うう…」
僕の意地悪な問い掛けに、台所から現れた琴音は渋い顔をしながら珈琲を差し出した。湯気付きの、ホットな珈琲だ。
僕は、机上の白い陶器から立方体の茶色い角砂糖を一つ摘まむと、それを珈琲の中に入れて溶かした。スプーンで混ぜ続け、その形が跡形もなく消えるまで。さっき颯斗と話していた時は砂糖とミルク、両方入れていたが、同じ味ではつまらないと思って少し甘さを控えめにした。尤も、猫ヶ崎とファストフード店では珈琲の作り方がそもそも異なるだろうが。
「きょ…今日は何で来たの?」
店内には僕と琴音以外、誰もいなかった。静かめなアートコア音楽が店内に流れていて沈黙というものはなかったが、それでもこんな美少女と二人きりだと少し緊張してしまう。
「えーとね」
「うん」
「奏幸が目覚めたんだ」
前置きなく、事実を述べた。琴音は目をぱちくりさせる。5秒経って、その小さな口は開かれた。
「ほ、本当…!?」
「ああ、だけど」
少し、躊躇った。どうやって、彼の今の状況を伝えるべきか。だけど、僕の言葉を待つ琴音の顔を見て、早く話を進めねばと思った。そもそも、僕にはオブラートに包むなんて高度なことはできない気がする。
「事故以前の記憶を失っているんだ」
「…え?」
意外にも、言葉の認識が早かった。さっきより2秒程、声が漏れる。
だが、その後10秒間黙っていた。やっぱり記憶喪失という事実を受け入れるにはそれなりに時間が掛かるようであった。
再び、琴音が問い掛ける。
「そんな…。…奏幸君は今、どうしてるの?」
「豊洲の大学病院。目覚めたのは一昨日だったかな」
「それは、お母さんから聞いたの?」
「そうだね」
奏幸が記憶を失っているという事実を聞いたのは、確かにあの母親からだった。だがそのきっかけとなったのは僕が《還り人》であることだ。そして勿論、その事を琴音に話すわけにはいかない。
「そこで、頼みがあるんだ」
「う…うん」
今日の琴音は、やけに辿々しい感じがした。久し振りに話すし、元からこんな感じだったかなと最初は思っていたが、段々話していく内にやっぱり高校時代の彼女はこんな様子ではなかったなと思い始めた。
「今日、スタジオに《Spacephonic》を集めて演奏する。そして奏幸の記憶を取り戻す」
「きょ…今日?随分と急だね…」
「今日じゃないと駄目なんだ」
僕は真剣な眼差しを琴音に向けた。だが、琴音のきらびやかな瞳を直視するのは、3秒が限界だった。すっと、側のソファに居座る黒のバーミーズへと目を逸らす。
因みに店内にいる猫の内訳はロシアンブルー、メインクーン、ペルシャ、そしてバーミーズ。彼女は平等にみんな愛していると言っていたが、僕の好みは黒のバーミーズだ。どこか観察的な目付きが良い。
「…分かった」
「ありがとう」
琴音は僕の意図を汲み取ってくれた。優しい。それなのに僕は猫に気を取られていた、とは言えない。
僕は、極めて簡易的に感謝の言葉を述べた。そして、続けて漏らす。
「はぁ…颯斗とは大違いだよ…」
「え?…颯斗君も説得したの?」
「ああ」
「よくできたね…」
「本当だよ」
長い溜め息を吐く。琴音も勿論、颯斗の気難しさを認知する仲だ。
すると、琴音が微笑みながら呟いた。
「私はいいと思うんだけどなぁ、その考え」
「え?」
「勿論、奏幸君の記憶を取り戻すっていうのもそうだけど、私は5年前に実現できなかったあの音楽を今に再現させたい。だって折角、奏幸君が書いてくれた曲だもん!」
「…ああ、そうだね」
琴音は少し、昔らしさを思い出したようであった。あの時もこんな眩しい笑顔を僕らに向けていた。
たかが5年、されど5年。僕の中では当時の記憶というものは忘れかけていたし、忘れようとしていた。だけど琴音は今でもその思い出を胸の中に仕舞っている。喧嘩の当事者になっていないといえど、記憶をそこまで寵愛できるのいうのは、少し羨ましかった。
「…それで?どうするの」
「それがな…響子のところに行こうと思っているんだけど家が分からなくて」
残るバンドメンバーは---ドラム担当、柴咲響子。丁度両国と千駄木の間に位置する鶯谷近郊に住んでいるとは聞いたが、詳しい家の位置は知らない。琴音なら知っているだろうかという願いに懸けて、僕は先にこちらを訪ねた、というわけだ。
だが、琴音は予想外の返事をした。
「うーん…家は分からないけど、きっとあそこじゃないかな」
「あそこ?」
「いつも響子が部活帰りに寄ってた、ほら…」
「…ああ!」
我ながら珍しく、大きな声を出してしまった。それだけに、今の記憶の蘇生というのは新鮮だった。
「100%ではないけど、行く価値はありそうだね」
「うん!」
現在、午後1時35分。意外とまだ時間には余裕がある。仮にそこにいなかったとしても、響子を探すくらいの時間はありそうだった。
「…琴音」
「何?」
「ここって料理も出してたりする?」
唐突な問いに、琴音は少しだけ息詰まる。
「う…うん、猫クッキーとかなら」
「あー…お昼みたいに、ガッツリ系はない?」
「うーん…。そうだね、メニューには載せてない…」
「じゃあ作れないことはないんだね?」
「作れないって…え!?私が禊君に作るの!?」
「お願いできないかな」
正直、自分の作った料理を自分で食べるのは飽きていた。料理スキルは児童期に諸事情で心得ていたのだが、プロのシェフを目指すわけでもないし、一児のママになるつもりもないので、このスキルをこれ以上伸ばす必要性も皆無だ。それと、少しだけ琴音を弄ってみたかったのもある。
琴音は頬を赤く染める。それを気付かれたのが嫌だったのか、琴音はばっと立ち上がった。だが、そこから出る言葉は相変わらず弱気だ。
「うう…わ、分かったよ…。あんまり期待しないでね…」
「猫ヶ崎の看板娘が出す食卓、期待しないわけないよなぁ」
僕は珈琲を啜りながら言う。
「ま…またそうやってすぐ言うぅ…!!」
そう言いつつも、琴音は再びキッチンへと引き返した。少し、虐めすぎただろうか。
「…禊君」
「何?」
ふと、離れたところから声が掛かる。距離をとったことで、僕も少し緊張が和らいでいた。
「…。…何か、変わったよね」
「え?」
さっき、僕が颯斗に言った台詞だった。そして、颯斗が僕に対して、半ば忠告じみた感じで放った台詞でもあった。
「5年前の禊君は…何か、言っちゃ悪いけど、感情の起伏が殆どない人だった気がする。確かに昔だって笑ったり怒ったり…まあ特に、あの時なんてそうだったけど、それ以外はあくまでそういう塗料を塗っているって感じ。だけど、今の禊君、とても生き生きしてる」
「…」
信じられなかった。琴音がこんな事を言うなんて。
別に、僕に対して否定的なコメントをしたことを悲観したり、僕のことを思った以上に観察していたことを喜んだりしているわけじゃなかった。
「…ははっ」
「…禊君?」
滑稽だった。
一度自殺して、嫌々ながら時間を遡っている僕のことを「生き生きしている」と表現しやがった。この面白さを、笑い以外の何物に還元できるだろうか。
(…)
だけど。
立ち止まって考えてみると、その笑いはすぐに蕾を閉じた。
そして、枯れ果てた。
僕は僕のままであると思っていた。
いつでも平常運転で、危険な橋は渡らず、人とは過少にも過度にも対話しない---恒常的な僕が良いと、自身が一番強く思った。
だが、今2人から「お前は変わった」と言われた。
客観的な視点と主観的な視点とが、ピカピカの鏡で対面している。
---この変化をもたらしたのは死ぬ前の5年間か、それとも死んだ後の5日間か。
「…琴音は変わらないね」
「え?そ、そうかな…」
僕は敢えて、自分の意思にそぐわない意見を言ってみた。肯定的な返事より、否定的な返事のほうがそれであるという判断がしやすいから。
そして今、琴音は戸惑った。つまり琴音自身は自分を変化的な人間がと捉えている---と言いたいところだが、実際として彼女が本当に変わらないかどうかは分からない。自分にも分からないし、他人にも分からない。僕と琴音の意見が一致していても、だ。勿論思考の信憑性の差こそあるだろうが、それは誰も確認することができない。それができる者は、さっき颯斗が少しだけ話していた《神》という絶対的な概念ぐらいだろうか。
「琴音」
僕は僕の道を信じる、少し意味を薄弱するなら僕の道を正しいと仮定することにした。琴音は今の状態が最良だ。これ以上にはならないし、ここから落としてはならない。
「…今度は、5人でここに来よう」
だからこそ、こんな《嘘》をついた。
僕は奏幸と、何処の誰かも知らない残り2人の自殺を阻止しなければならない。会うとしたらその後だろう。
だがその時、きっと僕はいない。
「あ、いいねそれ!その時はもっと頑張って作るよ!」
琴音はキラキラとした笑顔を向けた。悪い気が全くしなかったわけではないが、それよりも彼女の状態を今のまま保持できることの方が嬉しかった。
---この赤い《嘘》が、琴音と僕の両方に後悔と涙をもたらすとも知らずに。