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Deathtiny  作者:
Chapter3「サウンド欠落ギタリスト」
16/19

#14「Lonely bassist」

「記憶喪失…ですか!?」

「…うん」

電線上で鴉が鳴く夕刻時の豊洲。莇の驚愕の言葉に、僕は意気消沈とした返事しかできなかった。

「目覚めたのは昨日の午前4時頃…本当に突然だったらしい。朝、江東豊洲病院から電話を貰って駆けつけたんだって」

「…なのに、記憶がないなんて…」

あまりに悲惨な話だ。5年ぶりに息子が目覚めたのに、自分の顔を---母親の顔を覚えていないとは。

家族のこと、事故以前のこと、綺麗さっぱり記憶がないらしい。簡易検査の結果、日常生活には支障がないようだが、それでも本人が苦しい状況にあるのは間違いない。

「どうするんですか?」

「決まってる。病院に行くよ」

「止められてませんでした?」

「それでもだ」

ここから病院までは徒歩で10分程度。会って話す以外の選択肢はない。母親は確かに止めていたが、ここで進まなければ高確率で彼は自殺の道を選ぶ。


僕と莇は奏幸の家から南西方向へと歩み出した。







***






「227号室になります」

「…はい」

受付で彼のいる病室を教えてもらった僕は、莇と共にエレベーターで一つ上のフロアへ昇った。薬っぽい匂いが蔓延った箱で、僕らは足早に廊下へと降り立つ。

227号室は、この病院の一番端だった。良く言えば落ち着いて過ごせる場所、悪く言うなら彼が記憶を失ったように孤独で寂しい場所。《227》という数字もマンションの部屋番号と照らし合わせると、なかなかに皮肉なものだと思った。

「私は入口で待ってますね」

「…うん」

莇はスライドドアの横の細い手摺に腰掛けて、深紅のスカートの皺を正した。今回ばかりは、莇は立ち会わない方が良いかも知れない。奏幸の記憶を混乱させる可能性がある。

「あと…」

「ん?」

「あまり無理はしないで下さい」

「…そうだね」

無理矢理に医療の素人が記憶を蘇らせようとすると、脳に支障を来すかも知れない、ということだろう。節度を以て声を掛けるのが良さそうだ。

(…)

右手で扉の取手を掴む。左手には汗を握る。

少しだけ、緊張していた。僕が奏幸と会ったのは5年前、交通事故が起きた直後に昏睡状態の彼と2、3回お見舞いに行ったのが最後だ。もしも意識が戻れば、奏幸の家から連絡が来るだろうと思って関心が無かった。その思い込みは少し残酷だったかも、と今になって思う。

(…よし)

僕はその扉を、虎の寝る檻を開くような速度でスライドした。




「…!!」




思わず、はっと息を呑む。

窓から灼熱の如く、夕日が赤い光を放っていた。幻想的と言うよりは、目が眩むような空間がその四畳半の病室を支配しててる。睡蓮を挿した花瓶の水面、ベッドの細い鉄パイプ、机上の真っ黒なスマートフォンからの反射光が、僕を拒むように廊下側の壁を突き刺していた。



そして、その光に護られた少年が、今更のように首をこちらに向ける。







「…誰?」






「…っ!!」

---ああ、やっぱりか。

僕はここに来て漸く、記憶喪失という言葉の意味を悟った。奏幸の母親が言っていたことは、こういう悲劇なんだと。

ベッドに寝そべっていた奏幸は、上体をゆっくりと起こした。長年筋肉を使っていないのに大したものだ。髪は肩より下まで伸びていて一瞬目を疑ったが、ずっと眠り続けていたことを鑑みれば当たり前のことだった。

寧ろ、5年前の彼との一番のギャップは、そこではない。

(瞳が、霞んでいる…)

昔の奏幸は、もっと輝いた目をしていた。まるで未来を羨望するような色と鮮やかさ。だけど今の彼は、虚ろを見つめている。見た目の差異も相まって、僕は全くの別人に対応しているかのような錯覚を覚えた。

僕は、ゆっくりと彼に歩み寄った。3つの反射光が、僕のこれ以上の侵入を許さない警備センサーのように感じられて、何となくそれを避けていた。

「…こんばんは」

つい、他人行儀に接する。あまり、馴れ馴れしくても良くないだろうが、これでは自ら奏幸との溝を深めてしまう。

「…誰?」

奏幸は尚も同じ言葉を繰り返した。

「…君と高校時代を一緒に過ごした人間だよ。生貫禊っていう名前なんだけど」






「---馴れ馴れしくしないで下さい」






「…!!」

---冷や水を浴びせられた気分だった。

僕が他人行儀になったのではない。そもそも、この夕日に埋め尽くされた()()()()が、社交場と化している。彼がこの空間を支配している。昔の彼は、こんなに我の強い男ではなかったのに。

「…っ…ごめんなさい…今、少し気性が荒立っているんです」

「いや…。構わないよ」

彼の口からすぐに謝罪の言葉が流れたことに、僕は安心した。落ち着け、彼はまだ目覚めたばかりで癇が強いだけなんだと、何度も心に言い聞かせる。

「…僕は、音無奏幸…って名前…らしいです」

「知ってる」

僕はベッドの側にあった白い丸椅子に腰掛けた。3本の足の底が不揃いなようで、僅かにガタガタと揺れる。

「…君は音楽が好きだった。高校時代に《Spacephonic》って名前のバンドを軽音楽部で組んで、君はボーカルギターをやっていた頃が懐かしい」

「僕が…歌っていた?」

(…!)

奏幸の問いに、僕ははっとした。

もう一個、ギャップがあった。声だ。声の質が、軽音楽部の時とはまるで違う。この声で今歌うように頼んだとしても、僕は高校時代に耳元で聞いていた彼の声との間に大きな乖離を感じるだろう。

「まさか…」

奏幸は自嘲気味に笑った。目線を僕から外して、毛布の下にある自分の足を見つめる。

「よかったら、写真とか持って来ようか」

僕は、彼に最大限の手伝いをしようと思った。思い出探しの手伝いだ。自殺とかそんなの関係なく、奏幸が記憶を取り戻して、元の彼の姿をもう一度見たくなった。

だが、その青年から漏れた言葉は、裏返しの主張を含んでいた。





「---やめてください」





「え…?」

即座に、意味がストンと落ちてこなかった。

「…何を言っているんだい?」

「記憶を取り戻すのが…怖い」

「…」

すぐ、切り返しの言葉が浮かばなかった。彼の考えていることが分からなかった。奏幸は続ける。

「僕の今は、無個性です。名前を与えられただけの、喋る赤ん坊みたいなモノです。真っ白な画用紙にそこから、黒いペンで知らない記憶で()()()()()()のが、怖い」

「…そうか」

少し、性悪説じみていると思った。無から追加で思い出を---自分には覚えのない偽物の思い出を刷り込まれるのが恐怖に感じる、と。

「君の高校時代はそんな暗いものじゃなかった。安心して受け入れていい」

「そうはいかないから…。…あなただって、僕にとっては見知らぬ人なんです」

「…そうだね」

本人が記憶を取り戻すことを拒んでいては話が進まない。少し無理矢理だが、僕の方から誘導をかけるしかない。

「…交通事故の話は聞いた?」

「はい」

「何も覚えてないのかい?」

「…」

「…どうした?」

「…交通事故のことは覚えていないんですが、一つだけ覚えていることがあるんです」

「えっ」

僕は瞠目する。

「医者にも、昨日来た母親を名乗る人にも、まだ話してない」

「どんな内容?」






「---僕とあなたが喧嘩した記憶です」






「…っ!!」

不意を突かれて、僕の心臓が跳ね上がった。

そして、すぐに言葉を続けられなかった。否定ができなかった。それが、奏幸の不確かな記憶を確固たるものに()()()()()()()

「やっぱり事実なんですね」

「…」

視線を下げて、何もないグレーの床に目を落とした。対して、彼は僕に胡乱な目付きを投げ掛ける。

---何で、その記憶だけ都合悪く脳に焼き付いているのか。その腐った思考回路が尚のこと、僕の光を失わせていった。

「きっとそれだけではない…。楽しい思い出だって、僕とあなたの間には紡がれていたのかも知れない。だけど少なくとも今の僕は、あなたを友達として認識できない」

「ああ…そうかもな」

その記憶が俎上に乗せられた途端、僕は投げ槍になってしまった。少し、自嘲が含蓄された台詞を吐き捨てる。

「そして、僕の過去が明るいものであったと保障するものではない。だから、僕は記憶の蘇生を拒む」

5年前の奏幸からは考えられない言葉が、次々と僕の心を突き刺した。耳を塞ぎたくなるほどに。

「…お引き取り下さい」

「…ああ」

その律儀な挨拶が、最後のとどめとなった。僕は任務を放棄して、椅子から立ち上がった。

夕日が沈んで、壁を刺していた3本の光は、いつの間にか消滅していた。






***






本当に、短い会話だった。

5年ぶりに会って、話した時間はたった10分。文庫本に書き興せば、見開き3頁程度で済んでしまう程に簡素で、だが残酷なトーク。

「禊…」

病院から保養所に戻るバスの中、隣に座る莇が僕に声を掛けた。他に客は一人もいない。

「元気を出して下さい」

「…」

莇は壁越しでも、僕と奏幸の会話内容は大部分把握していた。奏幸の状況、感情、そしてたった一つ覚えていた《オモイデ》。

「例の紙を見ましたが、彼の自殺時間には大差なかったです。まだ大丈夫ですよ」

「そういう問題じゃないんだ…」

バスに乗ってから初めて出した僕の声は、しゃがれていた。この閉塞した状況に、何も見出だせないでいる。

「…禊」

「…何だい?」

「《喧嘩》って何ですか」

莇は僕の瞳を横から覗き込んだ。表情も極めて堅い。

(…)

きっと失礼を承知で水を向けている。僕は敢えて怒るようなことはしなかった。そして、観念した。

「…はぁ、分かったよ」

丁度、目的のバス停に着いたところだった。僕と莇は同時に椅子を立ち上がると、コンクリートの小道へと降りた。保養所はここから東方向にある。

「ありがとうございます」

「別に感謝されることじゃない」

僕は少しばかり、むすっとした表情を浮かべてみた。そして、すぐ熱が冷めたように真顔へと戻る。



「…奏幸は、音楽関係に関しては本当に不羈の才を持ってたんだ。高校の軽音楽部の中に10か11くらいのバンドがあったんだけど、奏幸のボーカルとギターはその中でも飛び抜けて上手かった」

「へえ…」

莇の反応は小さかった。病室で見た朴念人な風情からは、彼がボーカルとして歌っている姿は想像が難しいだろう。

「僕の軽音楽部では年度内で7月、10月、12月、3月の4回、発表をしていた。高2は3月の卒業ライブで部活を引退する」

「早いですね」

7月はサマーライブ、10月は文化祭、12月はクリスマスライブ、3月は卒業ライブとして発表を敢行する。3月で高2が卒業した後は、入れ替わりで4月に新高1が入部して来る、という仕組みだ。

「…奏幸と僕が喧嘩したのは、丁度高2の卒業ライブの時だったんだ」

「タイミング最悪じゃないですか」

「本当だね」

思わず、嘆息を漏らす。莇の言う通りだ。どうしてあんな大事な時期に喧嘩なんかしたのだろうか。

僕はその日まで、喧嘩なんてものは殆ど経験したことが無かった。「殆ど」と付けたのは、単に幼少期なら友達を理由もなく叩いたり蹴ったりしたかもなあという懸念を含ませただけで、記憶にある限りであれば恐らく0だ。

「何が原因だったんですか?」

「他愛もないことさ。よく言うじゃん、音楽性の衝突って」

「ああ…」

莇はその言葉だけで、おおよその内容が思い浮かんだようだった。

「音楽性っていうよりかは、音楽への拘りかな。実はライブの2日前に、ベース担当の友達がインフルエンザを患ったんだ」

「えっ」

「僕らの…《Spacephonic》のバンドメンバーは5人。僕の考えとしては一人欠けてもまだ成り立つと思ったんだ。ラストライブだし、それを擲ってノコノコと引退なんて、ダサすぎると---僕はその旨を奏幸に伝えた。そしたら…」

「…音無さんが怒った?」

莇の言葉に、僕は大きく頷いた。

「ま、分からなくもない話さ。彼の音楽への固執は強力だし、一つ欠けたら全て崩壊するって考えてても無理はない」

僕は軽音楽部に入部する前、音楽に関しては全くの素人で、ギターも高1から始めた。譜面の読み方とコードは事前に覚えていたが、それでもいざ実際に演奏するとなると自分が今どこをやっているのかも分からなくなるし、ドラムのBPMにも付いていけなくなる。そんな人間には、ベースというものの重要性もきっと分かるものではないのだろう。

「他のメンバーも止めに入ったけど、僕と奏幸は大喧嘩さ。最初は説得だったものが段々と暴言に変わって、結局決着はつかないままその日は帰った」

「事故はいつ起こったんですか?」

「その帰路の途中だよ。まさに晴天の霹靂だ」

「うわ…またタイミング最悪ですね」

僕は繰り返し、嘆息を漏らした。

喧嘩の動機も、事故の状況も在り来たりなものだった。奏幸は歩道を歩いている時に、後ろから小型トラックが突っ込んで来たらしい。僕は彼が跳ねられた翌日事故現場を見に行ったが、丁度ガードレールの隙間を縫ったようだった。でも、別に特別悲惨な事故であるわけではなかった。

でも在り来たりなものと在り来たりなものが組合わさった結果、僕には5年分の負債が双肩に載っかった。この蟠りを抱えて、僕はずっと生きてきた。それを消し去る時が来たと思ったら---この始末だ。

僕と莇はマンションに入ってエレベーターを昇ると、守谷の貸してくれている部屋の鍵を開けた。ここまで来ると、最早ここは引っ越し先の新しい住居のように思われる。しかも謎の美少女を連れて。別に僕の元の家なんて大したものではないが、里心がついてないと言えばそれはきっと嘘になるのだろう。

「恐らく、奏幸は喧嘩の内容を覚えてない」

「そうですね」

奏幸は僕の顔には見覚えがあったようだが、バンドの頃の記憶はない。つまり、あの言い争いの動機やら罵詈雑言やらの詳細までは身に覚えがないはずだ。

「…それで、どうするんですか」

莇はヒールを脱いで踵を揃えると、顔を上げて僕の方を見た。どうやって奏幸の自殺を止めるのか、という意味だろう。

「…分からない」

僕は、前に莇が吐いた台詞を真似した。彩華さんと話して、解決策を僕がそれとなく尋ねた時の言葉だ。意識的に繰り返したわけではなく、本心から僕が今、何を成すべきか分かっていないのだが。

「…動機は、記憶喪失で良いのかな」

「私はそうだと思います。私にはもし音無さんが記憶喪失じゃなかったら、家族とまた幸せに暮らす未来しか思い浮かびません」

「…やっぱり、そうなのか…」

客観的に見たらそうだろう。だが僕と奏幸の間には厄介が多い。他の原因を色々と思索したら、もしかしたら自殺の原因は僕にあるんじゃないかとさえ思ってしまう。

すると、莇がソファに座って言った。

「…私は、今回の件に関してはこれ以上関知しません」

「えっ」

「音無さんについての認識は禊の方が圧倒的に上です。私があれこれ助言しても邪魔になるかも知れない」

「それはそうだけど…」

困った。この自殺に関してはお前が全て処理しろ、という事か。

「ただ…」

「ただ?」

「…それだと、神様として少し無責任な気がするので一つだけ言わせて頂くと」

莇は、何故か僕と目を合わせようとしない。




「---()()()()()()()()()()()()()。記憶喪失とはいえ、大切な思い出は潜在的に眠っているはずです。それを無下にして、赤の他人のように接するのは止めてください」




「…うん」

当たり前だ。僕と奏幸の関係は、思い出あってこそのことだ。その構築した関係を切り崩すつもりなど、毛頭無い。

すると莇はソファから立ち上がって言った。

「それじゃ、私はお風呂入って寝ますね」

「え」

「おやすみです…ふわぁぁ…」

莇はわざとらしい欠伸をすると、洗面所に入って行った。

(…マジか)

今回は本格的に何もしない姿勢を貫くようだ。全く、参ってしまう。

僕は溜め息を一つつくと、自分のコートを片付けるためにクローゼットに向かった。9月にしては寒い日々が続く。

「…あ」

クローゼットの扉を開いて、はっとした。

莇がここに来る前、《乖離界》で着ていた紫のドレスだ。とにかく装飾が多くて、首回りには銀色の輝きを放つ宝石が幾つも埋め込まれている。

(…ん?)

そこで僕は気が付いた。右腰の辺りに、文字盤がローマ数字で書かれたアナログ時計が吊るされていた。よくある目覚まし時計をお洒落にしたらきっとこんな感じだろう。

初めて会った時から存在自体は認知していた。時の死神だから、そのアイデンティティを示すために付けてるアイテムだと思ってる。

僕が気になっているのはそこではない。

(…ズレてる?)

現在、22時44分。本来なら今、短針は10と11の間にあるべきなのに、この時計は12と1の間にある。長針の方も少しずれていて、現在この時計が示す時刻は0時38分。2時間以上のズレは、最早ズレというレベルの話ではない気がする。

もしかしてこの時計は現世の時間ではなく《乖離界》の時刻を示しているのだろうか。一度来た時、僕が自殺したのは夜中だったのにあそこは真昼のように明るく眩しかった。そもそも、あそこには時の流れという概念があるのかどうかも怪しいが。

そんな思考を重ねている時、目の前で驚くべき事が起こった。

「…え?」

見間違いだろうか。いや、でも確かにさっき0時38分を示していたのを確認した。



その時計はたった今、0時37分へと()()()()()



(…もしかして、本当に壊れてる?)

装飾だけが取り柄の、義務を放棄した時計。時計屋に頼めば数時間で直る程度の故障。単純にそうであろうと一瞬考えたが、もっと裏の意味を持ち合わせた時計でもあるような気がしてならなかった。

そもそも莇は普段、左手首に革製の腕時計を巻いている。正確かどうかは知らないが、時間を知りたいならその片方だけで事足りる。やはりこの時計はアイデンティティなのか、他の役割を果たしうる大事なものなのか。考えれば考えるほど、謎は深まる。

(明日、訊くか…いや)

確かに彼女のことも大事だが、今の最優先事項は奏幸だ。彼の案件が済んでからでも、きっと遅くない。

そう思った僕はコートをハンガーに掛けて中に吊るすと、そのクローゼットを閉じた。






---その長針がまた1分、戻ったことも知らずに。






***






少しだけ、緊張していた。

元々は仲の良い友達だった。バンドメンバーだった。

だけど例の案件以来、殆ど言葉を交わしていない。

(…ここだったっけな)

僕は東陽町から都バスで数十分の場所---両国にやって来た。昔は国と国の境目にあったことから、その名が付いたらしい。高校時代はこの近郊に学校が位置していて、多少の地理には明るい自負がある。

彼は《Spacephonic》の中でも、学校内でも一番真面目に、そして実直に高校時代を過ごしていた人間だと思う。僕が伍すのは到底無理な位に頭が良いだけでなく、人間性が真っ直ぐなのだ。迷いがない。

だからこそ、僕は彼を避けた。或いは彼が僕を遠ざけた。

彼はその高校に通っているだけでなく、元々この付近に住まいがあった。だが下の兄弟が騒がしく家の居心地が良くないようで、部活がない日はいつも駅のすぐそばにあるファストフード店に行って、ノートと教科書を広げていたのだ。

(…あ)

やっぱりいた。外から見える2階のカウンター席の、外から見て一番右の席---そこが彼の固定位置だ。人の出入りが気にならない窓際で、且つ昼間でも太陽の直射日光を浴びない絶好ポイントだと以前述べていたのを、僕はふと思い出す。

彼の顔は窓の光の反射で見えないが、僕は確証を得ていた。僕は店の1階に入って珈琲を一杯頼むと、それを持ってそそくさと2階に上がる。

「…やあ」

僕は細い道を通って窓際に移動すると、その背中をポンと叩いて、隣の空席に腰を下ろした。






「…。…何だ、君か」






《彼》は無愛想に言葉を吐き落とした。

振り向いた瞬間こそ驚いた顔をしたが、それも秒針が1つ進んだ頃にはすっと消えて、表情を消した。色を作したようなこの目と口調が、普段の彼そのものだ。




「変わってないね」

「…変わったって、意味がないだろ」




---僕の声に尚も塩対応を貫くこの男こそが。

《Spacephonic》のベース担当、弦間(げんま)颯斗(はやと)だった。





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