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Deathtiny  作者:
Chapter3「サウンド欠落ギタリスト」
15/19

#13「Unison guitarist」

9月9日。彩華さんの件が解決してから2日後。

横目に見ていたテレビのニュースキャスターが、こう話していた。

『速報です。本日19時頃から行われていた、スマートフォン向けゲーム発の音楽プロジェクト《SSS》のドームライブにて、声優の坂井彩華さんが引退を発表しました。動機について、坂井さんは声帯ポリーブであることを告白し…』

少しだけ、驚いた。彼女は声優界では隠れもない人物なのは知っていたが、芸能界にまで範囲を拡大すれば大きな存在ではない。その彼女の引退がテレビで報じられるというのは、意外性があった。やはり声優といえど声明は強いのか、それとも彼女の特殊な事情、悲劇的な話がテレビのネタで扱うのに値しただけなのか。

「…」

僕は少しばかり沈黙して、

「…良かった」

ただ、それだけ呟いた。肺腑を衝かれたような、衝かれてないような。微妙な感覚が、僕の心臓を巡る。

「本当に良かったですね」

ソファの上でしっかりと番組を見ている莇は、眉をひらいてほっと息を吐いた。彼女は、人の命が救われることを何よりも喜ぶ。まるで好きな食べ物が食卓に出された子供のように。

『こちらがライブ当時の映像です』

ニュースキャスターがそう言うと映像が切り替わり、どこかのドームのステージらしき場所が映し出された。観客席にはカラフルなサイリウムが星のように瞬く。

円形のセンターステージに《SSS》のメンバーと思われる女性声優7人が並んでいた。その中には、僕が助けた女性---坂井彩華の姿が。

(…いや)

助けた、というのも烏滸がましい。僕は彼女の自殺について、少しコメントしただけだ。自らの生死の判断は、大部分を彼女に任せた。押し付けた。僕は責任を放棄した。

『…皆さんに、お伝えしなくてはならないことがあります』

画面の中で話す彩華さんの声は、どこか震えていた。目も、病気の件を話す前なのに既に潤んでいる。

『私坂井彩華は…。声帯ポリーブを患った為、今月を最後に声優を…引退…させて頂きます』

その告白がなされた時、会場には大きなどよめきが走った。周りの《SSS》の6人は、事情を事前に話されたのか、あまり動揺しているようには見えない。ただただ、その事実を呑み込もうとしている。苦しい顔をしている。

『だから…ライブもこれで、きっと最後…。今まで…みんな…ありがとう』

彼女の声は嗄れていた。声帯ポリーブによるものか、嗚咽なのかは分からない。ファンは、明らかに動揺していた。

その時。



()()!』



彩華さんの隣に立っていた《SSS》の女性声優が、名前を呼んだ。本名ではなく、キャラ名で。右側に出てきた声優名のテロップは知らない名前だったが、そのすぐ側に書かれていた《出野里織》という名前には見覚えがあった。確かユニットリーダーのキャラクターだ。



『私たち、待ってる!《SSS》は7人で一つだから!だから…治った時に、この北斗七星を輝かすの!!』



その言葉は、事前に考えていた台詞だったのか分からなかった。その里織というキャラクターの声に似せているのかさえ、僕には分からない。だがそのキャラとしての台詞だとしても、一人の声優仲間の台詞だとしても、その言葉はキラキラと輝いていた。それこそ、彼女の星---メグレスのように。

『そ、そうだよ!またステージに立てる時まで、皆で待ってるよ!』

『美波なら、大丈夫だ』

周りのメンバーがリーダーに続いて彩華さん---いや、《前海美波》を励ます。それに呼応するように、客席から歓声が上がる。



『…!!みんな…』



彩華さんは、両目から大粒の涙を流した。そして、出野里織役の声優に抱き付く。

『ありがとう…ファンの皆も、ありがとう…!!』

彩華さんは抱き付きながら、右手を大きく振った。



(…)

絵に描いたような物語だった。これがアニメなら、超王道展開だ。特にファンにとっては、声優の会話している姿にキャラクターが投影されてより感動的に思われるのだろう。

(…まあ、良かったかな)

僕は少し安堵した。自殺を止めたことに満足しているのではない。彩華さんにこんな綺麗な世界を見せられたことを、僕は嬉しく思っていたのだ。

色彩のある客席を、涙と共に満たされた瞳で見つめる声優は、僕のおかげで存在することができたのだ、と。

(…いや)

少し傲慢だったか。僕自身、自殺には肯定的なのだ。

自殺者は動機を思い始めた頃には既に、何かを失っている。そしてそれは、基本的には取り戻すことができない。五十嵐信次なら《五十嵐雪乃》、彩華さんなら《声》、と言った具合に。当事者に掴むことができない幻想を、他人である僕がどうこうすることは不可能だ。

---では、僕は彼らに何をもたらしたのだろう?

---何を以て、僕は彼らの自殺を止めたのだろう?

何故だか、僕にはいくら考えても答えが思い浮かばなかった。




「禊?」

ふと、声が掛かった。

「…難しい顔をしてますね」

「そうかな」

「…音無(おとなし)さんのこと、気にしてるんですか」

その名前が出た途端、僕は少しばかり手を震わせた。

「…いや、違うよ」

「そうですか」

「でも、そろそろスタジオに行かないと」

僕は立ち上がると、出掛ける準備をした。






***






昨日、2021年9月8日。彩華さんの家に行った翌日。

午前中、僕と莇は暇を持て余していた。

というのも、《還り人》としての役割を果たすのに、ちょっとした障害が立ちはだかったからだ。

「むぅ…」

「出ないね」

僕と莇は部屋の中で向かい合って座り、テーブルの上に置かれた一枚の紙を凝視していた。その紙には、何も書かれていない。

この紙は、莇が五十嵐信次の事件直後に見せてくれた魔法の紙だ。僕が《還り人》として助けるべき5人の自殺者の名前、性別、自殺時刻、自殺座標をそれぞれの紙に表示してくれる。

彼女曰く、人の命は強い力を持つ。特に自殺者同士というのは精神世界での図式的には近い位置にあって、互いに面識がなかったとしても波及効果を受けやすい。片方の生がもう片方の死を招くこともあるし、片方の死がもう片方の生を招くこともある。そこまで行かなくとも、自殺時刻や方法、座標には影響を与える可能性が高い。バタフライ効果の理論に基づけば、そういうことらしい。

つまり言いたいのは、彩華さんの生死が確定するまで、次の自殺者の情報が紙に浮かび上がらない、ということだ。逆に言えば、彩華さんはまだ自殺を考えている。

(ツメが甘かったか…)

僕だって、昨日数十分話しただけで彼女の心を動かしたとは思っていなかった。確かに「参った」とは言ってくれたが、口先だけの降参は当てにならない。

僕が彼女に伝えたことは、周りの人間を忘れていないか、という事実を伝えただけだ。事実と実感は違う。彼女がファンや同僚、家族の認識を改めてしないと、まだその危ない橋から降りたとは言えないのだろう。

「…会いに行った方が良いかな?」

僕は莇に問う。莇もきっと同じことを考えていたのだろう、すぐには答えられなかった。

「…でも、家にいるかも分かりませんよ。明日の《SSS》のライブのリハでもやってたら、我々一般人は立ち会えません」

「そうだなぁ…」

僕がするべきことは全てした。後は彼女と、彼女に関わる全ての人に任せるしかない。

その時。

「…あっ!!」

莇がガタッと立ち上がった。そしてテーブルの紙を持ち上げる。僕はびくっと肩を震わせた。

「な、何?」

「出ましたよ、文字!」

莇がこちらに紙を見せる。確かにそこには、五十嵐信次や彩華さんと同じように、3人目の自殺者の情報が表に示されていた。

「やりましたね!彩華さんが生きることを選んだ証拠です」

莇は歯を見せて笑う。

「《SSS》のメンバーに声帯ポリーブのことを話したんですかね?それできっと意を決したのかも知れませんね!」

やけに明るい顔で尚も話を続ける莇。




---だからこそ、僕の表情は端から見れば際立っていただろう。




「…禊?」

「…」

僕は、茫然と口を開けていた。その視線の先には、文字が現れた魔法の紙。

彩華さんの生存が確定されたことは勿論嬉しい。御し難い人だったが、彼女が死なないことと、僕の本当の死へまた一歩近付いたことと、両方への歓喜だ。

だが、その喜びに水を差す事実が現れた。





「---音無(おとなし)奏幸(かなゆき)…」





ゆっくりと、吐く。

心通じる、3人目の自殺者の名前を。

「…知り合いですか?」

莇が、恐れ多くも僕に尋ねた。

自殺時刻は明日---9月9日午後11時28分。

自殺座標、北緯35.650、東経139.80。

僕にはそのどちらも気にならなかった。

問題なのは、何故彼に()()()()()()()()、だ。

「…ああ」

莇の質問の意味が遅れて脳に刷り込まれ、僕は答える。彼女は、僕の瞳を真っ直ぐに見てきた。






「---彼は5年前、交通事故で()()()()()()()になって眠り続けているはずの…。…高校の同級生だよ」






「え…?」

莇は、紙を落とした。

「序に言うと、僕は高校時代、軽音楽部だったんだ。その時、同じバンドメンバーだった」

「同級生…同じバンド…」

正直言って、今はその二つはどうでも良かった。重要なのは、

「意識不明…?」

彼には意識がないはずなのに、何故自殺できるのか。

僕は大きく溜め息を吐いた。相手が奏幸だからか。奏幸の容態とこの紙に記された事実が擦り合わないからか。折角彩華さんの件が解決したのに、また面倒なことになったと感じたからか。

溜め息を吸い込み直すように考慮してみたが、何故か僕にはその吐息の理由が分からなかった。

「…莇、一応訊くけど」

「は、はい」

思考を諦めて、僕は目の前の死神に尋ねる。

「長年意識不明だった人間が急な体調変化によって死ぬのは、自殺に含まれないよね?」

「はい…《乖離界》でスティンガーが言っていた4種類の死の中では病死に当たるはずです」

4種類の死、と言うのは寿命、病死、殺害、自殺のことだ。自殺により死を遂げた人間は《乖離界》を通過しなければならない、と言うのが一応は掟らしい。

「絶対に?」

「…はい」

「…じゃあ、安楽死は?」

僕がその言葉を言い放った途端、莇はあからさまに眉を暗くした。どうやら彼女は安楽死は反対派のようだ。一拍置いて、莇が口を開く。

「…まず、自殺の定義はその人に死ぬ意思があるかどうかで判断されます。本人が意志を決していれば、薬を入れるのが他人であっても、通されるのは《乖離界》のはずです。当たり前ですが、本人に自殺の意志がなく薬を投与されたのであればそれは殺人に分類されます」

「じゃあ、安楽死も違うのか…」

奏幸は昏睡状態のはず。つまり、意志を持たない。仮にその状態のまま薬を他人に投与されれば《乖離界》は通過しないのだ。

「一体彼の死因は何なんでしょう…」

「…まだ一つだけ可能性がある」

「え?」





「彼の意識が何かしらの原因で目覚めて、()()()()自殺した可能性だ」





「…!」

不思議な話だ。だが、有り得ない話ではない。

「これなら《乖離界》に来るよね?」

「は…はい…。でも…」

そこで僕は頷く。

「ああ…動機が分からない」

長年の眠りから覚めて、その瞬間絶望した《何か》、ということか。

「…彼や彼の家族に連絡をつけられますか?」

「うーん…入院してる病院は忘れちゃったし、スマホはこの世界にいるもう一人の僕の元だし…。でも」

「でも?」

「家の場所なら分かる」

「本当ですか」

「ああ」

僕と奏幸は同じバンドメンバーだった。彼の家に行って楽器の練習をすることは少なくなかった。僕が来る度にお菓子を出してくれた彼の母親ともよく話す。

「今すぐ行きますか?」

「うん。明日自殺だからあんまりゆっくりはしてられないね」

そう言うと、僕は外に出る準備を始めた。本当に、《還り人》というのは骨の折れる役目だ。






***






彼の家は東京メトロ東西線門前仲町駅のすぐ近くのはずだった。保養所は守谷の家のすぐ近く、同地下鉄東陽町駅付近。木場を挟んで2駅隣だ。

普段ならこの区間は通勤ラッシュである。どこの機関が調べたか忘れたが、全国の鉄道で最も混雑するらしい。だが真昼時となるとそうでもなく、僕と莇は隣り合って座ることができた。と言っても、たったの2駅だが。

門前仲町で降りて外に出ると、やはり代わり映えしない町の風景だった。でもやはり、この町はこれだから良いのだ。少しだけ江戸の雰囲気を醸し出す古町感が、きっと魅力なのだと思っている。

「こっちだよ」

僕は莇の手を引いて、細い路地へと入った。人が多くいる道はなるべく避けていく。

「やっぱり、君は着替えても目立つね」

僕は彼女の宝石じみた髪色を見て言う。そのエメラルド色に輝く髪は、見る人全てを魅惑させる。

「そう思うなら、今度はフード付きの服を買って下さいよ」

「それはどうかな…」

今の僕らは守谷にお金を借りている立場だ。それに、もし僕に本当の自殺が成功してしまえば、僕は彼にお金を返すことは不可能。あまり浪費すると、死後恨まれることになる。

僕らは少しして小さなマンションに入った。11階建ての白い建物で、この町にしては少し洋風な雰囲気を放つ。入口の灯りも温かい色をしたランプだ。

一回り小さいエレベーターに乗って、8階で降りる。そして細い道をずっと行き、一番端から一歩手前、827号室前で歩みを止めた。

「あれ?」

そこで僕は茫然とした。

その新しい表札には《音無》ではなく《崩紫》の文字が。

「これ…何て読むんですか?」

「さあ…」

僕の名字だってそこそこ難読だが、これはさっぱり分からなかった。予想さえつかない。

「ていうか、そんな事は今はどうでもいいよ」

「そ、そうですね…フロアを間違えたんじゃないですか?」

「いや、827号室で合ってるはずなんだ」

奏幸はよく話していた。僕の誕生日は8月27日で、部屋の番号と同じなんだ、と。

だから何だ、と言おうとしたがその時の目はいつもキラキラしていた。別に否定をする必要もなかったし、それで彼が嬉しいならそれで良いだろうと、僕は何もコメントしなかったのを覚えている。




「…あの…」




「!!」

色の変わった突然なる声に、僕と莇は同時に振り返った。

そこには、制服姿の女子高生が佇んでいた。長い黒髪に灰色のブレザー、赤と青のチェック模様が施されたリボンが似合う、普遍的な女の子。

「…何か用ですか?」

少し警戒気味に、彼女は尋ねる。当然だろう、23歳の男と15歳の少女が一緒に自分の家のインターホンを押そうとしているのだ。何をされるか全く想像がつかない。

「あ、えーと…」

僕は言葉選びに迷った。あまり怖がらせてはいけない。

「ここの方ですか?」

「はい」

「音無さんってご存知ですか?」

言葉選びより、さっさと会話を終わらせた方が良いと思った。僕は本題を直球で投げ掛けた。

「音無さん…ああ」

「知ってるんですか」

「私達がここに引っ越す前に、住んでいらっしゃった人かも」

「引っ越し…」

その言葉を聞いて、少し嫌な予感がした。あまり遠くては、また面倒事になりそうな気がするのだ。

「今の彼の住所、分かりますか?」

「多分、お母さんが連絡帳に書いてた気が…ちょっと待ってて下さい」

そう言うと、彼女は自分の家の扉を開けて、中に入って行った。相当警戒されているのか、扉を閉めた後にわざわざ鍵を掛けて。僕と莇が家に押し入る可能性を考えているのだろう。防犯意識が高いことは悪くないが。

「…彼女、可愛いですね」

「え?」

莇の唐突な言葉に、僕は頓狂な声を出した。

「黒髪の艶とか、瞳も透き通ったみたいに綺麗だし…」

「…確かに可愛いとは思うけど、急にどうしたの?」

「…少し、憧れただけですよ」

(…?)

莇は震えたそう言うと、後は不満げな顔をしたまま押し黙ってしまった。結局何が言いたかったのか、僕には分からなかった。

「お待たせしました」

ふと、ガチャリと音がすると、扉から女子高生が顔を覗かせた。彼女は僕に小さなピンク色の手帳を渡す。

「豊洲か…」

良かった。そんなに離れた場所ではない。まあ、莇が僕の救う自殺者を江東区内に限定したのだから当たり前だが。

豊洲というのは江東区の南西、東京湾に望む地域だ。区内では比較的栄えた場所であるが、築地市場の移転をするとかしないとかでよくテレビで話題になっていたアソコだ。

「この住所、メモっていいですか」

「どうぞ」

女子高生がそう言うと、僕はポケットからスマホサイズのメモ用紙を取り出した。何枚かが束になっているタイプのもので、保養所に置いてあった備品だ。

「ありがとうございます」

僕は長々とした住所を書き上げると、ピンクのメモ帳を彼女に返した。

「因みに…」

「はい?」

「音無さんに、何の用ですか?」

彼女は視線の合わせる位置を探りながら言う。呟くような小さい声だ。

「えーと…高校時代の友達なんです。久し振りに会って様子を見ようかなと」

「そうですか…」

交通事故だとか、昏睡状態だとか、そこの辺りはぼかしておいた。彼女が知ったところで、何の利益にもならない情報だ。

だが、それでも彼女は何か様子がおかしい気がした。迷うような視線の移動。単純に話し相手が赤の他人だから、というわけではない。

「…それじゃ、失礼しました」

だけど、気にしても仕方が無い。これ以上彼女の事情に踏み込んだら、きっと不審者に思われてしまうだろう。

「え、あ…はい」

僕はメモ用紙をポケットにしまうと、そのまま元来た道を戻った。莇も彼女に小さく会釈すると、僕の轍を踏んだ。






---ふと、冷たい風が靡く。

「…」

少女は髪を押さえる。冷たい、とても冷酷な風。

少女は逃げるように、家の中へ戻る。

鍵を閉める。






「---友達なんて、裏切り者です」






感情の吐露。

真っ黒な含みを持たせた、彼女の声。

その少女の独白を、僕が知るはずもない。






***






「…あ」

頓狂な声、本日二度目。

「何ですか?」

女子高生から教えてもらった奏幸の家に向かうバスの中、隣に座る莇が反応する。

江東区内は東西線が通っていて、横方向の移動は全てそれで済むが、縦移動になるとそれに見合う交通手段がない。南北線は江東区内は通らないので、縦方向はバスで済ませることが多いのだ。

「彼女の名前訊くの忘れた…」

「別にもう用件は済んだから良いじゃないですか」

「違うよ…名字の読み方」

「あ…」

莇が、バスに揺られた体をピタリと止めた。

「何だっけ?崩壊の《崩》に、《紫》だったけ」

《崩紫》。表札には確かにそう書いてあった。《生貫》を初見で読んだ莇を以てしても、読めないのか。

「…《ほうし》?」

「《ほむら》かも知れない」

「《くずむら》とかアリじゃないですか?」

「それだと彼女が人間的にクズみたいじゃないか」

「そうですね」

莇がそう言った時、丁度目的の豊洲駅に停車した。他の客に続いて、僕らもコンクリートの地面を踏む。《崩紫》の読み方は、今は結論付けられなさそうだ。

僕らはバス停から東方向に向かった。住所を見る限りは、大した距離ではなさそうだ。

「そういえば」

「ん?」

夕刻の道中、莇が思い出したように尋ねる。

「高校時代のバンドって何をしてたんですか?」

「別にただの軽音楽部のバンドだよ。他と何も変わっちゃいない。《Spacephonic》ってバンドを組んでたんだけど」

「すぺーすふぉにっく?」

「何でそんな名前にしたんだっけな…」

《Space》は宇宙。それくらいは分かるが《phonic》って何だろうか。《崩紫》に加えて、また新しい疑問が増えてしまった。

(…)

僕自身、あの事故以来高校のことは忘れようとしていた。そして事実、殆どのことは忘れられた。

何故あんなトラウマを簡単に忘れられたのか、僕にも分からない。高3の出来事だったから、受験勉強に気を取られていたのだろうか。

もし彼の目が醒めていたら、色々と話し聞こうか。

「…ここかな」

僕は足を止めた。莇は僕の見ている方向を追い掛ける。その表札には、今度こそ《音無》の文字が。

「一軒家なんですね…さっきはマンションだったのに」

「そうだね」

確かに一軒家だが、やや小さめには感じられた。彼は両親との3人暮らしで兄弟はいないから、これくらいのサイズ感が丁度良いのかも知れない。

すると、莇が僕の袖を引いて言った。

「私は遠くから眺めてますね」

「え?」

「私がいない方が話しやすいこともあるでしょう」

莇はそう言うと、悪戯笑いをする。子供の授業参観に来た保護者みたいだ。

「…前も思ったけど、莇、僕を試してない?」

莇は、僕の《還り人》としての役割に懸念を感じて一緒に現世に来てくれたが、正直言って殆ど傍観してるだけだ。五十嵐信次の事件の時こそ、彼女がいなければ一人目から本当の自殺を遂げられなかったが、それ以外は本当にただ僕の様子を見ているだけ。僕は、そう感じている。

「そんなことないですよ」

「…そう」

莇は一切表情を変えなかった。もしかしたら本当に何も仕組んでないんじゃないかと一瞬思ったが、この難物は意外と邪気を殺しているような気がする。油断は禁物だ。

「じゃ、後はお願いします」

莇は小道の道路標識の後ろに隠れると、後は目を寄越すだけだった。僕はゆっくりとインターホンを押した。何の変哲もない、だけどどこか寂しさを感じる、錆びた鈴のような音。

「…」

一寸の沈黙。そして

「あ…」

扉が開いた。

「…」

出てきたのは、奏幸の母親だった。僕にとっては見慣れた顔だ。黒いセーターに、色の抜け落ちた群青のダメージジーンズ。金色に光る細いネックレスは、この人のアイデンティティだ。

奏幸には悪いが、実は僕の苦手とするタイプの人間だ。女性らしさを欠いた、言わば男勝りの母親。僕は奏幸の父親は見たことがないが、きっと夫も彼女に似て屈強な人か、或いは彼女に高圧的なせいかくな怯えた鼠のような人かと勝手に思っている。だいぶ失礼だが。

「…ご無沙汰しています」

「…」

僕が言葉を発しても、なかなか反応を示さない。ただ口を開けたまま、僕の瞳をじっと見つめる。いや、見詰めるというより睨まれている感じだ。

「…何で分かったの?」

「え?」

漸く返事を紡いだ奏幸の母親は、改めてこう疑問を投げ掛けた。





「…何であの子が目覚めたって分かったの?」





「…え?」

---奏幸が目覚めた。

彼の母親から放たれた言葉は、余りに飛躍していた。

「奏幸が目覚めたんですか?」

「え?」

疑問符のキャッチボールと化していた。どうやら僕の訪れを、奏幸が目覚めただからだと思っているらしい。予想こそしていたが、その事実は僕にとっても、《Spacephonic》にとっても見逃せないことだった。

「か、奏幸は今どこにいるんですか!?」

「すぐ近くにある江東豊洲病院よ」

江東豊洲病院。名前の通り、区内で最大規模の病院。交通事故で意識不明の昏睡状態、それを扱えるのは区内ではあそこくらいだろう。引っ越したのも、家からのアクセスを良くする為だったのだろうか。

「ありがとうございます、今から会いに行きます!!」

奏幸は目と鼻の先にいる。しかも、5年の呪縛から解き放たれた懐かしの彼。

そう言って、僕がその場を離れようとした時だった。

「待って!!」

「え?」

奏幸の母親が僕の右手首をぎゅっと掴んだ。かなり強い制止だ。長めの爪が僕の皮膚に食い込む。

「ど、どうしたんですか」

「会わない方がいい」

母親は極めて真剣な目付きで僕を尚のこと睨んだ。女豹の如く、というのはこの事なのだろうか。

「…何故ですか」

僕は訊いた。手首を握るこの人の意図を。

だが、その口から漏れた声は、ひどく弱々しかった。







「---あの子、事故以前の記憶を失っているの」






「…え?」

それは、彼が目覚めているという事実以上に僕を圧倒した。

そして、心を蝕んだ。




---記憶喪失。




その悲劇を呑み込むまでには、いくら経っても足りない。





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