#11「Metaphorical confession」
「…ありがとうございます」
小雨の中、僕は告げた。青い透明の傘で自らの顔を隠しながら。莇は僕の横で、同じ傘に収まっている。
「いいの」
薄紫色の傘から、彼女の---坂井彩華の声が返ってくる。
まだ耳にしっくり来ない、特徴的な音声。ペトリコールと混ざり合って、夢現にいるようだ。
「何で、傘、2つ持ってたんですか」
「君の青い傘は私が今日持って来た方、この紫の傘は前に事務所に置き忘れた方。てっきり電車の中に忘れたかと思ってて」
彩華さんの方は、こちらの顔を覗こうと少し前屈みに歩く。頬の緩んだ顔は、あまりに眩しすぎて直視できない。
「何で、あの事務所にいたの?」
「え?あ、えーと…」
彩華さんの様子と裏腹に、質問は刺々しかった。ここで追い駆けのファンだと答えたら、彼女がどういう反応をするのかとても恐ろしい。
「…見学です」
通用するか分からないが、適当に言ってみた。声優に向いているとは思えない、とても低いトーンで。
「…」
隣の莇は白い目でこちらを見るが、
「へえ、見学!偉いね」
「え?」
反対側に立つ彩華さんのすっ飛んだ返答に、思わず僕も頓狂な声が出た。管理人もそうだが、あの事務所、人を疑うことを知らないのか。
「2人で声優目指してるの?」
「あ、いや、これは…」
「そうです」
「え?」
莇が冷笑をこちらに向けて答える。死神の笑いだ。
「いいね、そういうの!」
彩華も勝手に理解して話を進めようとする。からかっているつもりがないから、あまりに純粋すぎる女性だ。
(…)
何だか訂正を加える方が面倒になりそうなので、僕は何も口出ししなかった。それにしても、莇はどうしてこんなに嬉々としているのだ。
すると、彩華さんは自分を指差す。
「私、誰だか分かる?」
「坂井彩華さん…ですよね」
「何の作品出てるとかは?」
「えーと…《Seven Starry Stars》の前海美波役」
僕はさっき彼女について調べた時にヒットした名前を口にした。アニメ---と言うよりは、一種のプロジェクト的なものらしいが。彼女と会話するならもう少し、作品についてもサーチすべきだったな、と後悔する。
彩華は嬉々とした顔で言う。
「そう、明明後日に《SSS》のライブがあるの」
「そうなんですか」
《Seven Starry Stars》を《SSS》って略すのか、と思いながら僕は返事する。
「《SSS》も今後が楽しみですね!」
莇が明るい声で言った。さっき調べたばかりで、内容は把握していないはずだが。
そう思った僕だったが、次の彩華さんの言葉がやや引っ掛かった。
「…そうかもね」
(…?)
やや、意気消沈した声。こちらの話すペースを崩された感覚。僕はどうにも反応しづらく、とりあえず適当に間を取る感じで声を掛けた。
「どうかしました?」
「いや、何でも…」
彩華さんは傘を持つ手を僅かに下げた。僕と莇は、それを見逃さなかった。やはり彼女、何か事情を隠している。
だが僕が尋ねるより前に、彩華さんは駅の階段を降りていった。僕らも彼女の後を追う。昇り側の階段を歩く、酒気を帯びた人々が騒がしく話していて、少し苛立たしかった。
階段を降りて改札を通った直後、彼女は突然尋ねた。先を急いで、その素顔は見せようとしない。
「…君、名前は?」
「生貫禊です」
「そっちは?」
「…莇、です」
彼女は下の名前だけ名乗った。名字を訊かれるかと思ったが、彩華は何とも思わなかったようで、そのまま歩みを進める。
すると、彩華さんは後ろを振り向いて言った。少しばかり、歪な笑顔と共に。
「ちょっと心理テスト、していい?」
「心理テスト?」
「そう、とっても大事な」
「…まあ、いいですけど」
心理テストと事前に言われると、僕はどう答えれば最終的に最善の結果になるか先行して考えてしまう。自分を不幸な方向に導きたくない---そんな心情が脳内に突沸して本心の思考の障害として立ちはだかる。つまり、バイアスが掛かる為に自らの本性で答えられず、正確な分析が獲得できないということだ。
---だが、今回ばかりは事前に心理テストと言ってくれて良かったと思う。
「駅のホームに人が居ます。悲壮的な、自分の存在価値を失ったかのような顔をした《女性》が」
「…!」
駅のホームに向かう途中の階段で、こういう人試しは勘弁してほしいものだ。
「《彼女》は、飛び降り自殺を図っているのです。君ならその人を助ける?助けない?」
ホームへ降り立つ僕ら。3人が並んで、点字ブロックの前へ立つ。
「…」
非常に答えにくい質問だった。僕は莇の方をちらりと見る。
「勿論、助けます」
彼女は即答した。
「人の終着点は死じゃない---生き抜くことです。どんなに苦しい出来事があったにしても、死ぬのは人間としての意志にそぐわない。どんな理由があったとしても、私はその死だけは見逃せない。自殺は、今まで自分が積み上げてきた自我を切り崩すこと---だからそれは、今までの自らを捨てることになるし、それによって悲しむ人が必ずいる。たとえその人が、どんなに孤独であったとしても」
莇はそこまで言い切ると、きっと彩華さんを睨んだ。
彼女は、一驚を喫した感じであった。幼い少女が、たかが心理テストでここまで喋り倒すとは思ってなかったのだろう。
僕は、莇が一人の少女として自殺を否定するのは理解が及んだ。だが、彼女は自称ながらも死神だ。死神が死をここまで拒むのは何故なのだろうと僕は思った。彼女は死神ではない、彼女は嘘をついている、と言えばそれで済む話だが、どうして人の死をそこまで悲観し、防ごうとするかはいまいち分からなかった。僕なら---
「禊くんは?」
突如呼ばれて、僕は彩華さんの方を向いた。年上の女性に下の名前を呼ばれたのは、何だかとても新鮮で、胸騒ぎがした。
「え、僕ですか」
「2人に訊いたんだから」
彩華さんは尚も声のトーンを変えない。多少、小悪魔らしい笑顔を見せても不思議じゃない場面だと思うが、彼女の表情や声、目付きには何の変化もなかった。狙っているのか、それともこれが声優の《演技》と呼ばれるものなのか。
「僕は---」
ホームに、電車の到着直前を知らせる声が響く。
何と答えるのが、正解なのか。
彼女は後に、自殺を確実に行う人間だ。下手したら、今すぐにここで身を轢かれる気なのかも知れない。これは、自身の生死を決める為の質問なのか。
嘘を言ってでも、自死欲求を収める言葉を掛けようか。
一瞬の思考を通して、僕は彩華さんにこう言った。
「---僕より年下だったら助けます。まだ、救える可能性がある」
言い放つ。
自分より年上の彼女に。
ホームに電車の照らす光が入る。
彼女は、僕の発言にも何一つ表情を変えない。
電車は、停止した。
《6号車》と書かれた地面の文字の前には、ごく普通に6号車が停車。
彼女は---坂井彩華は、その文字の上にしっかりと立っていた。
(…はぁ…)
僕は、心の中で大きく溜め息をつく。ストレスと、安堵の両面を持った。
「…ごめんなさい、試すようなことして」
彩華さんは、開いたドアの中に吸い込まれていく。僕らは各駅停車の駅で降りなければいけないので、この快速には乗れない。
僕は彼女に、何か言ってやろうと思った。ふざけやがって、人の心を弄ぶな、と。
「…っ」
だけど、やめた。彼女の今の心はカバーガラス同然だ。少しでも指圧を掛けたら、それは儚く壊れてしまう気がした。それ位に、自殺寸前の人間は、心を痛め付けられている。一度自殺した僕だからこそ、分かることだ。或いは単に、今の僕にそんな余裕が無かったから、なのか。
すると、ドアが閉まる直前、彩華さんは言った。
「---《彩り》が、失われそうなの」
「…え?」
僕がそう声を出した時、ドアは既に彼女の顔を遮っていた。
電車が動き出す。車輪の音、風の音、トンネルとの反響音---だがそんな轟音の中でも、僕の心の内では彼女の言葉が反芻されている。
彼女が完全に姿を消した後、僕と莇は何も言えず、ホームに棒立ちしててた。
***
ぽつりと、呟く。
「《彩り》…」
僕と莇は、例の保養所に戻っていた。午後7時をとうに過ぎて、空は闇夜の黒に染まっている。
「彩華さんは何が言いたかったんだろう…」
「さあ…」
莇はキッチンからやって来ると、2つのカップラーメンを手に持ってやってきた。
「チキンラーメンとシーフード、どっちが良いですか」
「チキンで」
僕がそう言うと、莇は赤いパッケージのカップを僕の目の前に置いた。彼女は僕の前に座ると、側にあった白いタイマーで時間を設定した。3分だ。
「それより、さっきの心理テスト…」
「うっ…」
僕は顔をしかめた。数時間前、彩華さんが僕と莇に問うた、駅のホームに立つ自殺志願者の話だ。やはり、何か訝られるようなことがあったか。
「いい答えをしてくれました」
「…え?」
「…だから、いい答えだと」
てっきり、罵倒の嵐が来るかと思った。何たって、僕は彼女に「死んでもいいですよ」と言い放ったに等しいことをしたのだから。僕より歳上だったら、自殺を見逃すと。僕より歳上の彼女に。
「少しヒヤッとしましたが、冷静に考えれば『死なないで下さい』なんて貴方が本心から言えるわけがないですね」
「…まあ」
自殺者の本当の気持ちなど、誰にも分からない。真の自殺者は皆、死んでしまうのだから。そう考えれば、僕は彼女の気持ちを心の底から理解できる例外的な存在なのかも知れない。自殺寸前の人間に虚偽の言葉はただの誘爆剤だ、と僕は分かっている。
「あの答えは、元からあなたの信条にでもしていたんですか?」
「…僕より歳上の人は、生きている時間が長い分、僕の経験したことのない出来事に遭遇したのかも知れない。でも歳下であれば、僕の経験則から救い出せるかも知れない。未来も長いし、可能性はあると思ってる」
僕は少し偉そうに言ってみる。きっと僕より歳上の人は、自分の中で思索に思索を重ねても、本当に解決方法が見つからなかったのだろうと思う。選択肢が消されてしまった人生だって存在しないとは限らない。彼らの決断は、最大限尊重するべきだし、僕も考え続けて結局死んだ身なので、その立場に立ち替わることはできる。
ただ、一度心が折れきってしまった---即ち、自殺した僕に、他人の自殺を止める権利は無いが。
「…」
莇は何も言わない。彼女は僕とは真っ向から反対の性格だ。彼女は人の死を断じて許さない。例え当人にどんな事情があったとしても。彼女は《乖離界》の人口問題以前に、そういう心優しさを備え、慈悲を持ち、だがそれらが時々《死という逃げ方を罰する》形で現れてしまう。莇の死神という異名は、その執拗さから来ているのだろうか。
「そういえば彼女…《SSS》のライブがあるって…」
持論を語って気恥ずかしくなった僕は、適当に話題を逸らす。
「…私が『楽しみですね』って言ったら…急に…」
「動機はそのライブ…なのか」
「…確定はできませんが」
そう言うと、莇はパソコンの前に座って電源をつけた。僕はその後ろに立つ。
「君は《SSS》を元から知っていたの?」
「まさか」
(…)
やっぱりか。僕だって知らなかったが。
「…」
「…どうしたの?」
突如、莇が手を止めた。ホーム画面に入ってから、何もしようとしない。
「あの…」
「?」
「検索ってどうやるんですか…?」
(…はぁ)
僕は心底溜め息をついた。僕が椅子をポンポンと叩くと、莇はその席を譲った。
「すみません…。パソコンは《乖離界》ではスティンガーに任せているんです…。私は全然できなくて…」
(死人の情報管理さえコンピューターでやるのか…。やっぱりシステマチックだ)
そんなことを思いながら、僕は検索エンジンを開くと検索欄に《Seven Starry Stars》と入力した。きっと略称ではヒットしないだろう。
「よっと…」
やはり保養所のコンピューター、バージョンが低いが故に動作が鈍い。結果が表示されるまでタイムラグがある。
ヒット検索結果は約5,980,000件。僕はその一番上に表示されたサイト---《SSS》の公式サイトをクリックした。
「…《前海美波》」
「彼女が演じているキャラですか?」
僕はトップ画面にバラバラで立つ7人の美少女の内、下から2番目の位置に屹立した少女を指差した。名前の通りに波のような長い青髪を蓄えた、柔らかな目付きを持つ女の子だった。彩華さんに会う前から画像は調べていたので、顔は知っている。
僕は更にストーリー、スペシャル、販売情報など適当にクリックしてみた。
《Seven Starry Stars》---通称《SSS》は多方面へのメディア展開を主とした音楽プロジェクト。初出はスマートフォン向け音楽ゲームアプリで、そこからアーケード音楽ゲームへの楽曲提供、CD、関連グッズへと発展したそうだ。7つの瞬く星---北斗七星に準えた7人の少女がユニットを組んで、光輝く舞台を目指して成長していく、というコンセプトらしい。
(…そうか、トップ画面の並び方は北斗七星の星の配置に準拠していたのか)
不規則だと思っていた7人の少女の並び方、よく考えてみれば実際の北斗七星と同じだ。つまり、それぞれの少女に担当の星が割り当てられている、ということ。
僕は《キャラクター》と書かれたメニューバーをクリックした。
ユニットのスマイル担当でムードメーカー、ドゥーベの安良結弦。
臆病ながらもステージに上がり続ける最年少、メラクの馬場愛。
ボーイッシュなビジュアルで女性を虜にする、フェクダの臥雲聖。
飛び抜けた歌唱力を持つユニットリーダー、メグレスの出野里織。
ダンスの才能抜群の短髪美少女、アリオトの伊吹薫。
ユニット内最年長でメンバーを支える存在、ミザールの前海美波。
語尾の「にゃん」が人気を博す猫系少女、アルカイドの糸井乃々香。
僕は、星に詳しい。子供の頃、友達と《施設》の屋上に昇って夜空の星を見ていた。暑い頃には夏の大三角、寒い時にはカシオペア座だけは毎夜、都会の中でも見えた。北斗七星というものの存在は親ではなく、他の大人に教えてもらった。幼少期の僕はその名前のかっこよさに惹かれて、一通りは図書館の本で調べたのだ。このユニット---《北斗七星》の彼女たちは、全員頭文字が星のギリシャ文字になっていることも、すぐに気付いた。安良は《α》、馬場は《β》といった具合に。
「お洒落なアイドルですね」
「そうだね」
僕は莇に相槌を打つ。星をモチーフにしたアイドル、僕は綺麗で美しいなと思った。
「…明日、また事務所に行こう」
「どうしてですか」
「彼女に直接動機を訊く。あと…」
僕は、玄関の方を指差す。
「返していないものがあるしね」
その傘は、新品そのものに見えた。買ってから、然程日数が経っていないのかも知れない。それならば、彼女に返しに行くのが普通だ。
「そういえば、カップラーメン、冷めちゃいましたね」
「あ…」
すっかり忘れてた。もう3分はとうに過ぎただろう。
「いや、食べるよ。食べたら、寝よう」
「…はい」
莇は料理が致命的に下手だ。腹を満たすには外食かインスタント類しかない。今の僕らは守谷にお金を借りている立場であまり金の浪費はしていられないので、外食は控えている。インスタントだって貴重な栄養源だから、食べないわけにはいかない。
「僕、半幽霊状態だから食べなくても生きられたりしないかな」
「ないです。というか、幽霊も食事はしますよ」
「そうなのか…」
僕は観念したように、カップラーメンの蓋を破いた。
「死人だって、人間的な生活はします。だけど、心を失っている」
「それは、天国での話?」
「そうです。死人は、人間ではないです。人間の皮を被った、ただの《いきもの》です」
「君は?」
質問が連投になりつつも、莇は特に嫌がる素振りを見せない。
「私は過去に比類を見ないほどの惨い自殺をしたらしいんです。故に、前代の死神に認められて新たな死神になったんです。《いきもの》とは、違う」
「…」
僕には《いきもの》の定義が分からなかった。自我があれば、ということではないようだ。神と《いきもの》の差は、せいぜい上下関係と絶対性ぐらいだろうか。
ついでに少しだけ気になった。彼女の、過去に比類を見ないほどの惨い自殺、というものが。
「私は…簡単に生きることを諦めないで欲しい…自殺した私が言える話じゃないですが」
「君の自殺は、どんな感じだったの?」
僕は訊いてみた。こっちは自殺場所を勝手にプライバシーを無視して知られているのだから、こちらにも知る権利はあると思ったのだ。
だが、莇は少しだけ頬を赤らめると、こう返した。
「…プライバシーの侵害です」
「…そうかい」
僕は追求するのをやめた。
知っても、彼女は蘇えるわけではない。
---後から彼女の事情を知った時は、後悔したけど。
***
---今日、死のう。
心の中で呟く。聞かれてはいけない。
家に帰ったら、水に白い粉を混ぜて、命を断つ。
私の腐った喉には、そんな流動体がお似合いだ。
事務所を後にして、紫陽花のような紫色の傘を広げる。
昨日から、雨が降り止まない。灰色の厚い雲が太陽を覆い隠して、居座り続ける。
「…!」
ふと、気付いた。
存在感を示す風情だ。左肩にダルセーニョの模様が描かれた上着を羽織る青年。頭に咲く青い花が似合う翠色の髪の少女。兄妹のような、恋人同士のような、自称ただの知り合い同士。
「---傘、返しに来ました」
***
「いいんですか、いきなり」
「他に人もいないし」
雨の降り注ぐ小道の途中、彼女は微笑んだ。
僕と莇は、彩華さんの家に上がることになった。女性の家に上がるのは大学以来だ。特別、久しいわけでもないが、相手が人気声優であることを考慮すると心的な壁が立って塞いだ。
「ここです」
言われて、僕は建物を見上げた。
至って普遍的なマンションだ。白壁でつまらないデザイン、というのが第一印象。住居数こそ多そうだが、その分何だか窮屈そうだ。面積的にも、心理的にも。
ロビーに入る。蛍光灯の攻撃的な光が、外の沈みかけた夕日と補助的に床を照らしていた。小学生と思われる男児2人が大きさの不釣り合いな椅子に座っている以外には、特に何も気になるものはない。
3人はロビーを通過して左に曲がり、エレベーターに搭乗した。定員9名と、比較的狭いタイプのものだ。幸い、他に人はいない。
(…そういえば)
ふと、思い出した。僕が数日前に自殺した時も、僕が乗るエレベーターに乗客がいなかった。あの店自体は錦糸町付近で最多レベルの集客を誇るし、人が少ないわけではない。
今更ながら、とても不思議に感じた。まるで、僕に自殺の場を設けてくれているような雰囲気。
偶然であることは確信している。それは間違いない。僕はあの場所に嬉々としつつ、同時に悲しさも心に包み隠していたのだ。ベクトルが真逆の、2つの感情を。
「ここです」
エレベーターの扉が開くと、彩華さんは真っ先に降りて道を進んだ。僕が彩華さんの、莇が僕の轍を踏んでいく。
50歩ほど歩いたところで、彼女は壁の扉の方を向いて銀色の鍵を取り出し、鍵穴をゆっくりと回した。彼女は「寒いよぉ…」と可愛らしい声を出しながら自室へと入っていく。
「お邪魔します」
「…お、お邪魔します」
僕と莇はそう言いながら、その門を潜り抜けた。
部屋は、思った以上に綺麗だった。恐らく、そこら辺の一般女性の家よりよっぽど整頓されている。玄関には百合の花が花瓶と共に飾られていた。
「座って」
彼女は僕らをリビングへと案内した。他の部屋を見られたくないのか、妙にせかせかしている。僕と莇はクリーム色のふかふかしたソファへと腰を下ろした。
彩華さんはキッチンへ移動すると、遠くの莇に尋ねた。
「莇ちゃん、紅茶飲める?」
「…こ、紅茶ですか…?えーと…」
莇のたじろぐ様子を見て、彩華さんは笑った。
「…牛乳で良さそうね」
「そ、そうします…」
莇の頬がやや赤く染まったように感じた。背伸びしようとして断念した子供の顔、という感じだ。
数分して、彩華さんは長方形のお盆を持って僕らの元へやって来た。ソファの一番手前に座って奥の莇に牛乳、その左隣の僕へ紅茶を差し出した。更に左隣に座った彩華さんから、僅かに香水のような不思議な香りがした気がした。
「変わった香りですね」
「紅茶のこと?ラズベリーの香りなの」
「あ、そうですか…」
僕は香水の話をしようと思っていたのが、妙に話がずれてしまう。仕方無いので、ここは彼女に話を合わせることにした。
「…紅茶が趣味なんですか?」
「別に」
「…」
本当に話すテンポを崩される。自由奔放すぎて愛着さえ湧いてきそうだ。
すると、彩華さんは紅茶を少しだけ口に移す。
奇妙な程に、ゆっくりと。
窓を雨の滴が伝うような早さで、その魔性の液を呑み込んだ。
(…)
少し気味が悪いぐらいだった。女性の上品な飲み方、というものなのだろうか、それなら僕は関係ない、と適当な理論を組み立てると、僕はカップの半分ほどを一気に喉へ通した。莇も牛乳をちびちびと口へ移す。
ふと、彩華さんの表情がきりりとした。
「ごめんなさいね、真面目な話をする前に空気を和ませておかないと、どうにも話せないタチなの」
「え?」
真面目な話って何ですか、と訊く前に彼女は継ぎの言葉を続ける。
「---この紅茶、青酸カリが入ってるの」
「…え?」
不意打ちだった。
莇に関しては、コップを床に落としてしまった。
---彼女は、一瞬にして死への手続きを完了させたのだ。