#09「Colorful voice actor」
子供の頃の夢を叶えた。
卒業アルバムに記した、将来の夢。
何度も願った幻想。
幻想だと思っていた。
自分には辿り着かない道だと思った。
私はそこで挫ける人間じゃない。
幾重に鍛練を重ねた。
幻想を現実にする努力を積んだ。
そして、幻想は今、私の中に仕舞われた。
憧れの世界へ行けた。
まるで、ガラスの靴を履いたシンデレラのように。
だけど階段を昇る途中、ヒールが折れた。
抗えない。どうしようもない。
こればかりは、努力で解決できるものではなかった。
幻想は、瓦解を始めた。
奏でた記録は残されても、これからの命は創れない。
私は、裏返しの幻想に虐められた。
そんな運命、残虐じゃないか。
立ち去ろう。
楽になってしまおう。
この幻想---いや、この世界から。
***
「瞬間移動?」
僕の問いに、莇はそんな風に惚けた。
「してたじゃないか、紅葉を助ける時に」
僕は白いソファの上から、キッチンに立つ莇に言った。
僕らは事件後、守谷の家---ではなく、保養所の一室にいた。あまり彼に世話になるのは良くないと思ったのだ。
とは言っても、手続きには結局守谷の手を借りている。地域警察署の保養所だ。江東区内のとあるマンションの一室を、何十年も前に署で購入したらしい。リビングとキッチン、トイレ、風呂、寝室---一応、一般的な暮らしをするものは大体揃っていた。優しい茶色を基調とした木の床、白い壁と天井が、何かと僕らの心を癒した。17階建ての丁度中間、9階からの景色は悪いものではない。バージョンは古いがパソコンが設置されていたのは幸いだった。
僕らは五十嵐と紅葉が去ったあの後、守谷の帰りを彼の家で待っていたが、急遽電話が掛かってきたのだ。警察署の保養所が借りられそうだから、場所まで来てくれと。待ち合わせ場所で保養所の鍵を受け取って、中に入った後は僕と莇が順にお風呂に入って、今は少しばかり寝る前の些細な雑談、という感じだ。
いつもインスタントラーメンだけではマンネリ化してしまうので、夜ご飯は簡易的なスパゲティを作った。莇が作ると嫌な予感がしたので、僕が殆ど全部やって、彼女には今皿洗いをしてもらっている。何だか、少し不機嫌そうな顔だ。
保養所を借りる期間は僕が自殺する日---9月11日までの8日間だ。僕が《本当の死》を遂げるには、それまでに残り4人の自殺を止めなければならない。
「ああ、あれですか」
莇は台所のシンクで手を軽く洗いながら、ふっと笑う。そういえば彼女、紅葉を庇う時に手を擦ってしまったらしい。血が流れているが、信次の攻撃で被弾したわけではない。皿洗いも僕がやるべきだったか、と思った。
ちなみにこの後は、本当に寝るだけだ。パジャマは保養所に置かれていたものを借りているが、大人用で莇にはややサイズが大きかったようだ。
「私は《時の死神》ですから、あれぐらいの芸当は簡単です」
「…時間停止とか?」
僕が自殺してすぐ辿り着いた世界---《乖離界》で、莇が名乗ってた二つ名だ。生と死の間を司る不思議な場所であったから彼女が神なのは分かるが、いまいち《時の死神》なのかはピンと来ない。こんなあどけない死神が他に居るだろうか。
「《アクセレーション》という神業です」
「神業って自分で言うの?」
「神の使う業だから、神業です。他にもありますよ」
「…」
果たして、その言葉の使い方は正しいのか。
「自身及び自身に触れるものの速度を上げる神業です。あれは4倍速」
「それ以上速くはならないのかい?」
「…まあ、なりますけど、何か…」
「何か?」
「…スレスレの感覚を楽しみたかった…。そんな感じです…」
莇は言葉を濁す。まあ、緊迫したアクション映画的状況を感じたいのは分かる気もするが。
「そ、それよりも」
そう言うと、莇は僕の目の前にあるテレビを指差した。僕がさっき電源を付けた、小さな液晶テレビだ。埃を被っていて、さっき莇が乾拭きをしてくれた。
『速報です。本日午後6時頃、警察は連続射殺事件の容疑者を逮捕しました。男は日本狩猟会の理事長で…』
「…もう報道されてるのか」
僕はテレビの音量を下げる。
警察はもう少し経ったら、紅葉の逮捕も一緒にメディアに発表するつもりなのだろうか。そうなると、メディアの取り上げ方が僕にはとても不安に思えてきた。
(…)
五十嵐信次はどうして、このような事件を起こしたのか。
一つは、復讐だろう。事故とはいえ娘を射殺し、その死体を別の場所へ隠蔽した。狩猟団ぐるみでそれをやっていたのが、より悪質さを増していた。
もう一つは、娘の想いを3人に分からせたかったからだろうか。信次は《欅坂》の殺害に消音器を使わなかった。暗殺じみたこの事件なら、静かに敵を殺めて、迅速に逃走するのが常套手段だ。にも関わらず発砲音を響かせたのは、雪乃が2年前に経験した恐怖の死を彼らの前に再現したいからだろうかと、かもめ橋から信次の元へ向かう途中に僕は考えていた。
今思えば、五十嵐雪乃の当時の思いは余りにも悲惨なものだった。彼女はきっと誤射---それも、親友の紅葉によるものだと分かっていたのだろう。この事実だけでも心苦しいものなのに、父親にメッセージを送ろうとしたら、途中でその言葉は途絶えてしまった。彼女はまた、父親が紅葉たちに何かしらの行動を起こすかも、と危機感を抱いていた可能性もある。それを考えると、自分の死、残された4人の辿る運命を彼女は大いに悲観して、絶望の内にこの世から去ったのかも知れない。
「…君は、どう思う?彼が殺人鬼になった理由」
僕はそれとなく、台所に佇む莇へと話を振った。慣れた手付きで、自らの掌に包帯を巻いていく。
「…復讐も確かにそうですが、個人的にはそれだけで人殺しにまで踏み込むのかな、と思いました。だって愛すべき娘の大親友ですよ?」
「…どういう意味だい?」
「彼の主たる自殺動機は、自責の念です。それを殺害動機と同化させてしまったんじゃないでしょうか」
「…?」
「彼は、娘の死に関与した全ての人物を抹消したかった。自分を含めて。だけど、自殺する動機として、自分が狩猟を教えたから、というのは少し薄かった。日本狩猟会理事長として、猟師を全面否定する訳には行かなかったのかも知れないし」
「…だから、業を貶める為に、3人を殺害した?」
「でも、そんなの…。…殺害動機の言い訳に過ぎません…」
莇は吐き捨てるように言うと、キッチンの電気を消してこちらに歩く。
確かに、多少の違和感は感じていた。写真であんなに楽しそうにしていた男が、ここまでの暴走行為に走るか、と。
「…雪乃さんの『犠牲者は私一人で十分だから』というメッセージが読めなかった以上、父親としての覚悟が足りなかったとは思います。私が言えた話じゃないですけど」
「…え?」
「気にしないで下さい、さあ、もう寝ましょう」
莇の最後に発した言葉の真意を、僕は見出だせなかった。莇は何事もなかったかのように寝室へ向かう。
そこはダブルベットの部屋だった。と言っても、ホテルのように立派なものではない。莇は子供のように手前側のベットに飛び込むと、白い掛け布団を持ち上げて、その中に籠った。
と思いきや、その隙間から小さな顔が再び覗く。
「あ…一つ、忘れてました」
「何だい」
「2人目の自殺者---坂井彩華という女性です」
「…!!」
その名前には、聞き覚えがあった。
前の時間軸で、とある声優が総武線亀戸駅から飛び降り自殺をしたと、連日ニュースで報道されていた。声優界では有名なのか、ニュースでの取り上げ方も一般的な著名人の訃報と同程度にあった。顔も、はっきりと思い出せる。とても、綺麗な女性だった。
「…ていうかさ」
そこで僕は、ふと思った。
「はい?」
「残りの自殺者の名前、全員教えてくれないかい」
僕は莇の方を向いて頼んだ。そこそこの真摯さを含有させて。
今回の五十嵐の件を片付けるのには、こちらの世界に来た日を含めれば、3日間も掛かっている。それでもギリギリだ。莇が自称する神業とやらを使用しなかったら紅葉は殺されていたし、五十嵐も自殺を遂げていたかも知れない。
自殺の動機を解消するには長い時間が必要だ。場合によっては3日で解決されないものも今後出てくるかもしれない。だから、複数人の自殺予定者を同時に見ていく必要性がある、ということだ。
だが、莇からは意外な返答が。
「それはできません」
「え?」
我ながら頓狂な声が出た。
「これを見て下さい」
そう言うと、莇は布団から出て、両ベットの間に置いてあった小さな棚からゴムで纏めた紙を数枚取り出した。さっきこの部屋に来た時、自分の荷物は全部そこにしまっていたらしい。
ゴムを外して床の上に広げると、そこには5枚の紙が。1つは五十嵐信次の情報が記された紙、1つは坂井彩華の情報が記された紙。
そして残りの3枚は---全くの白紙だった。
「何これ?」
「人の命というのは単体には存在し得えない、という事です」
「…意味が分からないよ」
「インターネットを想像して下さい。例えば一つのパソコンがウイルスに感染すると、それと繋いでいたパソコンは干渉が不可能になったり、ウイルスの波及的な影響を受けたりします」
「一つが欠けると、全体が崩れるって意味?」
「まあ、そういうことです」
莇は再び紙を丸めてゴムで留める。
「命は、世界に於いて大きな意義を持ちます。つまり《バタフライ効果》の影響を大きくする」
「…え?バタフライ効果?」
急に謎の言葉を発した莇に、僕は首を傾げる。
「あ、えーと…現在時点で起こしたある行動が、未来に影響を与える効果のことです。元は蝶が羽を一回動かすという動作が、地球上に巨大な台風を起こし得るかという話が元らしいですが」
「へぇ…」
知らなかった。《時の死神》を名乗るだけあって、実はそういう方面には通暁しているのかも知れない。
「だけど、人の命が失われるというのは、蝶の羽ばたきとは比にならない位に重大なインシデントです。場合によっては他の人の命を奪ったり、逆に助けたりもする」
莇はそう言うと、紙を棚の中に戻した。ついでに、棚の上にあった時計のタイマーをセットし始めた。
「そして、人の命が救われることも同じ位に大きな影響力を持つ」
「…じゃあ僕が一人の命を救うことで次の自殺者がいなくなるっていう事?」
「可能性はあります。特に自殺する人は共通して《乖離界》に行くわけですから、精神世界での距離が近い---即ち、バタフライ効果の波及を直に受けやすい」
なるほど。インターネットでより交信回数が多いコンピューターが攻撃を受けたコンピューターの影響を強く受けるのと同じか。
「あの紙は不思議なんです。前の自殺者の生死が確定されないと文字が浮かび上がらない。自殺を止まるまで行かなくても、自殺する時間や座標が変わる可能性があるから」
「じゃあ莇は次の自殺者の名前も知らないのかい?」
「はい」
莇はセットを済ませると、再びベットに潜り込む。出たり入ったりで忙しそうだ。
「別に不具合ばかりではないと私は思いますよ。一人の自殺者に専念できるし、自殺者が自死を思い止まるかもという希望も抱えているわけですし」
「そういうものかなぁ…」
「この話はおしまいにしましょう。おやすみなさい」
そう言うと莇は掛け布団を再び頭の上に被った。寝る直前までこんな小難しい話をして就寝できるのかと僕はふと思った。
(…しかし)
今回の五十嵐信次の件、とてもギリギリの状況だった。
それを踏まえて、この僕に、彼女の---坂井彩華の自殺が止められるだろうか。