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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。

壊れた箱庭

作者: 小川葉月
掲載日:2015/02/14

 この世界中でたった一人。

 あなたの愛が欲しいのです。

 もういっかいだけでいい。


 私の名前を、呼んでほしい。



 もう何年、あなたのそばにいるのだろう。



 穏やかな春の日も、じりじりと熱い夏の日も。

 色づく秋も、凍える冬も。

 とりどりの季節を、あなたと共に過ごしてきた。



 愛情を知らなかった私を、抱いてくれたあなた。



 愛しているよと囁いて、壊れ物のように優しく触れて。

 まるで真綿でくるむように、大切に大切にしてくれた。

 私もあなたのことが、とてもとてもすきだった。


 あなたの隣はいつだって安心できた。

 笑ってくれるだけで、すべてが満たされていると思えた。

 温かくて安らかで、愛にあふれた幸せな日々。

 うららかで少し眠い昼下がりのような、ささやかで、何よりもいとおしい、永遠のような時間(とき)




 壊れてしまったのは、なぜだったのだろう。

 砕けてしまったのは、いつだったのだろう。




 そっと伸ばされていたあなたの手に、気が付けば私は。






 弾き飛ばされていた。






 お前のせいだと、あなたは言った。

 お前がすべて悪いのだと。お前がいたから、一番たいせつなものを失ってしまったのだと。

 悲しみと憎しみを言葉に込めて、私のからだに叩き付けた。

 衝撃で頭が揺れた。目の前がチカッと光ったかと思うと、ものすごいスピードでリビングの壁が迫ってくる。耳のすぐ横でゴッと鈍い音がした。


 くらりと視界がゆがむ、けれど私には、何が起こったのかわからなかった。

 燃えるような瞳、刺すような強い感情を向けるあなたに、どうしていいかもわからない。

 だから私は、いつものように手を伸ばした。



 どうしたの?

 何かあったの?



 聞きたいけれど、かすかに痛む唇は、言葉を成してはくれなかった。

 そうしているうちに、あなたは私に近づいて。

 ジーンズを履いた長い脚で、私のお腹を激しく蹴った。

 そうして私の髪をつかんで、冷たい床を引きずって。

 私の意識がなくなるまで、あなたは私の頬を叩いた。



 あなたと私の日常は、あの日突然、形を変えた。

 あなたが与えてくれるものは、痛み。部屋の中に響くのは、ものの壊れる音と怒ったあなたの声。



 どうしてお前はそうなんだ。

 なぜ言うことを聞けないんだ。

 へらへら笑うその顔が、気持ち悪くて吐き気がする。

 お前なんか、消えてしまえばいいのに。



 繰り返される言葉はまるで(まじな)いのように、私の中をゆっくりと駆け巡る。



 どうすればいいの?

 何をすればいいの?

 どうやったらあなたは、前みたいに笑ってくれるの?


 言葉にしたいけれど、どういうわけか口の中が痛くて。

 ぬるりとした液体に邪魔をされて、思うように声が出ない。


 あつい、いたい、くるしい。でも。

 私は笑う。


 それしかできないから。

 そうすることしか、私は知らないから。

 そしてまた、あなたは私の頬を叩いた――――。





 他の人がいるときは、あなたは私に手を上げなかった。

 私の髪を撫でて、すきだと言ってもくれた。

 前と変わらない柔らかな音で、楽しそうに笑みをこぼした。



 私も楽しくて嬉しくて、いつもの何十倍もの笑顔を、あなたに向けていましたね。

 二人きりの生活は相変わらずだったけれど。

 痛みと苦しみに声は出せなくなったけれど。

 あなたがいてくれれば、それだけでよかった。




 私はどこにも行けないから、あなたもどこにも行かないで。




 そんな自分勝手な願いは、やっぱり叶えられることはなかった。




 何気なくハサミを手にした私に、鬼のように顔を歪めたあなたが迫る。

 取り上げられた拍子にバランスを崩した私の体が、あなたの胸めがけて落ちる。煩わしそうに振り上げられた腕、力いっぱい突き飛ばされて、私はますます均衡を失う。

 あなたが叫ぶ。やめろ、きえろ、ここから去れと。



 あかい、あかいものが目の前に散った。

 どうしてだろう、お腹が熱い。まるで火を押し付けられたようだ。

 あなたが私の肩をつかみ、ごろんと無造作に床に転がす。

 俯いたあなたの表情は、前髪に隠れてちっとも見えない。


 泣いているの?怒っているの?

 あなたは今、何を思っているの?



 

 名前を呼んで。

 そして笑って。

 



 お願いだから、もう一度……。




 私の意識はそこで途切れて。

 そうしてあなたは、居なくなってしまった。







「気が付いたかい?」



 真っ白な部屋で、私は目を覚ました。

 真っ白な天井、真っ白なベッド、真っ白な揺れるカーテン。

 私を覗き込んでいる、白いシャツを着た男の人。

 私はこの人を知っている。懐かしいさに、私は開いた目を細める。



「僕のことを覚えているかい?」

 うん、覚えているよ。最後に会ったのはもう随分前だけど、お日様みたいなその笑顔を、忘れたりなんかしない。

 お兄ちゃん、と呼んでみる。

 驚くほどすんなりと、私の喉は声を生み出した。



「はは、そう呼ばれるのはどれくらいぶりかな。調子はどう?」

 聞かれた意味が分からず瞬きをした私の、お腹にそっと大きな手が置かれた。

「深くはないそうだけど、跡が残るかもしれないそうだよ」

 そう言って、お兄ちゃんは顔を歪め。


「――――助けられなくて、ごめん」

 私の頭を優しく抱いた。




 温かい……。

 こんな風に誰かのぬくもりを感じるのは、どれくらいぶりだろう。




 あなた(・・・)が抱いてくれたのは、もう遠い遠い、ずうっと昔のように思えた。




「こんなことを言うと、怒るかもしれないけれど……」

 小さな声、お兄ちゃんが手が震えている。

「……憎まないでやってくれないか?」

 問いかけられた、その瞬間。

 私の頬をぱたぱたと、熱を持った滴が濡らした。

 憎む? 私が? どうして?……誰を?


「確かにあいつは、きみに暴力をふるっていた。ひどいことも、悲しいことも言われただろう」

 うん、そうだね。でも私は、そんなことは気にしてないよ。

「きみが怒るのも、嫌うのも仕方がない。けれど」

 ううん、私、怒ってなんかいないよ。嫌うなんて、絶対ない。


「あいつは、きみのことを……」

 お兄ちゃんの言葉は最後まで続かなかった。


 その代わりだろうか、生み出された滴はますます粒を大きくして。

 私の肌を濡らし続けた。



 お兄ちゃんが、私に伝えたかったこと。

 音にならなかったそれを、私はきちんと理解していた。

 言おうとしたのは、きっと。



「あいつは……きみを……」

 あなたが、私を。





 愛してくれていた、ということなのだろう。





 消えろ言われたこともあった。

 消えてなくなれと。目の前からいなくなれと。

 でもそれはどうしても出来なくて。

 どうあがいても私には出来なくて。


 そしてとうとう、あなたの方が居なくなってしまったけれど。



 でも。

 でもね。



 あなたは私に、言わなかった。

「嫌いだ」とは、一度も言ったことはなかったの。


 痛い思いも、苦しい思いもしたけれど。


 それでもあなたは、笑って私に触れてくれた。


 好きだとも、言い続けてくれた。



 分からなかったのはきっと、あなたも一緒。




 どうしたらいいのか、分からなかった私。

 愛し方を忘れてしまったあなた。




 ああ、そうだ。

 私は確かに愛されていたんだ。

 そんな当たり前のことがいつの間にか、あやふやなものになってしまって。

 いつしか、私も伝えることをやめてしまっていた。



 今も、昔も。

 変わらずにあなたを、愛しているのだと。

 だからずっと、傍にいさせて欲しいのだと。





 伝えていたら今このとき。

 優しい時間は……続いていたのだろうか。











「………………お母さん………………」







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