壊れた箱庭
この世界中でたった一人。
あなたの愛が欲しいのです。
もういっかいだけでいい。
私の名前を、呼んでほしい。
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もう何年、あなたのそばにいるのだろう。
穏やかな春の日も、じりじりと熱い夏の日も。
色づく秋も、凍える冬も。
とりどりの季節を、あなたと共に過ごしてきた。
愛情を知らなかった私を、抱いてくれたあなた。
愛しているよと囁いて、壊れ物のように優しく触れて。
まるで真綿でくるむように、大切に大切にしてくれた。
私もあなたのことが、とてもとてもすきだった。
あなたの隣はいつだって安心できた。
笑ってくれるだけで、すべてが満たされていると思えた。
温かくて安らかで、愛にあふれた幸せな日々。
うららかで少し眠い昼下がりのような、ささやかで、何よりもいとおしい、永遠のような時間。
壊れてしまったのは、なぜだったのだろう。
砕けてしまったのは、いつだったのだろう。
そっと伸ばされていたあなたの手に、気が付けば私は。
弾き飛ばされていた。
お前のせいだと、あなたは言った。
お前がすべて悪いのだと。お前がいたから、一番たいせつなものを失ってしまったのだと。
悲しみと憎しみを言葉に込めて、私のからだに叩き付けた。
衝撃で頭が揺れた。目の前がチカッと光ったかと思うと、ものすごいスピードでリビングの壁が迫ってくる。耳のすぐ横でゴッと鈍い音がした。
くらりと視界がゆがむ、けれど私には、何が起こったのかわからなかった。
燃えるような瞳、刺すような強い感情を向けるあなたに、どうしていいかもわからない。
だから私は、いつものように手を伸ばした。
どうしたの?
何かあったの?
聞きたいけれど、かすかに痛む唇は、言葉を成してはくれなかった。
そうしているうちに、あなたは私に近づいて。
ジーンズを履いた長い脚で、私のお腹を激しく蹴った。
そうして私の髪をつかんで、冷たい床を引きずって。
私の意識がなくなるまで、あなたは私の頬を叩いた。
あなたと私の日常は、あの日突然、形を変えた。
あなたが与えてくれるものは、痛み。部屋の中に響くのは、ものの壊れる音と怒ったあなたの声。
どうしてお前はそうなんだ。
なぜ言うことを聞けないんだ。
へらへら笑うその顔が、気持ち悪くて吐き気がする。
お前なんか、消えてしまえばいいのに。
繰り返される言葉はまるで呪いのように、私の中をゆっくりと駆け巡る。
どうすればいいの?
何をすればいいの?
どうやったらあなたは、前みたいに笑ってくれるの?
言葉にしたいけれど、どういうわけか口の中が痛くて。
ぬるりとした液体に邪魔をされて、思うように声が出ない。
あつい、いたい、くるしい。でも。
私は笑う。
それしかできないから。
そうすることしか、私は知らないから。
そしてまた、あなたは私の頬を叩いた――――。
他の人がいるときは、あなたは私に手を上げなかった。
私の髪を撫でて、すきだと言ってもくれた。
前と変わらない柔らかな音で、楽しそうに笑みをこぼした。
私も楽しくて嬉しくて、いつもの何十倍もの笑顔を、あなたに向けていましたね。
二人きりの生活は相変わらずだったけれど。
痛みと苦しみに声は出せなくなったけれど。
あなたがいてくれれば、それだけでよかった。
私はどこにも行けないから、あなたもどこにも行かないで。
そんな自分勝手な願いは、やっぱり叶えられることはなかった。
何気なくハサミを手にした私に、鬼のように顔を歪めたあなたが迫る。
取り上げられた拍子にバランスを崩した私の体が、あなたの胸めがけて落ちる。煩わしそうに振り上げられた腕、力いっぱい突き飛ばされて、私はますます均衡を失う。
あなたが叫ぶ。やめろ、きえろ、ここから去れと。
あかい、あかいものが目の前に散った。
どうしてだろう、お腹が熱い。まるで火を押し付けられたようだ。
あなたが私の肩をつかみ、ごろんと無造作に床に転がす。
俯いたあなたの表情は、前髪に隠れてちっとも見えない。
泣いているの?怒っているの?
あなたは今、何を思っているの?
名前を呼んで。
そして笑って。
お願いだから、もう一度……。
私の意識はそこで途切れて。
そうしてあなたは、居なくなってしまった。
・
・
「気が付いたかい?」
真っ白な部屋で、私は目を覚ました。
真っ白な天井、真っ白なベッド、真っ白な揺れるカーテン。
私を覗き込んでいる、白いシャツを着た男の人。
私はこの人を知っている。懐かしいさに、私は開いた目を細める。
「僕のことを覚えているかい?」
うん、覚えているよ。最後に会ったのはもう随分前だけど、お日様みたいなその笑顔を、忘れたりなんかしない。
お兄ちゃん、と呼んでみる。
驚くほどすんなりと、私の喉は声を生み出した。
「はは、そう呼ばれるのはどれくらいぶりかな。調子はどう?」
聞かれた意味が分からず瞬きをした私の、お腹にそっと大きな手が置かれた。
「深くはないそうだけど、跡が残るかもしれないそうだよ」
そう言って、お兄ちゃんは顔を歪め。
「――――助けられなくて、ごめん」
私の頭を優しく抱いた。
温かい……。
こんな風に誰かのぬくもりを感じるのは、どれくらいぶりだろう。
あなたが抱いてくれたのは、もう遠い遠い、ずうっと昔のように思えた。
「こんなことを言うと、怒るかもしれないけれど……」
小さな声、お兄ちゃんが手が震えている。
「……憎まないでやってくれないか?」
問いかけられた、その瞬間。
私の頬をぱたぱたと、熱を持った滴が濡らした。
憎む? 私が? どうして?……誰を?
「確かにあいつは、きみに暴力をふるっていた。ひどいことも、悲しいことも言われただろう」
うん、そうだね。でも私は、そんなことは気にしてないよ。
「きみが怒るのも、嫌うのも仕方がない。けれど」
ううん、私、怒ってなんかいないよ。嫌うなんて、絶対ない。
「あいつは、きみのことを……」
お兄ちゃんの言葉は最後まで続かなかった。
その代わりだろうか、生み出された滴はますます粒を大きくして。
私の肌を濡らし続けた。
お兄ちゃんが、私に伝えたかったこと。
音にならなかったそれを、私はきちんと理解していた。
言おうとしたのは、きっと。
「あいつは……きみを……」
あなたが、私を。
愛してくれていた、ということなのだろう。
消えろ言われたこともあった。
消えてなくなれと。目の前からいなくなれと。
でもそれはどうしても出来なくて。
どうあがいても私には出来なくて。
そしてとうとう、あなたの方が居なくなってしまったけれど。
でも。
でもね。
あなたは私に、言わなかった。
「嫌いだ」とは、一度も言ったことはなかったの。
痛い思いも、苦しい思いもしたけれど。
それでもあなたは、笑って私に触れてくれた。
好きだとも、言い続けてくれた。
分からなかったのはきっと、あなたも一緒。
どうしたらいいのか、分からなかった私。
愛し方を忘れてしまったあなた。
ああ、そうだ。
私は確かに愛されていたんだ。
そんな当たり前のことがいつの間にか、あやふやなものになってしまって。
いつしか、私も伝えることをやめてしまっていた。
今も、昔も。
変わらずにあなたを、愛しているのだと。
だからずっと、傍にいさせて欲しいのだと。
伝えていたら今このとき。
優しい時間は……続いていたのだろうか。
「………………お母さん………………」




