初恋ショコラ
話の流れ的には、本日のお茶菓子の翌週位と思って貰えたらいいです。
「芽衣?仕事終わりそう?」
「無理ですぅ……」
私の異動が後二日と迫っていると言うのに、例によってお約束となっている残業中の私の様子を見に来た忍さんに答える。
「今までサポートしてくれた竹田さんは今週から秘書課に異動したと言うのに」
今まで1課の営業事務としてサポートしてくれていた菫ちゃんは今週から異動先の秘書課での勤務が始まった。私も明日は最後のあいさつ回りで一日外勤が決まっているというのに……どうしてこうなってしまったんだろう?
「今回は誰のごり押し?」
「明日の夜を食べたいものを食べさせてくれると言った事業部長達です」
「成程。事業部長と同じ日に異動なのはそう言う事か」
「そう言う事です。1課はとっくに処理が終わって人事にデータ送ってあるって言うのに」
「今夜の残業は……勤怠データの入力とチェックリストの出力かい?」
「はい。それと経費伝表の束……未決の箱全部ですって」
私は未決のトレーに積まれた山を見せた。4月からは新システム導入の為、今のシステムでは作業が出来なくなる。今は各部署ごとにシステムの変更がされているのだけど、経費伝票の量の多い営業部は期末の31日にシステム変更がされるという。現行システムは31日午前までしか使えない為、溜めこんだ経理伝表を30日までに処理するようにとあれだけ経理部から通達があったと言うのに……馬鹿すぎる。
「で、どうして芽衣の仕事になる訳さ?1課の伝票はどうなっている?」
「1課はもう私が伝票を入力してあります。残りの発生分は極力小額に抑えて貰って4月1日付けで処理して貰う事になっています」
私達の異動で皆に迷惑がかかるのが分かっていたから、新システムの勉強会を営業部には特別に行って欲しいと経理部とシステム部にお願いしてある。その結果、役職以外の営業部員は31日の午後から新システムの研修会が行われる。
私の異動日は30日だから営業部にはいないし、新システムを利用する……交通費の精算する程度のものだろう。それと忍さんが経費伝票を私に回して来た時位だ。なので、私が新システムの研修を受けるのは、秘書課と一緒にさせてもらう事にした。財務管理部の経費伝票は経理部が一括して処理してくれる。って言うのも、メインの業務は税務処理等になるので、事務用品は経理部と一緒の扱いだ。引き継ぎの際に言われたのは、日常使うものは私物にして、経理から貰うのはファイル等を優先すればいいわよ……と言われていた。日常使うメモに使う紙も、経理部にストックしてあるコピー用紙の裏を使うから定期的に貰うようにと言われた。
ココは営業部以上に無駄がない。全部署で徹底化したら経費が削減できそうねってぼんやりと考えていた。
最初は前事業部長とこの処理はやらないって決めていたのだけど、〆切りが近いのにまるっきり伝票の処理をしない他の課の子達を叱り飛ばしてしまって、そのとばっちりが私にやって来たのだ。
「斎藤さん、暇そうにデスクとかキャビネットの片付けしています」
「私たちだって仕事をしています」
「定時で帰社して仕事を溜めているのは斎藤さんの方です。私達の方が迷惑しています」
出会いを求めて出社している彼女たちがちゃんと仕事をしてくれない事は今の1課は分かっているから自分達に被害が来ない様にと今まで彼女たちをチヤホヤするのを止めた。
私達が異動が決まってから、彼女達の仕事を拒否し続けた結果が出たんだと思うけど、新しい事業部長に嘘を並べるのはどういうことだろう?
「で、女の子たちは?」
「私達習い事がありますって定時で帰りましたよ。人の事をニヤニヤ笑いながら見てね」
「うわあ……人として終わっているな。ソレ」
「それと、トイレや更衣室で派手にぶちあげてくれたそうですよ」
「そうですよってどうして知っているの?」
「その証言がメールで回ってきました。なので、貰ったメールを事業部長と菫ちゃんに転送しました。社内メールの私用利用は嫌ですけど、今回は私の名誉もあります」
「で……どうなったの?」
「前事業部長が、今度の事業部長を出先で捕まえてちょっと前までお説教していましたよ。私の営業部での勤怠実績の全データを見せてね」
「竹田さんは?」
「菫ちゃんは、人事部長に訴えてくれたみたいです。制裁はお任せをってメールが人事課長からきましたから」
「竹田さんもやる時はやるねえ」
「菫ちゃんも今までは散々被害に遭っていますから。最後のこの仕打ちが許せないのでは?まあ、私は明日は直行で15時帰社なので、朝は修羅場だと思いますよ。いろんな証拠を掴んでいますし……私達」
「芽衣……やり過ぎない様に」
「大丈夫です。やられた事を正確に訴えただけですよ?多分22時前にはチェックリストが出せると思うので、先に自宅に帰りますか?」
「いいや、今日は一緒に帰るつもりでここにいるからさ。俺にも伝票回してよ」
そう言って、私の隣のPCの電源を入れる。
「でも、忍さんの仕事じゃないよ」
「芽衣はこれが終わらないと帰れないだろ?ってことは、俺は芽衣とのデート時間とこいつで奪われる訳だ。俺の家でのデートだとしても……違うかい?」
「……おっしゃる通りです」
「それなら俺が手伝う理由があるよな。早く終われば、早く芽衣とイチャつけるし。外で食事できないのが残念だけどな」
「ごめんなさい」
「いいさ。4月になったら一緒に帰るのが普通になるから。手当減るけど……本当に良かったの?」
忍さんはまだそんな事を言う。確かに営業部時代の能力給は給与ではなくなってしまうけど、ボーナスは残っているんだよね。それに制服勤務に戻れるからジーンズ出社でいいのが嬉しい。
「馬車馬のように仕事をする事を望んでいませんよ?仕事が楽しかったのは事実ですけど」
「そっか。じゃあもう聞かない。それに5月の連休で俺と一緒に暮らすのはいいんだろう?」
「そうですよ。実家の荷づくりも始めたいから4月の平日は家に帰らせて下さいね。それと少しずつ荷物を送りますから」
「分かったよ。でも……婚約期間が長くなりそうでごめんな」
「構いませんよ。田口さんから榊原さんにならないといけないでしょう?」
「芽衣は本当に聞き分けのいい子だね。もっと我儘言ってくれよ」
「言いましたよ。家を出て忍さんと一緒に暮らしたいって」
3月のお彼岸の後に、忍さんが両親に会ってくれた。結婚を前提に交際したいと意思表示をしてくれた。
社長修行も始まるから、挙式には時間がかかってしまうが、一日でも早く私との生活を始めたいと思っている事。その為、5月の連休で自分の家に引っ越してきて欲しいとお願いしたのだ。
学生時代の恋人と破局した事を親に告げるのを忘れてしまった私はちょっとだけ怒られた。
まあ、最後は彼の営業成績用のお財布位にしか思って貰えなかったらしいのよ……なんて冗談交じりで両親に報告すると、父は顔を真っ赤にして怒っているようだった。
「でも、彼女が彼と別れてくれたので、僕がここにいる訳ですし……結果オーライなのではないでしょうか?」
忍さんに旨い具合に言い含められてしまって、父は怒りを収めるしかなかった。
営業部は私達二人しかいないけど、他の部署は期末処理で修羅場になっている様だ。
遠くから、終わらないって悲鳴が聞こえてくる。そんな声に頑張れ、やればできるよってエールを送りながら、ひたすらデータ処理と行う。部長達が帰ってからもうすぐ2時間たつ20時。
忍さんが手伝ってくれたから、データの入力だけは終了した。チェックリストを出力して、事業部長の机の上にドサリと置いた。
「芽衣?チェックリストは?」
「その位はあの子達にやらせるって、明日の夜は何にしようかな。銀座の中華でもいいと思わない?」
「芽衣……ちょっと黒いよ」
「黒くなる気持ちは分かるでしょう?異動前だから当然の事しているだけなのに」
「分かったよ。さっきチェックリストを見たけど彼女達の残業時間って……」
「今は聞かないで。その件も菫ちゃんが手を打ってくれているから」
「そうか。俺は今の事は聞かない事にしておくよ。ところで俺と付き合っている事はオープンにしてもいいのかい?」
「私……隠していませんよ。彼氏が出来た事はいいましたけど、菫ちゃんは知っているけど、誰とは言っていません」
「竹田さんは仕方ないよね。あの日の休んだ理由を知っているんだから」
そう……ホワイトデーの翌日に休んだ本当の理由を菫ちゃんは知っている。
この人……忍さんに抱きつぶされてしまって起き上がれなくなっていただなんて。
「さあ、帰ろう。今夜はデリバリーのピザにしようか?明日が中華ならその方がいいよね?」
「忍さん?私……明日もお泊まり何ですか?」
「俺が君の実家に連絡してあるから。着替えは家に必要な分があるだろう?」
私を手放したくないという気持ちは分かるけど……極端だなあと思った。
「ただいま」
「……ただいま」
なんて言おうか悩んだけれども、ここはただいまって言った方がいい気がして小声で言ってからドアを閉めた。その途端忍さんにきつく抱き寄せられた。
「もう一回言って。お願いだから」
「ただいま?」
「うん。お帰り。マイハニー」
そう言うと、チュッと軽い音を立ててキスをする。それが引き金になってしまってそのままちょっと言えない事になってしまって……。本当に困った人です。
「忍さん!!」
「芽衣が天然過ぎるのが悪いんです」
ピザのケータリングは22時に来るというので、先にお風呂に入る事にした。
そのお風呂でも、忍さんが入りこんでしまって大変な事になってしまい、私は逆上せてしまってバスローブを羽織ってソファーでぐったりな状態です。
「忍さん!!」
「だって……」
「女の子みたいな言い訳を望んでいません。シタイのでしたら、ちゃんと先に言って下さい。私の体がもちません」
「ううっ。今週末は芽衣には会えたけどできなくって……うなじにアレだけつけたキスマークが消えたのが分かって……あの……その……ガキみたいでごめんなさい。でも、これで許して?」
冷蔵庫から取り出したのは、初恋ショコラ。これ……先週の残業で……ああ思い出すだけで恥ずかしい。
「ほらっ、口開けて」
ひと匙掬って私の口元に運んでくれる。私はゆっくりと口を開けてソレを受け入れる。
いつもながら、濃厚なチョコレートの香りが鼻一杯に広がって幸せを感じる。
少しだけ機嫌が良くなった私に気を良くした忍さんの手の動きが宜しくないのですが?
「忍さん?」
「ほらっ、甘いもの食べたら太っちゃうでしょ?だから、一緒にエクセサイズしない?」
ソファーに私を縫い付けて、バスローブの紐を緩める必要性を私は感じませんよ?
「忍さん!!」
「ケータリングが来るまで時間がまだあるから、今度は芽衣が気持ち良くなってよ。それならいいでしょ?」
「そう言う問題じゃないです」
慌てて答えて目線を初恋ショコラに移した。そんな私の行動に忍さんの瞳に妖しい光が宿った事をまだ私は知らない。
「ねえ?芽衣。ケーキとぼくのキス、どっちが好き?」
「今はケーキ。疲れたから甘いものが欲しいの」
「ふうん、分かった。俺は芽衣とのキスが欲しいから、欲張る事にするよ」
ローテーブルに置いていた、初恋ショコラを一匙分口に入れてから食べられそうな位に荒々しいキスをする。なんでこうなるの?どこが忍さんのスイッチなの?もう!!本当に理解できない。
「分かった?俺、甘いもの苦手だけど、芽衣と一緒に食べれば食べられるから……諦めてね」
その宣戦布告の後に、忍さんにこれでもかって位に愛されてしまって、ピザが届いても食べる事が出来たのは翌日の朝になってしまったのでした。
「忍さん!!」
「大丈夫。今日は外回りできる様に配慮はしたよ。俺ってば偉くない?」
「偉くありません。おバカさんです」
「しかたないじゃん。芽衣の事好きなんだもん。だから諦めてよ。今夜も一杯愛してあげるから」
「もう……いいです。今夜は無理です」
「明日は、財務管理初日だし内勤だから大丈夫。ランチは一緒に行くからね。楽しみだなあ」
今日の仕事はどうするんですか?って聞きたくなる位に忍さんが浮かれているのを私は茫然と見つめるしかないのでした。
なろうだろうが、月だろうが忍ちゃんは通常運転です。嫌……そこは自重しようよ(笑)