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なんちゃって文学もの

先輩と僕

作者: ユリイカ

 本作には家族を失う話が含まれます。

 湿った空気と灰色の雲を残して、夏はあっという間に過ぎようとしていた。

 そんな季節を移したかのようなしかめっ面の少年が、彼女の隣に腰を下ろす。頭上にある窓の向こうでは雨が降っている。土曜日の放課後の教室に人影はなく、渡り廊下のほうから聞こえる木管楽器や金楽器の音色が酷く愉快げに少年を逆撫でしていた。腹の中で煮えたぎっていた怒りの泡が大きく跳ねる。学ランの襟についた黄金色のボタンが鉛のように重さを持つ。浅い呼吸を繰り返しながら、いつの間にか握っていた手のひらが汗で濡れているのを感じた。


 と、横から声がした。囁くのとも違う、小さな声だ。隣に聞こえるのもやっとの、もしかしたら誰かに聞かせる気さえないのかもしれない。それでも少年が拾ってしまう声だった。


仕方ないの


 落胆というには軽いそれが空中を漂う。それはまるで古い本を閉じた拍子に漏れる気が抜けたような音。スーッと爆発寸前だった熱が冷めていく。そもそも本人が妥協だか納得だか諦めだかを下した決断に、これ以上突っ込めるほど少年の懐は広くない。だからこそ彼女のように流せず、沸点に達しもした。だか消化不良のまま胃の中に居座り続ける気体は、その後もずっと消えることは無く存在を主張する。隣に並ぶ横顔は前を見つめているだけで、何も語ってはくれない。嘆いてくれたら、愚痴を零したなら、どんなに楽だろうか。少年はただ同調すれば良いだけだからだ。しかし薄い唇は閉じられたままで、慰めることも共に誰かを罵る口実も、与えてはくれない。それなのに、こうして側にいることは簡単に許してしまう。他人の機微に疎い彼女の脳天気さも少年の苛立ちを増幅させ続けた。


 どうして?


 そう無垢な瞳が聞き返すのも分かっているだけに、モヤモヤは一向に解決せずにこころの中はもう随分と長い時間曇ったままだ。

 並んで座る床の冷たさが、布越しにじわじわと広がって首まで覆う。このまま身体中を何かに侵食され、呼吸さえも止まるのではないかと怖くなる。


 ふと冷静に振り返れば、彼女と出会ってから、一度も晴れやかな気持ちになったことがない。なんと長い梅雨なんだろう。

 仕方ないの。そう言いながら全く気落ちしない彼女の代わりに少年の精神は酷く疲れてしまった。終わらない夏休み最終日の宿題のように、それは山積みに重ねられているのだ。そして未完了のまま諦めてしまったように、彼女との関係もやり過ごしていくのだろうか。


 彼女がいつものようにお決まりの台詞を吐いた、ことの発端は三時間前に遡る。


 まだ雨が降り始める前だった。

 たっぷりと水分を含んだ雲がのろのろと空を横断する様を、廊下の窓越しに少年の眼はしっかり捉えていた。彼女を待つ時のお決まりのスタイルだ。代わり映えのない見上げた先の鼠色、じめじめと肌に張り付く空気、それから仏頂面を下げた少年が揃えば出来上がる。至極稀なはずの条件が偶然にも数日続けば、それはもはや少年にとっての日常だった。

 だから、振り出した雫に少年の心臓は何かを期待して小さく踊る。雨が降り終われば、その時この空は晴れるのではないか。漠然とした、けれど明確に何かが、あの厚い雲の向こうにある気がするのだ。ざーと主張し始めた雨音に釣られるように少年の後ろで物音がする。

 振り返れば、ガラガラと重いドアをスライドさせて生徒が1人現れた。濃紺のセーラー服に学校指定の薄いカーディガンを羽織った、三年生だ。少年の一学年上を示す白線が心臓の位置に三つ付いている。長い黒髪と白い肌。可愛いよりも綺麗が似合う、大人びた雰囲気の女子。背後に先生達の視線を背負って職員室から出てきた彼女は、すぐに向き直ると一礼をした。無駄な動作のない洗練された礼に、さらりと肩で切りそろえられた黒髪が前に流れる。どんな表情かは誰も確認出来なかっただろう。彼女の後頭部ばかり見ていた職員達は、1人として知らないのだろう。俯いた少女のその薄い唇がほんのすこしだけ、硬く引き結ばれていたことを。きっちり三秒で終わる挨拶を残して、彼女はまたガラガラとドアをスライドさせた。少年を見つけたその顔は、いつも通り無表情で能面のようだ。唇は空気を漏らすこともなくぴったりと重なっている。人形みたいに静かな表情だった。


「来てたんだ。土曜日の補修は三年生だけだってきいてたわ。」


「部活の帰りですよ、先輩。」


「あなた、幽霊部員じゃなかったかしら。」


「…今日は意地悪ですね、先輩。」


彼女は声をあげて笑わない。口角をあげることも、目尻にしわを寄せることもない。けれど、少年は彼女が笑っていることを知っていた。人形のような彼女のささやかな微笑み。 不器用で儚くて、今にも消えてしまいそうだった。



 少年は知っていた。

 彼女が両親を交通事故で失くしたこと。

 大学への進学を諦めて就職すること。

 クラスメイトの心無い噂話。


 彼女がたった一人ですべてを決めてしまうこと。



「先輩、少し話しませんか。」



 仕方ないの

 きっと理由も語らずにそう彼女はそれだけを告げるだろう。


 それでも、彼女の声を聴くために、少年はその隣に腰を下ろした。

 空き教室の窓の外で雨が白銀の無数のやりのように振っていた。雨は暫くやみそうになかった。












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