少年
風が砂を運ぶ。
太陽が地を焼く。
人は苦悶する。
悪は悪でなく正義。
人の苦悶を餌に誰かが肥大化する。
貧富の、差。
豊かな者が貧しい者を喰らい、さらに肥える。
貧しい者は豊かな者に喰われ、さらに衰える。
最悪の時代。
最悪の世界。
その世界に、天国はなく。
その世界に、地獄はなく。
その世界に、この世界よりマシなモノはない。
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肌を削る太陽と風。
その中をボロ布を纏った少年が駆ける。
その姿は風。
胸にしっかりと抱きしめた一斤のパン。
それが彼の命であった。
少年は天涯孤独。
戦争に両親を奪われ、一人。
「金と身分の無い人間は人間にあらず」
それがこの世界共通絶対の価値観。
「人は皆平等」
それはこの世界共通絶対の偽りの言葉。
故に、少年は思う。
今より彼が幼かった頃母親に聞かされた御伽噺。
善行により導かれる天国。
悪行により導かれる地獄。
どちらにしたところで、この世界以外に連れて行ってくれるのなら、喜んで差し出された手を取ろう。
その為になら、他人だって殺せる。
少年は周囲を見回して追っ手がいないのを確認する。
その姿は年相応のものではない。
硬いパンを食いちぎる。
鉄の味がした。
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今日も、彼は自分の命を賭けてパンを盗みに道を駆ける。
誰も彼を捕まえることなど出来ない。
ましてや、他人の命を喰らい醜く肥った者になど。
そして今日も、彼は見事に命を繋いだ。
いつもより厳しい追跡だった。
無我夢中で走った彼は、知らない場所に居た。
それは裕福なモノが巣くう場所。
この都市の中枢。
全てのニンゲンが彼を汚らわしい者を見た、と去っていく。
全身泥水に汚れ、彼等が捨てるようなパンを大事そうに抱えている少年。
裕福なモノには特別汚らわしく写った。
同じように、少年も彼らを同じ目で見る。
場所を都市の端から中心に変え、少年は今日の命を明日へ足して行く。
いままで居たところよりここはやりやすそうだった。
居るニンゲン全てが愚鈍に見えた。
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楽だった。
今までの数倍上等なパンを貪る彼は思う。
鉄の味も、泥水の味もしない。
腐肉を喰らい、生き血を啜った頃に比べればここはまるで……
その考えを振り払う。
真昼の月がその姿を、嗤った。
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彼は殺人の経験が無い。
だが、何をどうすればヒトが殺せるのかは熟知している。
始まりは朝。
パンを盗みに風になったときである。
馬に引かれる牢獄を見たのだ。
その中に詰め込まれた人間。
その一人に彼は呑まれた。
初めて、他人の為に何か行動を起こそうとしていた。
彼は……恋をした。
普段、彼を見るものは己が目を疑うだろうか。
風のような面影は一切ない。
涙でぐしゃぐしゃな顔。
遅々とした歩の運び。
両腕で惨めに引きずる、剣。
その剣は既に刃物としての役割を終えていた。
ただの鈍器。
それが彼に盗める精一杯の存在だった。
誰が見てもその切れ味は無い。
それでも、人々は彼を止められない。
誰が彼を止められるだろう。
仮に、誰かが彼を止めたところで彼が従うだろうか。
声を掛ければ、間違いなく彼はその鈍器を振りかぶる。
腕を掴めば、躊躇い無く彼はその鈍器を振り下ろす。
彼はヒトの業で積み上げられた坂を登る。
声を掛けてきた何かに鈍器を振り上げた。
腕を掴んできた何かに鈍器を振り下ろした。
頭。腐ったトマトをうっかり落としてしまった光景を思い出した。
首。踏みおられた花と同じだった。
腕。昔食べた蛇の味が舌の上に広がった。
胴。最近見た噴水というものを彷彿させられた。
足。生まれたばかりの四足の動物が頭をよぎった。
目に映るもの全てを否定して、破壊して、殺害していくこの世界の風、その体現。
荒れ狂う悪意。害悪。
最悪の、根源。
蹴破ったドアの向こうに、少女は居た。
そばには醜く肥ったニンゲンが。
風の彼に、ここで何が行われていたのかは理解できない。
その知識、その穢れ、その濁りは無い。
しかし、その肉塊は違う。
なぜこの肉塊は何も纏っていないのか。
――、少年に理解は出来ない。
この鼻につく嫌悪感を呼び起こすものの正体。
――、彼に理解は出来ない。
肉塊が何を喚いているのか。
――、風たる彼に、ニンゲンの吐く語など理解できるはずが無い。
腕がどうなろうとよかった。
潰す。
この肉塊をただひたすら潰す。
そうすれば、きっと……きっと。
少女に流れる赤と白。
純白を汚された肌を絡める鎖。
濁った瞳。
無表情に泣き、
無表情に笑う。
無表情に。
恋することを知ってしまった少年。
少女の為に走った彼。
そうして風は、一度纏うボロ布で穢れた刀身を拭う。
錆びの浮いていた刀身に写る、風。
壊れた器に錆び付いた剣を振り下ろす、恋する少年。
潰れた、腐った、真赤なトマト。
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屋敷の食料を貪る。
どれを口に入れても、塩気が強かった。