前編
『2年3組、山口くん。2年3組、山口くん。至急、職員室まで来てください』
教室中に響いていたシャープペンシルを走らせる音が一斉に止み、クラスメイト達の視線が教室の中央に集まる。
その中でただ一人、山口だけは顔を上げて黒板右上のスピーカーを見つめていた。
僕の席は彼とスピーカーの対角線上に位置しているからその表情までは読み取れないが、汗ばんだ坊主頭の向こう側では、きっと苦虫を噛み潰してるだろう。
「お前なにしたんだよ」
「退学かぁ?」
「んなわけねぇだろ。なんもしてねぇ――と、思うんだけど……」
にやけ面の男子に茶化されて、山口の語気は尻すぼみになっていく。
行ってみれば大したことじゃないのだろうけど、校内放送で名指しの呼び出しなんてされた日には、不安やら気恥ずかしさやらで心穏やかじゃいられないだろう。
「……だるいわぁ」
独り言にしては大きく、クラスメイトに向けた言葉にしては小さく、山口はそう吐き捨てて、一度も振り向く事なく教室を出ていった。
筋肉質で広いはずのその背中は、肌に張り付いたワイシャツから透ける黒のタンクトップが相まって、とてもとても小さく見えた。
グッドラック、山口。
なんて、心の中で心にもないエールを送った途端、教室はざわめきだした。
各々好き勝手に、あーでもないこーでもない、あれかそれかと色めきだっている。
「山口どうしたんだろ。橘、なんか知ってる?」
僕の周りも例外ではなく、隣の席に座る小倉紗耶香もコソコソとそんなことを聞いてくる。
「いや、僕はなにも――」
言いかけた瞬間、「はいはい」と手を叩きながら一人の女子が立ち上がる。
「そこまでにしましょ。騒いでると私たちまで呼び出しを喰らうわよ」
山口の右斜め後ろの席。
おさげ頭の眼鏡女子。
学級委員長、片桐由依である。
彼女はそのまま僕の方へ振り向くと、「橘くん」と、いつも通りの冷たい視線を向けた。
「あなた副長なんだから、しゃんとしなさい」
そう言って彼女が着席すると、クラスにクスクスと小さな笑いが溢れる。
前の席の木島がニヤニヤしながら振り返り「怒られてやんの」と冗談めかして囁く。
小倉も笑いを堪えるように唇を噛み締めながら、片手でごめんごめんとジェスチャーを送ってくる。
相変わらずクラスを律するのが上手いが、僕を出汁にするのは勘弁してくれ。
静寂が戻った教室には再びシャープペンシルを走らせる音が鳴り始めたが、僕はすぐに筆を取る気にもなれず、頬杖をついて黒板を眺めた。
『夏期講習』
大きく書かれた最悪の四字熟語だ。
その下には時間割り、そして『勝手に出歩かないこと』と、担任が僕らをどう見ているかよく分かる注意書きが記されている。
まぁ、出歩きたくもなるか。
半強制参加の夏期講習の為にクラスメイト全員が夏休み返上で登校し、午前中だけとはいえプリントによる少なくない課題を与えられている。
夏期講習と言いつつ講習はしないあたり、勘違いした地方の進学校らしい。
「……はぁ」
思わず出た溜め息は、誰の耳に届くこともなく、空調の効いた教室内に溶けていく。
照らしつける熱い日差しと、微かに聞こえる蝉の声が、この教室とは別世界のように思えた。
* * * * * *
『2年3組、浅井さん。2年3組、浅井さん。至急、職員室まで来てください』
ジジジ――。
スピーカーが咳払いをするような耳障りな音で始まり、プツリと切れた放送。
廊下側の最前列、浅井さんは顔を上げてスピーカーに注視しているようだ。
「めんどくさ」
静まる教室内に椅子を引く騒音だけが響き、彼女は短いポニーテールを揺らしながら立ち上がる。
彼女はわざとらしくため息をついてドアを開き、暑さに歪む廊下に出た後、後ろ手でゆっくりと閉める。
そのほんの一瞬、彼女はこちらに首を捻り、恨めしそうに教室内を睨んでいた。
クラスは静寂に包まれる。
もう誰もシャープペンシルを走らせるどころか、プリントすら見ていない。
ただ一人、委員長を除いて。
「どうなってるんだ……?」
教卓の目の前に座る志島が訝しげに呟く。
異様な空気に包まれる教室の中で、時計の秒針だけが変わらずに時を刻んでいた。
11時34分。
最初に呼び出されたのは、確か山口だったか。
あの時、時計を見ていたわけではないけれど、確か1時間ほど前だったはずだ。
彼――いや彼らは、休み時間が終わっても、今に至るまで教室に戻ってきていない。
「……なんかあったのかな?」
普段はうるさい金髪のギャル、佐伯杏樹が神妙な面持ちでそう訊くが、何度目かも分からないその問いに答える者は誰もいない。
男子15人、女子19人。
合計34人いるはずの教室に残っているのは、僕を含めて残り7人。
前の席の木島も、隣の席の小倉も、この1時間の間に教室を出たきり戻っていない。
「やっぱおかしくない!? なんでみんな帰ってこないの!?」
佐伯は立ち上がり、机をバンバン叩きながらそう叫ぶと、首を捻って僕を見る。
青ざめた顔だが、額は汗に湿っている。
「橘……アタシ、職員室行ってくる!」
「え? あ、ああ――」
「駄目」
ピシャリと、冷たい声。
さっきまで課題に取り組んでいた委員長が身体ごと後ろを向き、佐伯と僕を交互に睨む。
「なんで!? この状況どう考えてもおかしいでしょ!」
佐伯はそう言って僕を睨んだ。
いや、僕を睨まれても……。
「……まぁ、おかしいよな」
説教が長引いているとか、何か別の課題をやらされているとか、そんなことを考えもしたのだが、いくらなんでもこの人数はおかしい。
「委員長、今日って面談とかあったか? 進路相談とか」
「無いわね」
「じゃあやっぱ変じゃん!」
佐伯が再び机を叩くと、委員長は大きくため息をつく。
そしてシャープペンシルを机に置いて「佐伯さん」と、脚を組んだ。
「さっきからうるさい。今すぐ座って課題をして」
「――ッ!」
声にならない声を上げる佐伯を他所に、委員長は再び課題に戻る。
立ち尽くしたまま小刻みに震え、委員長の背中を睨むが、当の本人は気に留める様子もない。
どうすんだよこの空気。
「佐伯、一旦座って……あ、ほら、ポカリ飲むか?」
ペットボトルをちゃぷちゃぷ揺らす。
そして自分でも分かるほど引き攣った笑顔を浮かべると、佐伯は言葉を飲み込みながらもどかっと座り直した。
「……飲む」
両手を広げて早く寄越せとジェスチャーする彼女にペットボトルを軽く投げると、見事に片手でキャッチする。
遠慮のかけらもなくぐびぐびと喉に流し込み、ほとんど空になったペットボトルを投げ返した。
「……あんがと」
「どういたしまして」
思わず笑みをこぼした僕に、佐伯も少しだけ頬を緩ませながら手を払うように動かして机に向き直る。
彼女の更に奥、廊下側の最後列の村上さんと目が合うと、彼女は両手を少し上げて、やれやれとおどけてみせた。
志島も、僕の2つ前に座る真田も、その斜め前の甲斐田さんも、小競り合いが収まったことで安心したのか、課題を再開していた。
帰ってこないクラスメイト達のことはやはり気になるが、何が出来るわけでもあるまい。
ペットボトルに残った最後の一口を飲み干して、僕もシャープペンシルを掴んだ。
その時だった。
ジジジ――。
また、あの音がした。
『2年3組、佐伯杏樹さん。2年3組、佐伯杏樹さん――』
「いやぁっ!」
音をかき消すかのように、佐伯が叫ぶ。
スピーカーに向けていたその顔をゆっくりと僕に向けると、今にも泣きそうな顔で首を振る。
「ど、どうしよう……? アタシ……」
「いや、行きなさいよ。職員室」
どうしようもこうしようもないでしょう。
と、委員長が冷たく言い放つ。
「よかったじゃない。行きたかったんでしょ? 職員室」
その言葉が響いた後、教室は今日一番の静寂に包まれる。
心臓の音だけが、やたらとうるさかった。




