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ユースティティアの天秤―均衡の番人は揃わない―  作者: 野塩いぜ
第一章 硝子の箱庭と目覚めの鐘
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第七話 残酷な行進

 正午、黄昏の館のエントランスホール。吹き抜けの天井から差し込む光が、舞い上がる塵を照らしていた。センリはヴァラク率いるトレジャーハンターの集団に紛れ、柱の影で息を潜めていた。薄汚れた作業着。顔には泥と煤。これなら、自分の素性は気づかれないはずだ。


 ギーッ……。


 重厚な正門が、何もないのに独りでに開いた。


「――来たぞ、化け物だ」 


 誰かが息を呑む。 現れたのは、怪物ではなかった。それは、この世のものとは思えないほど美しい一組の男女だった。 黒いローブを纏った透き通るような肌の青年。そして、その男に寄り添う女性。


「……ッ、」 


 センリは、喉の奥で何かが裂ける音を聞いた。

 ウルリカだ。だが、彼の知るウルリカではなかった。

 いつも不機嫌そうに眉間に刻まれていた縦皺が、今日はない。革手袋の下に隠れていた古傷だらけの指が、アレクセイの腕に柔らかく添えられている。背負った剣さえなければどこの貴婦人かと思うほど、上品で美しい姿。

 センリは思わず、自分の掌を見た。彼女に引っ張られたコートの裾。怒鳴り合いながら背中を預け合った夜。その記憶が、今の光景と激しく衝突して、胃の底に重く沈む。


(笑ってる)


 センリには一度も見せたことのない顔だ。いや、正確には——自分が引き出せなかった顔だ。それが偽物だと分かっていても、その事実はひどく醜い形でセンリの胸に刺さったまま抜けなかった。


「きれいだね、ウルリカ。ここのシャンデリアも、君の前じゃ霞んで見える」

「ふふっ。上手ね、あなた」 


 二人は談笑しながらセンリの目の前を通り過ぎていく。その距離、わずか数メートル。だがウルリカはセンリを見ても何の反応も示さなかった。ただの背景として処理したのだ。


(……ふざけるなよ) 


 センリの爪が壁の石膏に食い込む。覚悟はしていた。洗脳されていることも、花嫁として扱われていることも。だが実際にその光景を見せつけられると、腹の底が焼けつくように痛かった。


***


 館の奥へ進むにつれ、次第にトラップが牙を剥き始めた。石像が動き出し、床が抜け、炎が噴き出す。 だがアレクセイはその中を散歩でもするかのように歩き、視線を向けるだけでそれらを無力化していった。 

 アクシデントが起きたのは、アレクセイが落ちる天井を止めた時だった。止められた天井が魔法の威力に耐えきれず崩壊し、センリとアレクセイ、そしてウルリカのグループが、他のハンターたちと分断されたのだ。


「君、逃げ遅れたの?」 


 瓦礫の向こうで、アレクセイがセンリに気づいて首を傾げた。センリは逃げ遅れた哀れなハンターを演じるべく、咄嗟に両手を挙げた。


「 助けてくれ! 俺はただの荷物持ちなんだ!」

「大丈夫だよ。……ねえ、見て。このゴーレム、かわいそうに」 


 アレクセイは、瓦礫の向こうから迫りくる巨大な石の番人を指差した。番人は腕が欠け、狂ったように暴れている。


「痛いんだね。壊れてるから、暴れるしかないんだ。……直してあげる」


 アレクセイの緑の瞳が妖しい光を帯びる。すると凶悪なゴーレムの全身から花が咲き乱れ、石の身体が柔らかな泥人形へと変わっていった。敵意が消え、ただの人畜無害なオブジェになる。


「……ほら、よくなった。これが正しい姿だ」


 アレクセイは満足げに微笑む。センリは、その光景に戦慄した。 彼は破壊したのではない。直したのだ。暴力的な存在を、自分の都合のいい、無害で美しいものへと。


(こいつ……悪気がないのか?)


 センリは悟ってしまった。この魔術師にとって、ウルリカの洗脳もこのゴーレムを止めるのも、同じことなのだ。その純粋すぎる善意が結果として他者の尊厳を奪っていることに、彼は気づいてすらいない。


「君も気をつけてね。この館は、寂しがり屋が多いから」 


 アレクセイはセンリに優しく声をかける。その無垢な瞳を見て、センリの中に複雑な感情が渦巻いた。憎い。相棒を奪った怪物が憎い。だが同時に、そんな風にしか世界と関われないこの孤独な怪物に、どうしようもない憐れみを感じてしまった。


「……ああ。ありがとうよ、坊ちゃん」 


 センリは礼を言いながら、背中で拳を握りしめた。 許してはいけない。その優しさこそが、猛毒なのだから。


「素晴らしい! いやあ、感動しましたよ魔術師様!」

 

 静かになった空間に大仰な声が響く。その声の主はヴァラクだった。派手なコートをまとって近付いてきた男を、アレクセイはきょとんとした顔で見つめる。


「……誰?」

「あなたの味方ですよ、魔術師様」

 

 センリから見れば胡散臭いことこの上ない笑顔も、アレクセイにとってはただの親し気なふるまいだ。一瞬の緊張はすぐに溶け、話を聞く姿勢になってしまっている。


「私はただの美術商です。……美しいものが大好きな、ね。特にあなたたちのような素敵な夫婦には感動すら覚える」


 ヴァラクは大げさに感嘆のため息をつき、ウルリカを褒め称えた。


「素晴らしい。これほどの美貌、並の宝石では霞んでしまう。……旦那様、あなたもそう思うでしょう?」

「うん。ウルリカは世界一だよ」

「でしょうとも! ならば、贈り物も世界一でなくては失礼だ」


 ヴァラクは言葉巧みに、アレクセイのおままごとに入り込む。


「この館の最深部には、黄昏の秘宝と呼ばれる伝説の宝石が眠っています。……それこそが、彼女にふさわしい」

「宝石……そう、僕、ウルリカにアクセサリーを贈ろうと思ってて」

「ならばなおさら黄昏の秘宝が相応しい! ……ですが、そこまでの道は険しい。私のような凡人には辿り着けない」


 ヴァラクは芝居がかった仕草で頭を下げた。


「どうでしょう? あなたのような強大な魔術師様が、道を切り開いてくださるなら……私が案内役を務めましょう。お二人の最高の記念日のために、及ばずながら協力させていただけませんか?」


 アレクセイの表情がぱあっと明るくなる。彼は知らないのだ。この男が、ただ罠除けと荷物持ちを探しているだけだということを。彼はただ、自分たちを祝福してくれる善人が現れたと信じ込んだ。


「……ありがとう、おじさん! 貴方はいい人だね!」

「いえいえ、困った時はお互い様ですよ」


 ヴァラクは満面の笑みで、アレクセイの手を握った。その背後で、荷物持ちに変装したセンリが、冷ややかな目で見ているとも知らずに。


***

 

 これまで誰も辿り着いたことがなかった、最深部の大広間。 そこには、『黄昏の秘宝』と呼ばれる巨大な魔石が鎮座していた。


「あったよ、おじさん! すごい、本当に綺麗な赤色だ!」

「ええ、ええ! 素晴らしい! これぞ伝説の秘宝だ!」


 ヴァラクは歓喜に震えながら、駆け寄ろうとした。だが、それより早くアレクセイが手をかざす。


「でも、これじゃ大きすぎて指輪にならないね」

「は?」

「大丈夫。今、削ってあげるから」


 彼はひたすらに無邪気だった。この国宝級の魔石を、ただの「材料」として見ている。細かく砕いて、研磨して、かわいい指輪に変えようとしているのだ。


「――っ、やめろォォォッ!!」


 ヴァラクの絶叫が響く。彼は反射的に、隠し持っていた拳銃を抜き、アレクセイに向けた。  

 バンッ!  乾いた発砲音が、魔法の発動を遮る。


「……え?」


 アレクセイは目を丸くして、足元に穿たれた弾痕を見た。そして、恐ろしい形相で銃を構える《《親切なおじさん》》を見た。


「な、何をするの……? 危ないじゃないか」

「危ないのはテメェの頭だ、クソ野郎が!!」


 ヴァラクは唾を飛ばして怒鳴り散らした。もう優しい美術商の仮面はない。そこにあるのは、損失を恐れる強欲な悪党の顔だけだ。


「それを砕くだと!? 幾らすると思ってる! それ一つで小国が買えるんだぞ!」

「で、でも……指輪にしないと、ウルリカが……」

「知ったことか! 誰がテメェらのおままごとのために、金をドブに捨てるかよ!」


 ヴァラクは合図を送る。背後に控えていた部下たちが一斉に武器を構え、アレクセイとウルリカを取り囲んだ。


「いいか、化け物。……そこから一歩でも動いてみろ。その大事な女をハチの巣にしてやる」

「ど、どうして……。僕たちを、応援してくれるって……」

「セールストークに決まってんだろうが! このいかれ野郎が!」


 突きつけられた悪意。騙されていたという事実。アレクセイの顔から、血の気が引いていく。


「さあ、消えろ。その宝は俺のものだ」


 途端にシュッ、と風を切る音。ヴァラクの手下の一人がボウガンを放ったのだ。その狙いはアレクセイではなかった。背後にいた、ただの荷物持ち――センリだ。口封じか、あるいは単なる気まぐれか。死角からの矢が、センリの心臓を目掛けて飛来する。


(――しまっ、)


 センリが反応するより早く。 青いドレスの影が動いた。

 バシン、と硬質な音が響く。

 放たれた矢は、空中で叩き落とされ、床に転がった。 

 誰も、動かなかった。

 ウルリカ自身も。アレクセイも。センリでさえも。

 砂埃が、静かに降り積もる。

 ウルリカはドレスの裾を翻したまま、剣を構えた姿勢で固まっていた。その震える手が、ゆっくりと視界に入ってくる。自分でも、何をしたのか分かっていないように。


「私……どうして、彼を……?」


 その呟きは、誰に向けたものでもなかった。

 センリには分かった。思考ではない。反射だ――数えきれないほどの死線を潜り抜け、互いの背中を預け合ってきた歳月が、彼女の筋肉と神経に刻み込まれているのだ。センリに危険が迫れば、身体が勝手に動く。それはどんな魔法でも書き換えられない、魂の条件反射。


「……ははっ」 


 センリの口から、乾いた笑いが漏れた。 歓喜だ。先ほどまでの嫉妬が、黒い喜びに塗り替わっていく。見ろよ魔術師。お前の魔法も、大したことないな。彼女の心は奪えても、俺たちが積み上げてきた時間は奪えなかった。


「……ナイスカバーだ、ウルリカ」


 センリは小声で相棒に囁いた。ウルリカがハッとして振り返る。その瞳に、一瞬だけ理性の光――困惑と、懐かしさが宿った気がした。だがその一瞬の静寂を、ヴァラクの怒号が切り裂く。


「…… 野郎ども、構うな、まとめてブチ抜け! ケリをつけるぞ!」


 ヴァラクの合図と共に、黄昏の館は一瞬にして怒号と鉄の音が渦巻く戦場へと変貌した。



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