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ユースティティアの天秤―均衡の番人は揃わない―  作者: 野塩いぜ
第一章 硝子の箱庭と目覚めの鐘
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第六話 黄昏への道

 森が閉ざされてから、一週間が過ぎた。屋敷の時間は穏やかに、そして濃密に流れていた。


「ねえ、ウルリカ。やっぱり明日は僕一人で行くよ」


 天蓋付きのベッドの上。アレクセイは、ウルリカの隣で横になっている。触れそうで触れない距離を保ちながら、彼は言葉を紡いだ。


「外の世界は怖い場所だ。君を傷つけるものばかりだ。……だから、君はここで待っていてほしい」


 それは、彼の心からの願いだった。大切な宝石を、泥の中に持ち出したくない。だがウルリカはすぐに首を横に振った。


「いいえ、アレクセイ。私も行く」

「でも……」

「貴方を一人にはさせない。……私が守る」


 その瞳には、かつてないほどの強い意志が宿っていた。それは洗脳による従順さではない。彼女が元来持っていた守る者としての誇りだ。ただその矛先が、家族や相棒からアレクセイ一人へと書き換えられているだけ。


「……ウルリカ」

「貴方は優しい人だから、きっと悪い人が寄ってくる。だから私が剣になる。……だめ?」


 母性すら感じさせるその言葉に、アレクセイは胸を打たれ、瞳を潤ませた。


「……嬉しいよ。君がそこまで僕を思ってくれるなんて」


 彼は知らない。彼女のその強さこそが、いつか自分を断罪する刃になることを。アレクセイは幸せそうに微笑み、シーツをそっと引っ張った。


「分かった。一緒に行こう。……二人なら、何も怖くないね」


***


 都市部の高級ホテル、最上階のラウンジ。 紫煙とアルコールの匂いが漂う薄暗い空間に、場違いなほど軽い男の声が響いた。


「いやあ、奇遇ですねえ。こんなところでヴァラクさんとお会いできるなんて」


 センリはグラスを片手に、革張りのソファへ勝手に腰を下ろした。対面に座るのは、派手な毛皮のコートを着た男、ヴァラク。表向きは美術商だが、その裏では非合法なトレジャーハントを主催し、ハンターたちを死地に送り込んで利益を吸い上げる悪徳ブローカーだ。


「……あァ? 誰だ、テメェ」

「おや、忘れちゃいました? ハーコートの者ですよ。ほら、昔親父の誕生パーティで、偽物の壺を売りつけに来たでしょう?」

「ユースティティアの執行官殿が、何の用だ? 俺たちはまだ一線は越えてないぜ」


 ヴァラクの手が懐に伸びる。 だが、センリは両手を挙げて制した。


「ストップ、ストップ。今日は仕事じゃありませんよ。見ての通り、ただの休暇中の暇人です」

「休暇だァ?」

「……ええ、あくまで個人的な商談に来たんですよ」


 センリはテーブルに一枚の写真を投げ出した。マダム・マーガレットから送られてきた極秘データの一部。森の中で撮影された、アレクセイの姿だ。

 

「単刀直入に言います。一週間後、黄昏の館に、マスターキーが現れます」

「……何?」

「本物の魔術師ですよ。彼なら、館の即死トラップも結界も、散歩道みたいに素通りできる」


 センリは氷の音をカランと響かせ、ヴァラクの目を覗き込んだ。


「なのに組織の上層部は臆病風に吹かれてね。『彼を刺激するな、遠巻きに監視しろ』だとさ。目の前に数十億の価値がある、生きた兵器が転がってるのに」


 忌々し気に吐き捨てる。ヴァラクのような悪党は、組織への不満や現場の独断という話に弱い。案の定彼は興味深そうな顔でセンリを見やった。交渉のテーブルにはつけたと思っていいだろう。

 

「組織を出し抜いて、こいつを売り飛ばしたいのか?」

「半分正解です。俺は、館の奥にある竪琴が欲しい。個人的なコレクションにね。……でも、魔術師は要らない。管理が面倒だ」


 ヴァラクの目がいやらしく光る。センリは関心を引けたことを確信し、一気に畳みかけた。

 

「それにあなた方が喉から手が出るほど欲しがっている黄昏の秘宝……彼を先導役にすれば、簡単に手に入りますよ」

 

 センリはヴァラクを覗き込み、悪魔の提案を口にする。


「取引しませんか? 俺が魔術師の行動パターンと、館のセキュリティ情報を流す。……その代わり、あなたが彼を確保して連れ去ってくれ。黄昏の秘宝も一緒に持っていけばいい。その後で、俺は悠々と竪琴を回収する」

「……なるほど。ウィンウィンってわけか」


 ヴァラクが乗り気な顔を見せる。だが、まだ足りない。センリはここで、彼を現場に引きずり出すためのトドメを刺す。


「ただし、条件がひとつ。……ヴァラクさん、あなた自身が現場で指揮を執ってください」

「あァ? なんで俺が。部下にやらせりゃいいだろう」

「無理ですよ。相手は本物の魔術師だ。力尽くで抑え込もうとすれば、館ごと消し飛ばされます。ただ、付け入る隙はある。他でもない、あなたになら」

 

 センリはヴァラクと目を合わせ、にやりと笑った。


「以前、彼と接触したんですがね。彼は侵入者を殺さず、ガラスケースに入れて丁寧に送り返してきたんですよ。まるで、壊れ物を扱うように」

「……は?」

「つまり、彼には殺意がない。社会の常識も、悪意も知らない。ただの強力な力を持った引きこもりです。必要なのは暴力じゃない。……あなたのような言葉巧みな大人の交渉術だ」


 それは、センリが現場で感じた違和感と、組織のデータを統合した結論だった。 圧倒的な力と、歪な精神年齢。 そこに付け入る隙がある。


「彼が館の最深部で宝を見つけた瞬間、あなたが保護者として現れればいい。きっと、宝ごとあなたの手駒になります」


 ヴァラクの顔に、隠しきれない欲望が浮かぶ。自尊心と損得勘定。その両方を刺激された顔だ。自分の手腕ひとつで魔術師という力も伝説の秘宝も手に入ると吹き込まれれば、この強欲な男が食いつかないはずがない。


「……フン。違いねぇ。ウチの馬鹿どもじゃ扱いきれないだろうな」


 ヴァラクは葉巻を揉み消し、獰猛に笑った。


「いいだろう、ハーコートの坊ちゃん。その話、乗った」


 商談成立だ。立ち上がったヴァラクが声をあげる。


「野郎どもを集めろ! 黄昏の館でピクニックだ! 極上の案内人が来るぞ!」


 ラウンジが俄に活気づく。 センリはグラスに残った酒を飲み干し、氷を噛み砕いた。 ガリッ、と硬い音が口の中で響く。


(……釣れた)


 これで役者は揃った。


 魔術師アレクセイ。

 詐欺師ヴァラク。

 そして組織の命令を無視して動く、休暇中の執行官。

 センリの目的は、ヴァラクたちを囮にして混乱を作り出し、その隙にウルリカを奪還すること。そして――


(見ててくれよ、ウルリカ。……他人を好き勝手に利用するのがどういうことか。一番醜悪なサンプルを、あの魔術師に見せつけてやる)


 センリは不敵な笑みを浮かべ、席を立った。相棒を救うためなら、泥にまみれる覚悟はとうにできている。


 一週間後の決戦に向け、賽は投げられた。


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