第五話 ガラスの城
「待機? ふざけるな! ウルリカが中にいるんだぞ! 今すぐ突入班を寄越せ!」
『落ち着きなさい、センリちゃん』
上司であるマダム・マーガレットの声は、氷のように冷徹だった。
『状況が変わったわ。先ほど、結界内部から組織への不可侵条約の打診があったの』
「……は?」
『魔術師側からの要求はひとつ。「我々の聖域を侵すな。さすれば、今後一切の災害を起こさず、世界の均衡を乱さない」と。……非常に理性的な提案よ』
センリは耳を疑った。理性的? ウルリカを奪った怪物が?
「代償は!? 向こうは何を要求してるんですか!」
『……花嫁よ』
通信の向こうで、マダムが短く息を吐く気配がした。
『彼は、ウルリカ・シュミットを求めた。彼女一人を差し出せば、魔術的脅威が永久に沈静化する。……天秤の計算では、これ以上ない黒字よ』
「ふざけるな……! ウルリカは物じゃない! 貴女の部下だろう!」
『ええ。だからこそ、名誉ある任務として処理するわ。彼女の階級は二階級特進。家族には十分な年金が――』
「――金の話をしてるんじゃない!!」
センリは雪原に響き渡る声で叫んだ。喉が張り裂けそうだ。だが、組織の論理は揺るがない。
『命令よ、センリ・ハーコート。直ちに撤退しなさい。これ以上の干渉は、組織への反逆とみなします』
『繰り返す。直ちに撤退を――』
ブツン。センリは通信機の電源を切った。そのまま勢いよく雪に叩きつけようとした寸前、再び着信ランプが点滅する。
マダム・マーガレットからだ。センリは舌打ちをしつつ、最後に残った理性で通話ボタンを押した。
「……まだ何か? もう俺は辞表を出す気満々なんですが」
『感情的にならないで、センリちゃん。……これは公式な命令の続きよ』
マダムの声は、先ほどよりも少しだけ低く響いた。
『先ほど、魔術師アレクセイ・イズマイロフとの協定が成立したわ。彼は我々の管理下に入り、今後、組織の要請に応じて危険なアーティファクトの回収に協力する。……その代償として、我々は彼のプライバシーに干渉しない』
「……つまり、ウルリカを人質に差し出したまま、彼を便利な道具として使うと?」
『言葉を選びなさい。これは平和的解決よ』
センリは乾いた笑い声を上げた。平和的解決。誰にとっての? 少なくとも、ウルリカにとってではない。センリの相棒が、そんな扱いを受け入れるはずがないのだ。
『――ただし』
マダムが言葉を区切る。 ここからが本題だと言わんばかりに、声のトーンが低くなった。
『彼には早速、最初の仕事を依頼したわ。……場所は黄昏の館。亡き大魔術師が遺した、未踏の地下迷宮よ』
「……第三種指定の遺跡か。許可を出したんですか?」
『ええ。最深部には現代技術では解析不能な罠が張り巡らされているけれど……本物の魔術師である彼なら突破できるはず。彼は1週間後の正午に現地へ向かう。伴侶のためにね』
センリの眉がピクリと動く。伴侶。ウルリカのことか。
『彼はそこで、組織が指定した遺物の回収を行う。……それと、花嫁への特別な贈り物も探すそうよ』
「……ずいぶんと、優雅なショッピングですね」
『ええ。組織としては、彼が任務を遂行すればそれでいい。……現地には無許可のトレジャーハンターも多数潜り込んでいるわ。混乱に乗じて、何が起きても不思議ではない』
マダムはそこで一瞬言葉を切り、わざとらしいほど事務的な口調で続けた。
『センリ・ハーコート。貴官には現在、待機命令が出ている。……だが、もしも貴官が独断で現地へ向かい、トレジャーハンターとして紛れ込み、偶然にも魔術師と接触してしまったとしても……我々は関知しない』
「…………」
『これは極秘情報よ。……現地へのアクセスコードと、屋敷の構造データを転送したわ。……見なかったことにしなさい』
プツリ。今度こそ、通信は一方的に切れた。直後にセンリの端末が震え、膨大なデータが送られてくる。それがマダム・マーガレットなりの誠意だった。
「……ははっ、相変わらず食えない人だ。ギャンブラーにもほどがある」
センリは口元を歪め、端末を強く握りしめた。公式には、組織は動かない。だが、情報はくれた。場所と時間、そして敵の隙を教えてくれた。
「1週間後の正午。黄昏の館。……上等だ」
センリは雪の中で立ち上がる。 その瞳から、迷いは消えていた。
「結婚祝いを渡しに行かなきゃな。……思い切り派手なやつを」
***
一方、閉ざされた森の屋敷。 アレクセイは、鏡の前に立つウルリカを愛おし気に眺めていた。
「うん、素敵だ。よく似合ってるよ、ウルリカ」
彼女が纏っているのは、古風だが品のあるドレス。アレクセイ自らウルリカの体格に合わせて仕立てたものだ。 ウルリカはとろんとした瞳で鏡の中の自分を見つめ、こくりと小さく頷いた。
「……ありがとう、あなた」
「次は君に似合うアクセサリーを用意するからね。いい場所を教えてもらったんだ」
アレクセイは無邪気に笑う。彼は本気で信じているのだ。組織との取引によって、自分たちの平穏は保証されたのだと。もう誰も、僕たちの邪魔をする者はいないのだと。
「怖いものは何もないよ、ウルリカ」
「ええ。……愛してる、アレクセイ」
ウルリカが微笑む。 その笑顔は硝子細工のように美しく、そして作り物めいていた。




