第四話 選ばれた花嫁
世界が、解けていく音がした。 それは布を裂く音にも、ページをめくる音にも似ていた。屋敷の最上階、星見の塔。天井のガラスドーム越しに星空が降り注いでいる。床には複雑怪奇な魔法陣が描かれ、その中心でアレクセイは歌うように言葉を紡いでいた。
「――星の巡りは正しく。運命の糸よ、ここに」
彼の手には、一冊の古びた本。白紙のページが風もないのにパラパラとめくれている。その周囲には、砕いた宝石の粉末や、幻獣の体液といった希少な触媒が浮遊し、光の粒子となって溶けていく。
ウルリカは、その光景をぼんやりと見ていた。逃げなければならない。剣を抜かなければならない。 頭の片隅で警鐘が鳴っているのに、体が動かない。……いや、動かす理由が見つからない。
「ウルリカ」
アレクセイが本を閉じ、こちらを振り返る。 その緑色の瞳と目が合った瞬間、彼女の世界が揺らいだ。 違和感が雪解け水のように消えていく。
「ごめんね。世界がちょっとだけ間違っていたみたいなんだ」
彼は申し訳なさそうに微笑みかけた。その顔が、とてつもなく愛おしいもののように感じられる。
「君が僕を知らないなんて、おかしいよね。僕たちはこんなに惹かれあっているのに」
「……ああ」
そうだ。おかしい。ウルリカは彼を知っていた。ずっと前から。この森で彼と共に生きることを望んでいたはずだ。外の世界で戦っていた記憶が、遠い夢のように霞んでいく。センリという名前が、誰だったのか思い出せない。ただの通りすがりの他人だった気がする。
「これが正しい姿なんだ。……やっと、直せた」
アレクセイが安堵の吐息を漏らす。それは、本の誤字を修正した校正者の顔だった。
「愛してるよ、ウルリカ」
「……私も」
自然と、言葉が零れる。何の疑問もなかった。それが世界の理であるかのように。
ウルリカの背負っていた剣が、鈍い音を立てて床に落ちた。
***
ドサッ!
気が付けばセンリは、雪の上に投げ出されていた。
「――っ、痛ってぇな!」
受け身を取って跳ね起きる。周囲を見渡せば、そこは見覚えのある村外れの雪原だった。森から追い出されたのだ。それも怪我ひとつさせず、丁寧にお帰り頂いたという扱いだった。
「ふざけんなよ……! 俺だけお客様じゃないってか!?」
センリは雪を蹴り飛ばした。悔しさが腹の底で煮えくり返る。ウルリカだけが取り込まれた。あの森は、魔術師は……彼女を選び、センリを異物として吐き出したのだ。
「ああ! あんたは!」
その時、松明を持った村人たちが駆け寄ってきた。 彼らの顔は、喜色に満ちていた。
「無事だったか!」
「……みなさん。状況を説明すると――」
「いや、言わなくていい!」
老婆がセンリの手を握りしめ、感激で目を潤ませながら叫んだ。
「お連れのお嬢さん……ウルリカと言ったか? あの娘、魔女様に選ばれたんだろう!」
「……は?」
「森が祝福しておる! 吹雪が止み、空が輝いている。これは吉兆じゃ!」
見上げれば、確かに晴れ渡った夜空に美しい光のカーテンが揺らめいていた。だがセンリには、それが世界を覆う理不尽で強大な魔法の影響に見えてならなかった。
「よかったのぅ、よかったのぅ! これで我らも安泰だ!」
「魔女様も、ようやくお相手を見つけられたのだ!」
口々に祝福の言葉を投げる村人たち。悪意はない。彼らは本気で、これが最高のハッピーエンドだと信じているのだ。 センリは拳を握りしめた。
爪が掌に食い込み、血が滲む。殴り飛ばしてやりたかった。目を覚ませと怒鳴りたかった。だが、彼らはただの一般人だ。それに何より、彼らの信仰の前では……センリの正しさなど無力だった。
「――黙ってろよ、アンタら」
センリは押し殺した声で呟き、彼らの手を振り払った。
「めでたい話があるかよ。……あれは、誘拐だ」
「なんと?」
「俺の相棒だ。誰にもやらない。……神様だろうと、魔女だろうとな」
センリは村人たちに背を向け、光り輝く森を見据えた。
「待ってろ、ウルリカ」
センリは一人歩き出した。 例え世界が書き換わろうとも、彼だけはその誤植を許さない。
***
吹雪がセンリの視界を白く塗り潰す。
方角も、足跡も、消えていく。
ああ、とセンリは思った。
この感覚を知っている。
出口のない朝が、何度も繰り返されていたあの日も——世界はちょうど、こんな色をしていた。
***
静寂に包まれたハーコート家の屋敷に、重々しい古時計の鐘が八回響いた。雨の朝だった。
何度目かも、もう数えるのをやめた朝。センリは階段の中腹で、濡れたトレンチコートを着た女が入ってくるのを待っていた。
時計の針が九時を指した直後、屋敷の正面扉が静かに開かれた。
雨風と共に、彼女が入ってくる。
「ユースティティアの天秤だ。第一種――」
「指定アーティファクトの異常波長を確認した。対象の強制破壊を行う。だろう?」
玄関ホールの階段の中腹。
センリ・ハーコートは、手すりに寄りかかりながら、彼女の言葉を先回りした。
ウルリカの琥珀色の瞳が、スッと細められる。彼女の目に映ったのは、癖のある茶色い髪をした細身の青年だった。仕立ての良いシャツを着崩し、貴族の屋敷にいるくせに貴族らしさが微塵もない。
警戒した彼女が背中に背負う剣に手をかける動作。それすらも、今のセンリにはスローモーションのように予測できた。
「なぜ、一般人の貴様が私の任務を知っている」
「君がそう名乗るのを聞くのは、これで十二回目だからだよ、ウルリカ・シュミット」
「……何?」
「ここは、昨夜から時間が閉じている。うちの果てしなき回顧録が危機を感知するたびに、今日の朝八時に強制的に巻き戻されているんだ」
ウルリカは剣の柄から手を離さないまま、油断なく周囲を一瞥した。
「戯言を。時空間の歪みは確認しているが、ループなど――」
「信じないのも無理はない。魔力による記憶の書き換えから逃れているのは、皮肉なことに俺だけのようだからね」
センリは階段を一段、ゆっくりと降りた。
「証明しよう。……三秒後、君の背後にある大時計が、わずかに遅れて鐘を鳴らす」
一、二、三。
ゴォーン、という重苦しい音が、僅かに間延びしてホールに響いた。
「五秒後、外で落雷。直後に、二階の廊下でメイドがティーカップを割る音がする」
閃光。遅れて鳴り響く雷鳴。そして微かに聞こえる陶器の砕ける甲高い音と、メイドの悲鳴。
すべてがセンリの言葉通りに進行していく。
ウルリカの表情から、明らかな敵意が消え、代わりに底知れぬ警戒心が浮かんだ。
彼女はプロのエージェントだ。目の前の現象を、ただの偶然や予知能力などではなく、より論理的な事実として受け止めようとしているのが分かった。
「……なるほど。貴様の言葉が真実だと仮定しよう」
ウルリカは背中の剣から手を離し、センリを真っ直ぐに見据えた。
「なぜ私は失敗している? 私の剣はアーティファクトの装甲すら両断する。物理的な干渉を防ぐ結界の類は張られていなかったはずだ」
「君の剣が強すぎるからだ」
センリは最後の階段を降り、彼女の目の前に立った。
「あのアーティファクトは、自身に向けられた強烈な殺気や高密度の魔力を危機としてトリガーにしている。君が斬ると意志を持った瞬間に、刃が届く数ミリ手前で防衛機構が作動するんだ。君のやり方では、永遠に明日は来ない」
「……」
図星を突かれたのか、ウルリカは不快そうに眉間にしわを寄せた。
「じゃあ、どうする。放っておけば、この区画一帯が永遠に雨の朝を繰り返すことになるぞ」
「だから、交渉しに来た」
センリは一歩踏み出し、自分より少し背の高い女剣士の瞳を覗き込んだ。
「君の剣が速くても、気配を消しきれないなら意味がない。……俺に考えがある。俺のタイミングに、君の剣を預けてくれないか?」
「初対面の、しかも戦闘力もない貴族の坊ちゃんに、私の剣を委ねろと?」
「ああ。その代わり、俺の頭脳と目を君に貸す」
センリの黒い瞳には、貴族特有の傲慢さや怯えは一切なかった。
あるのは、凍りつくような冷たい知性と、現状を打破しようとする強烈な意志だけだ。
ウルリカは数秒の間、センリを値踏みするように見つめていた。
やがて、彼女は小さく鼻を鳴らした。
「……言ってみろ。どうやってあの本に刃を届かせる?」
「俺が管理者のフリをして、日記帳に近づく。アーティファクトが求めているのは俺だからね。俺の方に集中するはずだ。君は殺気も闘気も完全に消し、ただの置物として俺の背後に立て」
センリは自らの胸ポケットから、銀色の万年筆を取り出した。
「俺のペン先が紙に触れる数ミリ手前。アーティファクトの警戒が僕のインクにのみ向けられ、防衛ラインがゼロになるコンマ一秒の隙がある。俺が合図をした瞬間に――振り下ろせ」
それは、一歩間違えれば防衛機構の爆発的なエネルギーに巻き込まれ、二人とも消滅しかねない綱渡りの作戦だった。
しかしウルリカの口元には、初めて微かな笑みが浮かんでいた。
「理解した。頭の切れるお坊ちゃんで助かる」
彼女はトレンチコートを脱ぎ捨て、黒い戦闘用スーツ姿になると、両手剣を静かに構えた。先ほどまでの圧倒的な威圧感が、嘘のように消え失せている。彼女もまた、一流の戦士なのだ。
「依頼は承諾した。……お前の名前は?」
それは、ウルリカがセンリの存在を認めたという証だった。
「センリだ」
「一発で決めるぞ、センリ・ハーコート」
静まり返った書斎。
大剣を青眼に構え、呼吸すらも周囲の空気に溶け込ませたウルリカが、鋭い視線をセンリに向けた。
「そもそもお前がそのペンで異常なしと書き込めば、ループは終わるんじゃないか? そうやって管理されてきたのだろう」
その真っ当な問いに、センリは自嘲するように笑った。
「……終わるさ。あの本は今、俺を次の管理者として歓迎しているからね。俺がペンを取れば、すべて丸く収まる」
「なら、なぜやらない?」
「一生ここから出られなくなるからだ。毎日異常なしと書き込んで、また眠る。それを死ぬまで繰り返す」
センリは手の中の銀色の万年筆を強く握りしめる。
「父が倒れた日、アーティファクトは俺を指名してきた。なぜ俺なのか、理由は分からない。ただ、この家がずっと無事に続くようにと願った魔術師の祈りが、今は俺を縛る鎖になってる」
振り返り、ウルリカの琥珀色の瞳を真っ直ぐに見つめた。
「だから、君が必要なんだ。……俺の鎖を断ち切ってくれ、ウルリカ」
その切実な声に、ウルリカは小さく息を吐いた。
彼女には、貴族の家の事情など分からない。だが、目の前の男が自分の意志で明日を掴もうとしていることだけは、戦士の本能として理解できた。
「……任せろ」
その言葉にセンリは深く頷き、そして――机へと歩みを進めた。
一歩、また一歩。
ウルリカは一切の殺気を消し、ただの影としてセンリの背後にピタリと寄り添う。
(アーティファクトの意識が、俺に集中しているのが分かる……)
机の前に立つ。
万年筆のキャップを外し、日記帳の白紙のページへとペン先を向ける。
アーティファクトが放っていた威圧感が、新しい主を迎え入れるために、スッと霧散していくのを感じた。
ペン先が、紙面に触れる数ミリ手前。
これまでの朝が、走馬灯のように脳裏を駆け抜ける。
(さようなら。俺の、退屈で窮屈な家――!)
センリは、ありったけの声を張り上げた。
「今だ!!」
その瞬間。
センリの背後から、銀色の閃光が跳ね上がった。
ウルリカの放った、一切の躊躇がない渾身の一撃。
防衛機構が再起動するコンマ一秒の隙を突き、分厚い日記帳を――見えない鎖を、真っ二つに両断した。
鼓膜を破るような断末魔の悲鳴が上がり、空間の淀みが霧散していく。
暴風が書斎を吹き荒れ、窓ガラスが派手な音を立てて砕け散った。
やがて、静寂が戻る。
砕けた窓の向こうから差し込んできたのは、ループの中の冷たい雨の光ではなく、雲の隙間から覗く、正真正銘の朝日だった。
「……ふん」
朝日に照らされながら、ウルリカはゆっくりと剣を肩に担ぎ直した。
「お前の頭、案外役に立つな。ひ弱なお坊ちゃんにしては上出来だ」
「君の剣もね」
センリは、真っ二つになった日記帳を見下ろしながら、憑き物が落ちたような笑みを浮かべた。
「でも次はもっとスマートにやろうか。……俺のシャツが、汗とほこりでボロボロだよ」
それが二人の交わした、最初の軽口だった。
***
吹雪が、頬を打つ。
センリは立ち止まり、閉ざされた森を見上げた。あの日ウルリカが断ち切ったのは、日記帳だけじゃなかった。俺の諦めも、一緒に両断してくれたんだ。
その時、胸ポケットの通信機が震えた。




