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ユースティティアの天秤―均衡の番人は揃わない―  作者: 野塩いぜ
第二章 忠犬の枷と自由の根
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第十三話 三男坊の憂鬱

 センリ・ハーコートは、更衣室のロッカーに頭を打ち付けていた。ガン、ガン、と虚しい音が響く。


「……行きたくない。今すぐ南の島に亡命したい。あるいは記憶喪失になりたい」

「おい、どうした。頭でも湧いたか」


 トレーニングを終えたウルリカが、タオルで汗を拭いながら怪訝な顔をする。

 センリは死んだ魚のような目で、一枚の豪奢な招待状を掲げた。


「実家からの召集令状だ。表向きは父上の還暦祝いのパーティー。だが実態は、親族による品評会と見合いの斡旋だ」


 ハーコート家はユースティティアの天秤が設立される遥か昔から、危険なアーティファクトを管理してきた貴族の血筋だ。

 彼らは、自分たちこそが世界の守護者であるという強烈な自負を持っている。だからこそ、新興の国際組織であるユースティティアの天秤を役人の集まりと見下し、そこで働く三男坊のセンリを責任を果たさない放蕩息子として扱うのだ。


「顔を見せれば四方八方から言葉のナイフで刺されてハチの巣だ」


 センリの頭は彼らが言うだろう嫌味も、ねっとりとした見下しの視線も完璧にシミュレーションしてしまう。重々しい溜め息のあと、不意に顔を上げてウルリカをじっと見つめた。


「……いや、今の俺には最強の魔除けがいるな」


 センリは不敵に笑い、ウルリカと、その後ろでキョトンとしているアレクセイを指差した。


「準備してくれ。今日は君たちも同伴だ。俺がどれだけ優秀な部下と一緒に、立派にやってるかを見せつけてやるんだよ」


***


 数時間後。

 本部の衣装室から出てきたウルリカを見て、センリは息を飲んだ。


「……完璧だ」


 彼女が纏っているのは、夜の闇を溶かしたようなミッドナイトブルーのイブニングドレスだ。

 フリルやレースといった少女趣味な装飾は一切ない。大胆に背中の開いたデザインは、彼女の鍛え上げられた広背筋の美しいラインと、戦士の証である古傷を隠すことなく晒している。

 高いヒールを履いた彼女は、その長身も相まって、社交場の華というよりは、戦場に立つ女神のような威圧感と美しさを放っていた。


「……おい、センリ。これ、背中がスースーするぞ。それに剣はどこに隠せばいい」

「隠さなくていい。今日は君そのものが、俺の自慢の剣だ」

「意味が分からん」


 ウルリカは居心地悪そうに肩を回すが、その所作一つ一つが洗練された肉体美を強調していることに、本人は無自覚だった。


「ウルリカ、とっても綺麗。……僕はこれでいいの?」


 その横で、仕立ての良い細身のスーツに身を包んだアレクセイが首を傾げた。

 元々線の細い彼は、黙っていれば深窓の令息か、箱入りの王子様に見える。中身が常識知らずの魔術師であることを除けば。


「いいかい、アレクセイ。貴族社会には強力な防御魔法がある。今から教える言葉を、何を言われても笑顔で返すんだ」

「防御魔法? 障壁?」

「違う。『サヨウデゴザイマスネ』だ」

「……さようで、ございますね?」

「そう。相手が自慢話をしても、嫌味を言っても、この言葉と愛想笑いさえあれば無傷でやり過ごせる。高度な精神魔術だ」

「……分かった。頑張るよ」


***


 ハーコート侯爵家の屋敷は、煌びやかなシャンデリアと、数百年の歴史を持つ調度品で埋め尽くされていた。

 会場に漂うのは、高級な香水の香りと、積み重なったプライド。

 センリたちが足を踏み入れた瞬間、幾多の視線が突き刺さる。


「やあ叔父上、相変わらずお若い。そのネクタイ、先日のイタリア視察の成果ですか?」

「おやおや、ご機嫌麗しゅう。兄上の事業も順調そうで何よりです」


 センリは会場に入った瞬間、スイッチを切り替えた。

 軽薄だが有能な三男坊という仮面を被り、流れるような社交辞令で親族たちを翻弄していく。

 その背後で、アレクセイが小声で呟いた。


「すごい……センリ、息をするように呪文を吐いてる。幻惑魔法みたいだ」

「静かに。ニコニコして『サヨウデゴザイマスネ』だぞ」


 一方、ウルリカの周囲には、別の意味での結界が張られていた。

 物珍しさと下心で近づこうとした軟派な貴族の男たちが、彼女と目が合った瞬間に青ざめて回れ右をしていくのだ。

 琥珀色の瞳は、敵を見定める猛禽類のそれ。『寄るな、斬るぞ』という無言の覇気が、軟弱な男たちの生存本能に警鐘を鳴らしていた。


「……誰も寄ってこないな。平和でいいが」

「最高の魔除け効果だよ。感謝してる」


 センリがグラスを片手に笑った時、会場の中央で人だかりができているのが見えた。


「さあ、見てくれたまえ! これぞ我が家が三百年前から管理している清浄の壺だ!」


 恰幅の良い親族の男が、ガラスケースに入った古びた壺を自慢げに披露していた。

 男はセンリたちに気づくと、嫌な笑みを浮かべて手招きした。


「おや、センリくんじゃないか。君のところの組織……天秤だったか? あそこには、こういう本物の管理はできまいよ」


 周囲からクスクスと嘲笑が漏れる。センリは眉一つ動かさず、優雅に礼をした。所詮はこの場でお披露目できる程度。第四種、もしくは第三種の危険性の低いアーティファクトだ。気にかける価値もない。


「ええ、素晴らしい逸品です。歴史の重みを感じますね」

「だろう! この壺からは、常に清らかな気が溢れ出ているのだ。分かるかね、この高貴な波動が!」


 男は同意を求めるように、センリの背後にいたアレクセイに水を向けた。


「そこの彼、君もそう思うだろう?」


 アレクセイは瞬きをした。

 教わった通りにするなら、ここで『サヨウデゴザイマスネ』と言うべきだ。

 だが、彼の魔術師としての目と鼻は、嘘をつくことを拒否した。


「……え? これ、死んでるよ?」

「は?」

「中身が腐ってる。管理の失敗だ」


 アレクセイが正直すぎる感想を述べると、会場が凍りついた。

 シン……と静まり返る中、センリは冷や汗を滝のように流しながら、大爆笑した。


「あっはっは! いやあ、こいつはジョークのセンスも独特でしてね!」


慌ててアレクセイに向き直り、小声で叱責する。


「……バカ! 本当のこと言うな!」

「だって、腐ってるのに……」

「向こうへ行こう、今すぐ!」


***


 逃げるようにワインの並んだコーナーへ移動している最中だった。

 センリは、ある人物とすれ違いざまに肩が触れそうになり、立ち止まった。


「おや……失礼」


 相手は、白髪の紳士だった。センリも見覚えがある、著名な会社の役員である。

 年齢は六十、あるいは七十を超えているはずだ。だが、その肌には三十代のような張りがあり、背筋は槍のように伸びている。

 センリが軽く会釈をして握手を求めると、老人は穏やかな笑みで応じた。

 ギリッ。

 握られた手から、万力のような圧力が伝わってきた。骨が軋むほどの握力。


「ハーコート家のセンリさんですね。噂は聞いていますよ」


 老人はそれだけ言い残し、人混みの中へと消えていった。

 センリは痺れる手をさすりながら、内心で毒づいた。


(……なんだあの爺さん。サイボーグかよ。アンチエイジングもここまで来るとホラーだな)


 ふと見ると、隣のアレクセイが顔面蒼白で震えている。


「……センリ。あの人、誰?」

「どうした、幽霊でも見た顔して」

「違う」


 アレクセイは、老人が消えた方向を凝視しながら、掠れた声で言った。


「……中身がないんだ。魔力も、生命力も、感情の澱みも。……まるで、長い時間をかけて自分を削り取ってしまったみたいに」


彼は自分の掌を見下ろし、小さく呟いた。


「……孤独でいると、ああなるのかな」   


 煌びやかなパーティー会場の喧騒の中で、アレクセイの言葉だけが、氷のように冷たく響いた。

 センリは背筋に寒気が走るのを感じたが、努めて明るく肩をすくめた。


「健康オタクすぎて、毒素が抜けきってるんじゃないの? ……ま、これ以上ここにいたら俺たちの胃に穴が開く。撤収だ」


***


 会場を抜け出した三人が向かったのは、高級レストランではなく、いつもの本部の休憩所だった。

 センリは窮屈なネクタイを緩め、ウルリカはヒールを脱ぎ捨ててソファに深く沈み込んでいる。

 ガコン、という音がして、アレクセイが自販機から缶コーヒーを取り出した。


「はい、センリ。ウルリカ」

「……ああ、生き返る」


 センリはぬるい缶コーヒーを開け、一気に喉に流し込んだ。

 何十万円とするヴィンテージワインよりも、この安い泥水の方が、今の彼には遥かに美味く感じられた。


「貴族って大変だね」


 アレクセイが、自分の分のミルクティーを両手で持ちながら言った。


「あんなに綺麗な服を着て、綺麗な部屋にいるのに、みんな中身がドロドロしてた。魔術師の儀式より複雑で、怖いよ」

「全くだ。戦場の方がまだ気が楽だぞ。敵と味方がはっきりしているからな」

「違いない」


 ウルリカの言葉にセンリは苦笑し、空になった缶をゴミ箱に投げ入れた。


「……ま、こうして帰ってきて、愚痴を言える相手がいるなら、悪くないけどな」


 三人は並んで窓の外の夜景を見る。

 華やかな社交界の光よりも、この薄暗い休憩所の静けさこそが彼らにとっての安らぎだった。

 こうして招かれざる怪物たちは、それぞれの日常へと帰還したのだ。


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