第十二話 等価交換の重み
『世界均衡裁定機構ユースティティアの天秤』本部、27階。
マダム・マーガレットの執務室には、優雅な紅茶の香りが漂っていた。だが、その場の空気は鉛のように重い。
彼女のデスクの上には、真鍮製の豪奢な天秤が置かれている。そしてその片方の皿には、帯のついた札束が積み上げられていた。
「――さて、始めましょうか」
マダムが紅を引いた唇を三日月形に歪める。
彼女は白魚のような指で札束を掴むと、それを反対側の皿――負債側へと、無造作に放り込んだ。
ガシャン、と金属音が響く。
「まずは、あなたが壊した拘束用アーティファクトの補填費用」
ガシャン。また一束。
「次に、ウルリカちゃんを不当に拘束し、精神的苦痛を与えたことへの慰謝料」
「さらに、先日の通信障害の賠償金」
ガシャン、ガシャン。
天秤は見る見るうちに傾き、ついに『負債』の皿がデスクの天板にゴトりと音を立てて接地した。
一方で、もう片方の『報酬』の皿に残されたのは、わずかな小銭と、頼りない厚さの紙幣が数枚だけ。
「……以上よ」
マダムがにっこりと微笑む。
アレクセイは目をぱちくりとさせ、残されたわずかな現金を指先で突っついた。
「……これが、僕の分?」
「ええ。あなたがやった事の後始末には、それだけのコストがかかっているの。文句はあるかしら?」
「ううん、ないけど……」
アレクセイは首を傾げ、センリを見た。
「ねえセンリ。これでお母さんが読んでくれたような本、一冊くらいは買えるかな?」
そのあまりに無垢な問いに、センリは苦虫を噛み潰したような顔をした。ウルリカは、やるせない表情で窓の外へ視線を逸らす。
アレクセイは通貨の価値を知らない。自分の労働がどれだけの重みを持ち、そしてどれだけ搾取されたのか、理解できていないのだ。
「……マダム」
センリが思わず抗議する。
「彼はまだ、こちらの社会のルールを学んでいる最中です。知識のない相手に、一方的に不利な契約を押し付けるのは……詐欺師のやることだ」
「あら、心外ね。私は組織の掟に従って等価交換を行っただけよ。……でも」
マダムは扇子で口元を隠し、悪魔のように目を細めた。
「可哀想な小鳥ちゃんに、チャンスをあげてもいいわ」
彼女が指を鳴らすと、壁面のモニターに地下訓練場の映像が映し出された。
そこには、泥のような不定形の怪物が蠢いている。
「開発局が作った新しい戦闘用兵器のテスト相手が欲しいの。実戦データが取れなくて困っていたところよ。……やってくれたら、特別手当を出すわ」
「やるよ」
アレクセイは即答した。迷いはなかった。
「アレクセイ! お前、内容も聞かずに……」
「いいんだ、ウルリカ。……僕は償いをしなきゃいけないから」
アレクセイは、何のためらいもなく自分の体を換金可能な資源として差し出す。
ウルリカは唇を噛み、拳をギリリと握りしめた。
***
地下訓練場。
無機質なコンクリートのフィールドに、アレクセイは一人立っていた。
対峙するのは、自律型対魔術兵器グラトニー。ヘドロのような黒い流体金属で構成されたゴーレムだ。
『試験開始。攻撃魔法の使用を許可します』
『聞こえたか、アレクセイ。承認コードリブラ、限定解除。第二種だ』
スピーカーからマダムとセンリの声が響く。
アレクセイが杖代わりの指先を向けた。
「……風よ」
真空の刃が静かに放たれる。だが、グラトニーはそれを避けるどころか、自らの体で受け止めた。
鈍い音とともに、風の魔力が泥の中へ吸い込まれる。
次の瞬間、グラトニーの体がひと回り大きく膨れ上がり、黒い光沢を増した。
『あら、言い忘れていたわ。あの子は魔力を食べて成長するの。魔法を使えば使うほど、強くなるわよ?』
マダムの楽しげな声。
アレクセイが目を見開く。魔法が効かないのではない。魔法そのものが餌なのだ。
グラトニーが咆哮のような音を上げ、触手を鞭のようにしならせた。
「っ!」
アレクセイは咄嗟に障壁を展開しようとして――思い留まる。障壁もまた魔術だ。防げば防ぐほど、相手にエネルギーを与えることになる。
その判断の遅れは、致命的だった。
黒い触手がアレクセイの脇腹を打ち据え、その細い体をボールのように吹き飛ばしたのだ。
「がはっ……!」
壁に叩きつけられ、アレクセイが崩れ落ちる。
グラトニーは更に肥大化し、制御のリミッターとなっていた首輪を粉砕した。魔力の味を覚え、予定されたプログラムを超えて捕食しようとしている。
「試験中止だ! これじゃ殺処分だろう!」
管理室で見ていたウルリカが叫び、扉を蹴破る勢いで飛び出した。
フィールドに降り立つと同時に、迫りくる触手を大剣で一閃する。
重厚な金属音と共に、太い触手が切り飛ばされた。純粋な質量と、腕力による切断だ。
「下がってろ、アレクセイ。……魔法が効かないなら、物理で叩き潰すまでだ!」
ウルリカが大剣を振るうが、グラトニーは斬られた端から泥を集め、核を中心に再生するたびに硬度を増していく。
一方管理室では、マダムが不満げにモニターを眺めていた。
「これじゃデータが取れないじゃない。ウルリカちゃんも無粋ねぇ」
「マダム。これ以上やるなら第一種を解禁しますが? 今ならウルリカも同意するはずだ」
「……ふふ、怖い怖い。いいわ、テスト終了。――でも、止められるかしら?」
再生したグラトニーが全方位からウルリカを包囲している。ウルリカは、背後のアレクセイを庇うように立ち位置を変える。その背中には、一歩も退かないという強烈な意志が宿っていた。
(……僕を守るために)
壁際で荒い息を吐きながら、アレクセイはその背中を見ていた。
ウルリカは強い。けれど、自分がいるから避けられない。自分がいるから、彼女の剣が鈍る。
(魔法を撃てば、敵が強くなる。でも、何もしなければ彼女が傷つく)
(どうする? 考えろ。センリならどうする? ウルリカならどう動く?)
(破壊するな。……守れ。彼女のために、力を使え!)
アレクセイは杖代わりの指先を上げた。
狙うのは敵ではない。ウルリカの足元だ。
「ウルリカ! 飛んで!」
「アレクセイ!?」
アレクセイの叫びと同時に、翠緑の光が走る。
「――隆起せよ!」
ウルリカの足元のコンクリートが、爆発的な勢いでせり上がる。
それは攻撃ではない。彼女を空高く打ち上げるための発射台だ。
ウルリカは瞬時に意図を理解した。膝を屈め、上昇のエネルギーに自らの脚力を上乗せし、天高く跳躍する。
「……ナイスだ、アレクセイ!」
遥か頭上。天井近くまで舞い上がったウルリカが、大剣を逆手に構え、重力に従って落下する。
狙うは、再生核のある胴体中央。
「潰れろッ!」
落下の運動エネルギーと、全体重を乗せた必殺の一撃。
轟音と共に、グラトニーの体が内側から破裂し、四散した。核は粉々に砕け散り、もはや再生の予兆もない。
「……ふぅ」
土煙の中、ウルリカが剣を肩に担いで立ち上がる。傷一つないその立ち姿が、アレクセイの目にはキラキラと輝いて見えた。
***
本部の休憩スペース。
自販機のモーター音が、静かに響いていた。
アレクセイは、マダムから渡された特別手当の入った封筒を握りしめている。その額は微々たるものだ。本当はもっとあったのだが、グラトニーを破壊した分が容赦なく引かれている。
「いいか? ここに硬貨を入れて、ボタンを押す。これが現代の等価交換の魔術だ」
センリに促され、アレクセイはおっかなびっくり硬貨を投入した。
チャリン、という音。ボタンが光る。
彼が震える指でそれを押すと、ガコン、という重い音と共に、缶コーヒーが二本転がり出てきた。
「……出た」
アレクセイは目を輝かせ、熱い缶を両手で拾い上げた。
そして、それをセンリとウルリカに差し出した。
「はい」
「……は?」
「二人に、あげたかったから」
アレクセイは屈託なく笑った。
命を削って得た初めての報酬を、彼は迷わず二人のために使ったのだ。
センリは呆れたように天を仰ぎ、ウルリカはバツが悪そうに横を向いた。
「……馬鹿だなぁ。こういうのは、三人でやるもんなんだよ」
センリはICカードをかざすと、手慣れた手つきでエナジーバーを買い、アレクセイに放り投げた。
「働きには栄養が必要だ。食べなよ」
「あ……」
続いてウルリカが無言で前に出る。硬貨を放り込み、一番甘いミルクティーのボタンを叩いた。
ガコン。
「ほら。……これでも飲んでろ」
押し付けられた温かい缶と、栄養食。
アレクセイは目を丸くし、そしてふにゃりと相好を崩した。
「……あったかいね」
金額ではない。
その小さなやり取りこそが、彼が初めて得た労働の対価であり、人間としての居場所だった。
***
執務室の窓から暮れなずむ街を見下ろしながら、マダム・マーガレットは手元にある古い懐中時計を指先でなぞった。
四十年経っても、あの日の空の色を忘れたことはない。世界を覆いつくした絶望と、それを一瞬で塗り替えた名もなき魔術師の背中。
「……期待しているわよ」
彼女の呟きは、誰に届くこともなく夜の静寂に溶けた。
「あのおとぎ話が、まだ現代でも通用するのかどうか。……私に、もう一度だけ見せてちょうだい」




