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ユースティティアの天秤―均衡の番人は揃わない―  作者: 野塩いぜ
第二章 忠犬の枷と自由の根
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第十一話 自由意志の不感症

 都市の風景に、奇妙な「偏り」が生まれていた。

「……ねえ、センリ。みんな同じものを持ってる」

 後部座席のアレクセイが、窓に張り付きながら言った。

 渋滞中の車内から見える歩道。行き交うサラリーマンや学生の多くが、緑色のロゴが入った特定のチェーン店のカップを手にしている。

 それだけではない。ショーウィンドウの前で立ち止まる人々、信号待ちをする人々、彼らの視線や動作が、まるで目に見えない指揮者に従うように、微妙にシンクロしているのだ。


「流行りなんじゃない? 人間は群れるのが好きだから」

「……みんな、兵隊のアリみたいだ。自分の意思で歩いているようで、実はフェロモンの道筋をなぞらされているだけに見える」


 アレクセイの言葉に、ハンドルを握るセンリは微かに眉をひそめた。

 野生の勘、あるいは魔術師としての感性か。アレクセイは時折、こういうことを口にする。


「……気持ち悪いな」


 助手席のウルリカが、不快そうに腕を組んだ。


「自分の頭で考えてないのか?」

「本人は考えたと思ってるのかも。それが何かに操作されてるとは知らずにね」


 センリはダッシュボードのタブレットを指差した。

 画面には、極彩色のアイコンが表示されている。アプリ名『フォルトゥナ』。

 ここ数週間で爆発的にダウンロード数を伸ばしている、幸運を呼び込むと噂のアプリだ。


「うちの解析班が、このアプリの運営元から微弱なアーティファクト反応を検知した。……魔力の規模は小さいけど、影響範囲が異常に広い。確認に向かうよ」


***


 現場は、繁華街の雑居ビルの一室。『株式会社フォルトゥナ・ラボ』と書かれたドアの向こうには、無機質なサーバー音が響いていた。

 薄暗い室内。複数のモニターに囲まれて座っていたのは、小汚いジャージ姿の男だった。

「――ようこそ、ユースティティアの狗ども」

 男は振り返りもせず、キーボードを叩き続けている。その背中には、奇妙な高揚感が漂っていた。

 センリたちが踏み込むと、男はゆっくりと椅子を回した。充血した目には、狂信的な光ではなく、もっと卑近な――金に執着する商売人の光が宿っている。


「確保だ、ウルリカ」

「ああ」


 ウルリカが男の腕を確保しようと近づく。だが、センリの視線は男ではなく、デスクの中央に置かれた物体に釘付けになっていた。

 サーバーラックと太いケーブルで直結された、拳大の透明な結晶体。

 それが、不規則なリズムでピンク色の明滅を繰り返している。


「……『共鳴する水晶』か」


 センリが忌々しげに呟いた。

 感情増幅作用を持つアーティファクトだ。本来なら舞台演出やセラピーに使われる程度の、危険度の低い第四種相当の代物だが。


「こいつをサーバーに噛ませて、アプリの通知音や画面の点滅に干渉波を乗せているのか?」

「ご名答」


 男はウルリカに押さえ込まれて痛みに顔を歪めながらも、ニタニタと笑った。


「現代人は忙しい。どこの店に行くか、何を買うか、迷う時間すら惜しい。だから俺が誘導してやってるんだ」


 センリは男のPC画面を覗き込んだ。そこには、企業のロゴと送金履歴が並んでいる。

 仕組みは単純かつ狡猾だった。

 アプリが集めた行動データを元に、水晶の力でユーザーの無意識に衝動を植え付ける。

 喉が渇いたなと思った時には、特定のカフェへ足を向けさせる。

 そしてユーザーが店に入った絶妙なタイミングで、店側があらかじめ用意していたタイムセールや来店記念を発動するのだ。


「ユーザーはたまたま入った店でいいことがあった!と感動する。店側は閑散期に客を呼べて万々歳。俺は企業から紹介料をもらう。……誰も損をしない、完璧な幸福の循環だろ?」


 男は悪びれもせず言った。

 魔法で運命を変えているのではない。人間をコントロールし、台本通りの偶然を演出しているだけだ。


「……最低だな」


 センリの声の温度が、ぐっと下がった。

 普段の飄々とした態度は消え失せ、静かな怒りが浮かんでいる。


「あんたがやってるのは幸福の循環じゃない。ただのステルスマーケティングだ。彼らの自由意志をハッキングして、金に変えてるだけだ」

「それの何が悪い! 自分で選んだと思ってるんだから幸せだろ!」


 男が叫んだ瞬間、室内の赤いランプが激しく回転し始めた。


「……何をした?」

「防衛システムだよ。俺の飯の種を奪う奴は、客に排除させる!」


 窓の外、ビルの付近を歩いていた群衆のスマートフォンが一斉に振動した。


『緊急ミッション:幸運の源泉を守れ。報酬、ランクアップチケット』


 水晶が激しく明滅し、干渉波を最大出力で撒き散らす。

 群衆の目に宿る理性の光が揺らぐ。彼らはお得なイベントに参加するような顔でビルを見上げ、入口へと集まり始めた。


「……すごいね。みんな、欲望で動いてる」


 アレクセイが窓から下を覗き、恐怖というよりは、理解不能な生き物を見る目で呟いた。


「魔法で操られているわけじゃない。ただ、損をしたくないって気持ちだけが増幅されてる」

「厄介だな。正義感より、欲望で動く奴らの方が止まらんぞ」


 ウルリカが剣の柄に手をかけ、ドアの前に立ちはだかる。

 ドンドンドンドン!

 ドアが叩かれる音。


「開けろ! 俺のチケットが!」

「邪魔するな!」


 彼らはただの一般市民だ。だが、その声は完全に消費者としての狂気に支配されている。


「センリ、どうする。斬るわけにはいかんぞ」

「ああ。……アレクセイ、遮断しろ。お前の魔法で、この騒ぎを止めるんだ」

「え……? でも、人間に魔法は使っちゃダメだって……!」

「直接干渉は禁止だ。怪我をさせてもいけない。……頭を使え、アレクセイ。この騒動の根源は何だ?」


 根源。

 アレクセイは、窓の外の狂乱と、震える詐欺師、そして明滅するアーティファクトを交互に見た。

 人々を繋ぎ、欲望を伝染させているもの。

 魔法ではない。目に見えない、空気を伝う波。


「……繋がりだ」


 アレクセイが呟く。

 彼らが暴れているのは、アプリからの指令を受けているからだ。なら、その声を届かなくしてしまえばいい。


「センリ、承認を!」

「必要ない。お前がやろうとしているのは第三種の応用だろ? 自分の判断でやれ」

「でも、範囲が広すぎる。許可がないと、僕の制約に弾かれる」


 アレクセイの言葉に、センリは瞬時に状況を理解した。

 アレクセイは、都市の一区画すべてを覆うつもりなのだ。それは生活魔法の規模を超えている。

 センリはネクタイを緩め、首筋の紋章を露わにした。


「分かった。承認コード『リブラ』! ――限定解除、第二種。対象、特定の周波数帯への干渉を許可」


 許可が通る。その瞬間アレクセイの瞳が鮮やかな緑に輝いた。

 彼は両手を広げ、見えない空気を掴むように指を走らせる。


「……静まれ」


 それは本来、術者の周囲の音を消し、安眠を得るための初歩的な生活魔法。

 だが、今の彼が対象にしたのは音ではない。電波という名の、現代の騒音だ。

 低い耳鳴りのような音が響き、世界が一瞬、真空になったかのような錯覚に包まれた。

 サーバー室の水晶がパリンと音を立てて砕け散る。同時に、ビルを中心とした半径数百メートルの通信機器が圏外へと落ちた。

 供給を断たれたスマートフォンが沈黙する。

 それと同時に、ドアを叩いていた激しい音が、不自然に止んだ。


「……あ?」


 廊下から、間の抜けた声が聞こえた。熱病が引いていくように、人々から急速に憑き物が落ちていく。


「あれ……繋がんない」

「なんか、圏外になった」

「……ていうか、俺、なんでこんなとこにいるんだっけ?」


 怒号は消え、代わりに困惑と、気だるげな空気だけが残る。

 彼らは操られていたという自覚すらない。ただ、急に目的を見失い、手に持っていた石や棒切れを捨てて、日常へと帰っていく。

 その背中は、「まあいいか」という諦めと無関心に満ちていた。


「……終わったよ」


 アレクセイがへたり込む。

 ウルリカがドアの隙間から外を確認し、深く息を吐いて剣から手を離した。


***


 男は連行された。

 手錠をかけられながら、彼はセンリに向かって唾を吐き捨てるように叫んだ。


「奴らには指針が必要なんだ! 自分で選ぶ苦痛から解放してやったのに! お前らがやったのは、他人をまた迷いの中に突き落としただけだ!」


 センリは表情を変えずに男を見下ろした。


「迷う苦痛も、選ぶ責任も、そいつ自身の財産だ。……お前が奪っていいもんじゃない」


 その言葉は、男へ向けたものであり、同時に自分自身への戒めのようでもあった。

 事件処理を終えた帰り道。

 車内は、行きよりも重い沈黙に包まれていた。

 アレクセイは自分の掌をじっと見つめている。


「……自由って、難しいね」


 ポツリと漏らした言葉。

 窓の外では、通信が回復したスマホを覗き込みながら、また何かの行列に並び始める人々の姿が見える。


「魔法で全部決められた方が、楽な時もあるのかもしれない。……あの人たちは、本当に助けられて嬉しかったのかな」

「さあね」


 センリはハンドルを切りながら、バックミラー越しにアレクセイを見た。


「自由は重くて、面倒くさくて、最高に厄介だ。誰かのせいにできないからね。……ま、だからこそ守る価値があるんだけど」


 センリはバックミラー越しにアレクセイを一瞥し、肩をすくめた。


「少なくとも俺は、そう信じて残業してる。……割に合わないけどね」 


 アレクセイは窓の外を見つめた。

 ガラスに映る顔は、まだ不安げだ。けれどその瞳には虚ろな狂気ではなく、考える理性の光が宿っている。

 自分の頭で悩み、迷うこと。

 それが人間への第一歩だと、彼は少しずつ理解し始めていた。


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