第十話 忠犬の首輪
神経を逆撫でするような音が、無機質な地下室に反響していた。
世界均衡裁定機構ユースティティアの天秤本部、地下四階。特別封印室。
分厚い強化ガラスの向こうで、椅子に縛り付けられたアレクセイ・イズマイロフの身体が、苦しげに震えている。彼の四肢と首には、鈍色の拘束具――組織が誇る最新鋭の魔力抑制アーティファクトが嵌め込まれていた。
「……ダメだ、数値が下がらない。抑制率、既に限界突破しています」
「冷却水を循環させろ。回路が焼き切れるぞ」
白衣を着た技術班の男たちがコンソールを叩いている。
まるで決壊寸前のダムを爪楊枝で止めようとしているかのような徒労と絶望がそこにはあった。アレクセイという存在そのものが、現代の科学や魔術理論の規格に収まりきらないのだ。
プシュウ、と気の抜けた音がして、アレクセイの首輪から黒い煙が上がった。
「三つ目か。コストに見合わん」
技術班のチーフらしき男が、忌々しげに眼鏡の位置を直した。彼はモニターに映るアレクセイを、一人の人間としてではなく、危険物を見るような冷たい目で見下ろしている。
「これ以上の拘束は予算の無駄だ。上には制御不能で報告しろ」
「了解です。では、処分方法は?」
「廃棄は惜しい。貴重なサンプルだ。生きたまま解剖して保存すれば、研究材料として使えるだろう」
淡々とした会話だった。今日の昼食を何にするか決めるような軽さで、一人の青年の尊厳ある死すら奪おうとしている。
カツン。
不快な電子音を切り裂くように、硬質な足音が一つ響いた。
センリの隣で腕を組んでいたウルリカが、一歩前に出ていた。
彼女の琥珀色の瞳は静かに、しかし絶対零度の怒りを宿して白衣の男たちを射抜いている。
「……おい。今、あいつを何にすると言った?」
抑揚のない声。それが逆に、彼女が本気で怒っていることを雄弁に物語っていた。
技術班たちがびくりと肩を震わせる。ウルリカは、ガラスの向こうでぐったりとしているアレクセイを一瞥し、再び男たちへ視線を戻した。
「あいつは犯罪者だ。相応の罰を受けるべきだし、一生牢屋から出られないとしても文句は言えないだろう。だが」
彼女の手が、背中の剣に伸びる。チャキ、と鯉口を切る音が、機械音よりも鋭くその場を支配した。
「部品扱いしていい道理はない。ここはいつから、正義の天秤ではなく肉屋の秤を使うようになった?」
「横から口を出すな! これは決定事項で……」
「なら、その決定を今すぐ書き換えろ。気に入らない」
理屈ではない。ウルリカ・シュミットという人間は、目の前で行われようとしている非道を看過できないのだ。相手が誰であろうと、筋の通らない暴力には体が先に反応してしまう。
「……いいんだ、ウルリカ」
スピーカー越しに、弱々しい声が響いた。
ガラスの向こうで、アレクセイが困ったように笑っていた。顔色は紙のように白く、拘束具の食い込んだ皮膚からは血が滲んでいる。
「僕は怪物だ。……管理できないなら、解体されて当然だよ。君が怒ることじゃない」
「アレクセイ。お前……」
「でも」
アレクセイは、すがるような瞳でセンリとウルリカを見た。
それは親鳥を探す雛のような、あるいは捨てられることを悟った犬のような目だった。
「もし……もし、こんな僕でも、まだ生きていていいなら。お願いがある」
アレクセイは自身の胸元に、痩せ細った指を這わせた。
「僕の意思だけじゃこの力を飼いならせない。だから、君たちが首輪を持っていて欲しい」
「首輪?」
センリが眉をひそめると、アレクセイは静かに頷いた。
「僕の魔力中枢に鍵をかける。古い魔術を使った魂の制約だ。ここのアーティファクトなんかより、ずっと確実だよ。……その鍵を、二人に預けたいんだ」
場がざわめく。技術班たちが「そんなことが可能なのか」と顔を見合わせる中、センリはふぅ、と小さく息を吐いた。
彼はウルリカの肩をポンと叩いて宥めると、マイクに向かって口を開いた。
「要するに、君の生殺与奪のスイッチを僕らに預けるってこと? ……重いなぁ。俺、サボテンすら枯らすタイプなんだけど」
「センリなら大丈夫だよ。センリは……賢いから」
「買いかぶりすぎ。……でもまあ、君をホルマリン漬けにするのは、戦力的にも損失だ」
センリは懐からタブレットを取り出し、素早く指を走らせた。その表情は、先ほどまでの傍観者のものではない。冷静に損得を計算する顔に変わっている。
「いいよ、アレクセイ。その提案に乗ろう。ただし、やるなら徹底的にシステム化する。単なる使用許可じゃ曖昧で使いづらい」
「え?」
「君の使える魔法を、三段階にクラス分けして。第三種は他人に影響を与えない生活魔法。これは君の判断で使っていい」
センリは指を二本立てた。
「第二種。戦闘用の攻撃、防御、他人に干渉する魔法。これは、俺かウルリカ、どちらか一方の承認がないと発動しないようにロックしろ」
そして、立てた指が一本になる。
「第一種。大規模破壊とかその他ヤバいやつ。これは俺とウルリカ、二人の同時承認必須にする。……これでどう?」
「……すごい。それなら、僕は迷わなくて済む」
アレクセイの瞳に、安堵の色が浮かんだ。彼は自ら考えることを放棄したのではない。自分の欠陥を理解し、信頼できる外部回路に接続することを選んだのだ。
ブォン、と低い音が鳴り、アレクセイの体が淡い光に包まれた。
術式が編まれていく。目には見えない鎖が、彼自身の魂を縛り上げ、その端がセンリとウルリカへと伸びる。
チリッ、と皮膚が焼けるような痛みが走った。
センリは首筋を、ウルリカは右手の甲を押さえる。そこには天秤を模した幾何学的な紋章が黒いタトゥーのように刻まれ……そして肌になじむように消えていった。
「……契約完了、だね」
センリが首筋を指先でなぞりながら苦笑した。
ウルリカは、甲に浮かんだ紋章をじっと見つめ、それから剣の柄を強く握りしめた。
「勘違いするな、アレクセイ。これはお前を守るためのものじゃない」
「うん」
「お前が道を外れたら、この手で確実に引導を渡すための鎖だ。……覚悟しておけ」
「うん。……ありがとう、ウルリカ」
アレクセイは、どこか嬉しそうに微笑んだ。その歪な信頼こそが、今の彼らに許された唯一の関係だった。
***
その実用試験の機会は、予想よりも早く訪れた。
面談を終え、地上への帰路についていた三人の前に、警報音が鳴り響く。
施設内の搬送ルートで、回収された第三種アーティファクト――『泥の杯』が搬送中の事故で破損し、暴走したのだ。
「シャァァァァ……!」
通路を埋め尽くすのは、ヘドロのような泥人形たち。一体一体の脅威度は低いが、斬っても突いても瞬時に再生し、分体して増殖する厄介な相手だ。
「……鬱陶しいな。斬っても手応えがない」
ウルリカが大剣を振るうが、泥は刃を飲み込むようにまとわりつき、その動きを鈍らせる。物理攻撃との相性は最悪だった。
センリはスーツの汚れを気にしながら、後方で溜息をついた。
「あー、もう。この後レポート書かなきゃいけないのに。……ウルリカ、下がって」
「まだやれる」
「適材適所。――アレクセイ、前へ」
センリの言葉に、背後で縮こまっていたアレクセイが一歩踏み出す。
彼はまだ、何もできない。ただの無力な青年として、センリを見つめている。
センリはネクタイを少し緩め、首筋の紋章に触れた。
「承認コード『リブラ』。――限定解除、第二種。対象の排除を許可」
その声はひどく事務的で、一切の感情が排除されていた。
瞬間。
カッ、とアレクセイの両目が、鮮やかな翠緑の光を放った。
深淵を覗くような、人のモノならざる燐光。その輝きとともに彼はただの機能へと変貌した。
「……了解」
アレクセイは杖代わりの指先を、泥の群れへと向けた。
詠唱も、高揚もない。
「沈め」
その言葉と共に、敵が存在する空間の重力だけが何十倍と跳ね上がった。
泥人形たちは悲鳴を上げる暇もなく自重で潰れ、コンクリートの床に染み込む黒いシミへと変わる。
ただ指定された座標の敵だけが、物理法則によって処理されたのだ。光を放つアレクセイの瞳だけが、暗い通路で冷たく輝いていた。
「……終了」
アレクセイが手を下ろすと、瞳の光がフッと消え、重力は正常に戻る。
彼はすぐにセンリの背後に戻り、再び俯いた。まるで、自分のしたことを見たくないかのように。
「……うわ、便利」
センリは更地になった通路を見て、乾いた笑いを漏らした。
「楽すぎてちょっと怖くない?」
「…………」
ウルリカは、剣を鞘に納めながら、複雑そうな顔でアレクセイを見た。
今の彼は自ら進んで道具として振る舞おうとしている。その姿はかつて見せた感情や戸惑いよりもずっと痛々しく……人間味に欠けていた。
「……行くぞ。報告しなければ」
ウルリカは短く言い、先を歩き出した。
センリは端末を取り出し、日報のフォーマットを開く。
「承認コード『リブラ』発動回数、一回。成果、敵性存在の完全排除。……損害報告、なし。優秀、優秀」
こうして、狂気の魔術師アレクセイは、センリ達の忠実な番犬となった。
その首輪の鎖が、いつか彼を人間にするための命綱になるのか、それとも三人全員を地獄へ引きずり込む鎖となるのか。
それはまだ、誰にも分からない。
本日より第二章の投稿開始です。よろしくお願いします!




