幕間 ガラスの城の閉門
そう言えばさ、とセンリがまるで小さな忘れ物を思い出したかのような気軽さで口を開いた。
「アレクセイ。君の自宅、このまま組織が入っても大丈夫な場所? ほら、不用意に触るとドカンといっちゃうような、物騒なオモチャとかない?」
アレクセイは瞬きをした。思考はまだ霧の中にあるようだったが、センリの言わんとすることは理解できた。彼はアレクセイを、あえて連行から遠ざけようとしている。ウルリカを見る。彼女は腕を組み不機嫌そうに顔を背けていたが、否定はしなかった。
「……ある」
アレクセイは掠れた声で答えた。
「まず結界を解かないと近付けないし……招かれざる客が扉に触れれば、森ごと吹き飛ぶようになってる」
「わお、物騒。聞いた?」
センリは大げさに肩をすくめると、胸元の通信機を取り出してスイッチを入れた。声色が瞬時に指揮官のものに変わる。
「こちら第三班、センリ・ハーコート。少々厄介な事態だ。……ああ、魔術師の拠点が極めて危険な状態にある。術者本人による解除が必要だ。一般隊員の接近は推奨しない。我々が先行して無力化に向かう。――許可? いらないよ、事後承諾でいいでしょ。被害が出たら組織の責任になるけど、それでもいいなら止めてくれ」
一方的に通信を切ると、センリは再び軽薄な笑みを浮かべてウインクしてみせた。
「交渉成立。さあ、ドライブと行こうか。君のお城を畳みに行かないとね」
***
黄昏の館から北へ、車を走らせること数時間。景色は一変していた。文明の光はとうに途絶え、車窓の外には針葉樹の森とうっすらと積もった雪だけが広がっている。世界から切り離されたような静寂。そこは、かつてアレクセイが誰にも知られずに生きていた場所だった。
森の前に車を止め、アレクセイの背中を追いながら三人で彼の家に向かう。やがて現れたのは、童話に出てくる魔法使いの家そのものだった。煙突からは煙こそ出ていないが、長年風雪に耐えてきた木の壁は黒く燻され、窓枠には魔除けの乾燥した植物が吊るされている。
「……ここか」
センリが吹きすさぶ風の冷たさに身を震わせながら呟いた。アレクセイは門の前に立ち、雪を踏みしめる。かつては安息の地だった場所。けれど今は、墓場のように見えた。
「行け」
ウルリカが短く促す。アレクセイが振り返ると、彼女はトレンチコートの襟を立て、頑として動かない姿勢を見せていた。
「私はここまでだ」
「……入らないの? 外は寒いでしょう」
「魔術師の家なんて、肌に合わないからな。それに……」
ウルリカはちらりと屋敷を見上げ、少しだけ表情を曇らせた。彼女もここで暮らしていた時期がある。けれど、今の彼女はアレクセイの妻ではない。
「アレクセイ。お前が自分でケジメをつける場所だ。私が見張っていてやるから、終わらせてこい」
拒絶では、なかった。それは彼女なりの線引きなのだとアレクセイは理解した。彼女はもう、二度と彼の幻想の中には入ってこない。
「……分かった」
アレクセイは一人、木の扉に手をかけた。ギィ、と古めかしい音がする。
一歩足を踏み入れた瞬間だった。
ボッ、と音を立てて、正面にある暖炉に赤々とした炎が灯った。 誰かが火を点けたわけではない。主の帰還を感知した家そのものが、あらかじめ組み込まれた術式によって出迎えたのだ。
パチパチと薪が爆ぜる音が、冷え切った室内に響く。壁一面の本棚には古書がぎっしりと詰め込まれ、天井からは束ねられたドライハーブや、蜥蜴の干物が吊り下げられている。得体の知れない草花や鉱石の入った瓶が変わらず棚を占拠していた。
独特の薬草の香りと、古い紙の匂い。炎の暖かさと相まって、そこはあまりにも心地よく、あまりにも魔術師アレクセイのために完成された世界だった。
「ただいま」
アレクセイは誰に言うでもなく呟いた。返事はなかった。ただ、主を失うことを予期しているかのように、暖炉の炎が一度だけ大きく揺らめいた。
部屋の中央にある、古びたテーブルに指を走らせる。かつて、このテーブルには温かなスープがあった。幼い日、湯気を立てる皿の向こうには母がいた。彼女はいつも、アレクセイに優しい声で物語を聞かせてくれた。母がこの世を去ってからは、テーブルの上は冷たい干し肉と、静寂だけが支配するようになった。そう、あの日、彼女が来るまでは。
アレクセイは目を細め、空席の向こうに幻影を見る。ウルリカ・シュミット。彼女はここに座っていた。アレクセイが魔法で作り出した豪華な食事を眉をひそめて押しやり、代わりに小麦の香りがする無骨なパンを焼いてくれた。
視線をずらす。暖炉のそばにある、座り心地の良い揺り椅子。そこは、夜ごとの定位置だった。アレクセイは膝を抱えて座り、ウルリカに本を読み聞かせた。彼女は微睡みながらそれを聞いていた。あの時、確かにアレクセイは幸福だった。けれど、その幸福はひどく歪で、臆病なものだった。
アレクセイは無意識に、誰もいない虚空へ手を伸ばしかけ――指先を震わせて止めた。
あの頃もそうだ。彼女に触れたくて、けれどどうしても触れられなかった。汚してはいけない。壊してはいけない。彼女の精神を魔術で書き換え、自分好みの物語に閉じ込めておきながら、アレクセイは彼女の肉体に指一本触れることすら恐れていたのだ。
「……僕はただ、隣にいて欲しかっただけなんだ」
静寂に、独り言が吸い込まれていく。今になって分かる。恋人や、妻が欲しかったわけじゃない。アレクセイが求めていたのは、あの日失われた母の温もりであり、絶対的な肯定であり、孤独な夜を照らす灯りだった。本の中のお姫様が、王子様とそうするように。あるいは――母が、幼子にそうするように。
「馬鹿だなぁ、アレクセイ」
自嘲と共に、彼は視線を鏡に向けた。そこには、世捨て人のように黒髪を伸ばした、青白い顔の男が映っている。この長い髪も、母が好きだと言ってくれたから切らずにいたものだ。アレクセイはテーブルの引き出しを開け、一本のナイフを取り出した。魔術的な装飾などない、ただの鉄のナイフ。干し肉を削いだり、果物の皮を剥いたりするために使っていた、生活の道具だ。
彼は鏡の中の自分を見据え、左手で長い黒髪を鷲掴みにした。躊躇いはなかった。
ナイフの刃を当てる。
ジャリ、と硬い音がして、繊維が断ち切られる感触が手に伝わる。
一房、また一房。黒い髪が床に落ちるたび、アレクセイの中から少年が死んでいく。夢を見るだけの、待ち続けるだけの子どもは、もういない。
ザン、と最後の束を切り落とすと、頭が不自然なほど軽くなった。鏡の中には、見知らぬ短髪の男がいる。頼りなく、弱々しく、けれどその瞳だけは奇妙に澄んでいた。
切り落とした髪をかき集め、燃え盛る暖炉の中へと放り込む。 髪は瞬く間にチリチリと燃え上がり、嫌な臭いと共に灰へと変わっていった。アレクセイの妄執も、未練も、全てが煙となって煙突から空へと昇っていく。
アレクセイは本棚へ歩み寄ると、一冊の本だけを抜き出した。表紙は擦り切れ、タイトルすら判読できない。けれど、彼にとっては世界で一番価値のある、母の形見の童話。彼はそれを懐にしまうと、暖かな部屋に背を向けた。
重い扉を開け、外へ出る。雪はまだ降り続いていた。
「さようなら」
振り返ることなく紡いだのは、魔術の詠唱ではなく、ただの別れの言葉。だが、その言葉が鍵となった。
燃やした髪を触媒に、アレクセイの編み上げた結界術式が起動する。家の輪郭がぐにゃりと歪んだ。空間そのものが凍りついたように、硝子細工のような透明な輝きを帯びる。外界からの干渉を完全に遮断し、内部の時間を永遠に凍結させる拒絶の檻。輝きは一瞬で極限まで達し――次の瞬間、幻のように消え失せた。
そこにはもう、何もなかった。ただ白い雪原が広がり、風の音だけが響いている。アレクセイは襟を立て、雪を踏みしめて歩き出した。その先にはウルリカとセンリが待っている。
アレクセイの足取りは、来る時よりも少しだけ軽かった。




