第26話:【戦士】が隣にいる夜
明日はいよいよ三十層に挑む。 準備は、正直に言ってやり尽くしたと思う。
バロンさんから譲り受けた装備は完璧に調整され、刃の状態も申し分ない。回復薬や補助用の魔道具も、最悪の事態を想定して一通り揃え直した。理屈の上では、これ以上手を入れる余地はないはずだった。
それでも――腹の底がわずかに冷えるような、落ち着かない感覚が消えない。 俺が転生者であっても根が小心者だからか、あるいは本能が深淵の気配を感じ取っているのか。
宿の共用スペースでアルフレッドを見つけたのは、そんな時だった。 彼は窓際の席に座り、暮れなずむ王都の街並みをぼんやりと眺めていた。
「……珍しいな。こんなところで黄昏れてるなんて」
声をかけると、アルフレッドは一瞬だけ肩を揺らし、こちらを振り向いた。
「テオドールか」
「考え事か? リーダー」
そう聞くと、彼は否定も肯定もしない、どこか遠い目をして曖昧な表情を浮かべた。
「……三十層だからな」
それだけで、言いたいことはだいたい察しがついた。 俺も同じことを考えていたからだ。
俺は向かいの椅子に腰を下ろした。彼は鎧こそ脱いでいたが、愛剣だけは壁に立てかけ、すぐに手が届く位置に置いている。無意識なのだろうが、その指先が時折、剣の柄を確かめるように動いていた。
「そこを越えれば、世界が一気に変わる境目だ」
「……そうだな。これまでは、いわば『予行演習』だったと言わんばかりの噂ばかり聞くよ」
アルフレッドは、冷めかけたカップの縁を指でなぞりながら言った。
「僕が【勇者】として選ばれた意味……それを、明日あたりで残酷に突きつけられる気がしてね。今の僕に、その資格があるのかどうかをさ」
少しだけ、言葉に詰まった。 俺は勇者じゃない。神から使命を授かったことも、世界の運命を背負わされたこともない。 だが、物語としての『勇者』が背負わされる重圧の正体なら、前世の知識で知っている。
この世界が正しい勇者の物語なら、こんな中盤で躓くはずがない。 そう励まそうとしたのに――口を突いて出たのは、全然違う、もっと個人的な言葉だった。
「……なあ、アル」
少し間を置いてから、俺は彼を見据えた。
「勇者としてどうあるべきかなんて、俺には分からない。お前にしか分からないことだ」
「……うん」
「でも、あの時……一緒に村を出て、ここまで来られてよかったと思ってる。お前が勇者だからじゃなく、お前だったからここまで来られたんだ」
自分でも意外なくらい、言葉は素直に出てきた。 アルフレッドは少し驚いたように瞬きをし、それから憑き物が落ちたように小さく笑った。
「テオドール……。お前はいつも、僕が一番欲しい言葉をくれるな」
「柄にないこと言わせんな。だから、今日はもう寝ろ。寝不足で足がもつれて負けたりしたら、俺は一生笑い種にしてやるからな!」
俺が茶化すと、アルフレッドは照れくさそうに鼻を掻き、「わかったよ」と立ち上がった。
アルフレッドと別れ、自室へ戻ろうと廊下を歩いていると、向こうから軽い足音が聞こえてきた。
「……あ、テオ」
聞き慣れた声に振り向くと、そこにいたのはフィリアだった。
「こんな時間に珍しいね。寝付けないのか?」
「そっちは……装備の最終確認?」
俺が頷くと、フィリアは少しだけ安心したように微笑んだ。だが次の瞬間、その表情がふわりと曇る。
「私……実は、すごく不安なの。三十層を越えたら、本番の“試練”が始まるって聞いてるから」
彼女の手が、自らのローブの裾をぎゅっと握りしめる。
「私も……【魔法使い】としての資質を、迷宮に試されるんでしょ? もし、私の魔力が通用しなかったら……」
俯く彼女の声は、微かに震えていた。勇者の幼馴染として、彼女もまた「特別」であらねばならないという強迫観念に晒されているのかもしれない。
「テオは……怖くないの?」
少しだけ考える。
「怖いさ。死ぬのも、仲間を失うのもな」
「……テオでも、そう思うの?」
「当たり前だ。でも、そういう意味じゃ、俺も【戦士】としての資質を問われる立場だよ。お前たちを守り切れるかどうかっていうな」
「私は……テオみたいに強くないから」
「フィリアは十分強いさ。お前の魔法がなけりゃ、俺は今頃ゾンビの餌だ」
咄嗟に出た言葉に、嘘はなかった。
「でも……私は、あなたみたいな特別な人間じゃないから」
「俺が特別だと? 買い被りすぎだ」
俺は自嘲気味に笑ってみせた。
「勇者でもないし、聖女でもない。派手な魔法も使えない。ただ剣と盾を持って、お前たちの前に立つだけの、どこにでもいる戦士だよ」
フィリアは顔を上げ、じっと俺を見つめた。
「テオはいつも冷静だし……私が焦ってる時も、ちゃんと受け止めてくれる」
「……そうか?」 「
そうだよ。それに……テオの隣は、なんだか不思議と居心地がいいの。安心するっていうか」
彼女はそこまで一気に言うと、顔を真っ赤にして踵を返した。
「……だから、明日もお願いね! 私たちを、ちゃんと守りなさいよ!」
「ああ。任せとけ」
「じゃあ、お休み。お互い、絶対に生き残ろうね」
俺は軽く拳を上げて応じる。フィリアは恥ずかしそうに目を伏せながらも、最後には小さく、けれど確かな意志を宿した笑顔を見せてくれた。
夜の空気は冷たく静まり返っていたが、 心の奥には、明日へ踏み出すための確かな温もりが灯っていた。




